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書いた小説なんとか読んでもらいたくて

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#エッセイ

【最終回】おわりとはじまり

このシリーズはこの投稿で最後にします。僕は実際のところ、何かを物事を始めたらきちんと「終わらせる」ということを心がけています。そうすることでまた何か新しいことを始められる気がするからね。 僕は音楽を通して、ものを書くということの楽しさに目覚めました。 自分一人ではこうならなかっただろうし、図らずもそういう機会を与えてくれた友人たちに感謝しています。 作品の宣伝を目的にはじめたこのnoteですが、何か少しでも「おやっ」と思ってもらえたならば嬉しいです。 最後に、自分の顔

【そろそろ終盤】アンソロジーとは対バンライブである。

宣伝してきた本が事実上発売されたので、そろそろこのシリーズもまとめに入ろうかと思っている。 文芸誌「棕櫚」はいわゆる「アンソロジー」である。一冊の本が大勢の作家の作品で成り立っている。したがって、個々の小説作品はおよそ20〜30分もあれば読み終えるほどの短編が中心となっている。同人誌とも呼ばれる。そして アンソロジーとは、対バンライブである。なんか急にすいません。 僕はもともと小説よりも先にインディーバンドで音楽をやっているのでこうなる。一応馴染みのない方のために説明す

正直、通販というのは面倒なものである。それでもなお

さて、このnoteでずっと宣伝を続けてきた文芸誌『棕櫚 第7号』ですが、刷り上がりました。現在通販でご購入いただいた方への発送が開始されています。 通販受付はこちらから。 本サイトはBASEという通販モール運営会社のシステムを使ったもので、このサービスは私のバンドの通販サイトにも長年使わせてもらっている。決して怪しいものではありせん。 決済はクレジットカードもしくは銀行振込のいずれかに対応している。 価格は1,000円。 薄い本ではない(物理的な意味)。お値段分の読み応

あの立ち入り禁止の池で見たものに関して

これまで文芸誌「棕櫚」に四作の短編を書いてきた。今月発刊される「棕櫚 第七号」に掲載されている僕の短編小説「第四池」では、初めて実体験をもとにした作品を書いた。書き出しはこうだ。  第四には絶対に近寄るなよ  僕が小学生の頃に住んでいた東北の田舎町には、山の斜面に造られた市民公園があった。五月に入ると、ゆるやかな傾斜に沿って順番に並んだ三つの人工池の周辺は桜で満開になり、散り落ちた花びらで水面が桃色に染まるのが綺麗で、僕は春が来るのを毎年心待ちにしていた。 序盤

君が泣くまで宣伝をやめない?

しばらくnoteお休みしていましたが2月に入ったので再開します。 何故休んでいたかと言うと、ちょっと勢い付いて書きすぎたからです。もともと本の宣伝のためにはじめたこのnoteですが、やっぱりTLが宣伝ばかりになってしまっては、いただけない。 インディーの私たちは自分の作品を自分で宣伝するしかないのですが、ライブの告知、本の宣伝、どちらも普段のなにげない面白おかしい投稿(食べ物とかね)に比べると正直明らかに反応が少ないです。いつもそう。きっとみんなそう。でも、くじけてはいけ

絵画と活字のシナジーに関する実験(継続中)

数あるメディアの中で「一枚の絵」というものはそれ自体かなり力のあるものではないかと思う。何故なら、一瞬で全体を理解できるので。音楽なら全体を聴くのに通常であれば数分かかる。なおさら短編小説なら数十分かかる。絵なら、一瞬でそれが脳内に映し出される。 文芸誌「棕櫚」には幸いなことに多くの絵画アーティストが作品を掲載してくれているので、パラパラと紙面をめくっただけでも大変良い気分になれる、というのが良いところです。 見よ。それ自体が語りかけるこの作品たちを。 本誌にはまだまだ力

心の中のジュヴナイルを取り戻したかっただけなんだろうか

(挿絵イラスト 千年 迦楼羅) これまで棕櫚に短編を四作書いてきたが、結果的にどの作品にも自分が若く未熟だった頃の体験が色濃く反映されているように思う。最初から意図しているわけではないものの、出来上がってみるとどうしてもジュヴナイル小説的な要素がにじみ出てしまう。別に嫌ではないのだが、成人してから二十年以上も経っているのに、作品に無意識にそういうところが出てしまうというのも少々気恥ずかしいものがある。勝手ににじみ出てしまうものなので仕方がないというか、まあ、おそらく自分の書

曲を作るように小説を書いてみようとした

普通あまり言わないだろうしあえてこんなこと言うのも格好の悪いことかもしれませんが、このシリーズをnoteではじめてしまったので、最後まで書きます。私の小説の書き方についてです。 詞先(しせん)、曲先(きょくせん)という言葉が最近一般的に知られているようです。歌のついた曲をつくる時、詞を先に書いてからメロディをつけるか(詞先)、先にメロディを決めてから歌詞を書くか(曲先)という意味で使われますが、私が曲を作る時はほとんどの場合まずメロディが出来てから詞を書いていくという順番な

小説を書くことになった経緯

私は十五年ほど前から今のバンドをやっていて、でもそのバンドを始めたときからメンバーそれぞれ普通に仕事もあって、家庭もあって、という状態でした。それもあってライブや音源制作も、多くのインディーズバンドと比べて非常にスローペースにならざるを得なかった。それでも音楽活動を中途半端なお遊びにするのは本当に嫌だったので、仕事のかたわらどこまできちんとした活動をできるかという事が大きな課題として常にありました。 そこで、ライブの本数をあまり組めないかわりに、音楽活動に付随するあれこれを

書いた小説なんとか読んでもらいたくて 序文

はじめまして。椋田裕生といいます。「くらたゆうき」と読みます。マルカフェ文藝社という団体が定期的に発行している「棕櫚」という総合文芸誌で小説を書かせてもらってます。2019年2月21日にその最新号である「棕櫚 第七号」が発行されます。その本と、そこに掲載されている私の作品を少しでも多くの方に読んでもらうためには果たしてどうしたらいいのかなと思って、発売日までのあいだ定期的に文章を書いてみることにしました。 小説を読んでもらうために別の文章を書くのも少し奇妙な話ですが、今回は

作品の良し悪しについての考察

主に文字のみで構成された作品の良し悪しとは、何なのでしょう。小説とか、短歌とか、今書いているこの文章とか。 私の答えは「わかりません」です。 正直、わかりません。有名でも無名でも、私が何か人の作品を読んだときに、今後もこの人の作品を読みたいと感じる基準は 好き か あまり好きでない  あるいは 気持ち良い か あまり気持ち良くない くらいの、非常に私的で曖昧な感覚しかありません。もちろん、自分が書いた作品について言えば、間違いなくそれは自分が「好き」で「気持ち良い」も