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ぬるま湯がわたしを誰かと繋ぐ

本ばかり読んでいると、日常のありふれた出来事に既視感を覚えることがあり、それがある小説の中の出来事だったと思い出すことがある。

日差しがだいぶ和らいだので、昼休みに外の喫煙所まで出て行ってたばこを吸うようになった。

大学生の頃、喫煙者であることを知らせずに付き合っていた元恋人と喫煙所で顔を突き合わせることになろうとは思ってもいなかった。

お互いの苦境を簡単に告げて、各々の場所へ戻って行く。もうそこには、あの頃の熱や焦がれはない。

そんな恋人とは、日々の癒しとしてよく地元の日帰り温泉に行っていた。

確か8月、いくつかある湯船のうちでいちばん熱かったものがなぜかとんでもないぬるま湯だったことがあった。

冷房で冷えた身体を温めたいのに、一向に温まることはなく、寒いとも冷えるとも言えない、なんとも気持ちの悪い感覚に陥った。

そのまま浸かっていれば温まるのでは、と思い10分ほど我慢するものの状況は変わらない。しかし、この気持ち悪さに何故だか既視感があった。自分の実体験の中にはないはずなのに、どこか知っている感覚なのだ。

頭に浮かんだのは太宰治の短編『美少女』の中の光景だった。

湯治場で気持ちの悪いぬるま湯に浸かる主人公は一人の美しい娘に目を奪われる。その少女を見ていたいがために、気持ち悪さに耐えて湯船に浸かり続けるのだ。

自分の感覚が文学の一部と深い部分で同期していて、あたかも自分の体験の一つのように思わせられる。

本を読む人にとっては、時折起こることかもしれない。わたしにとっては、初めての体験で忘れがたい出来事である。

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