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人見知り考 ~『ナナメの夕暮れ』に思う。

最近読んだ本のなかで、ちょっと印象に残っているのが、若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』です。読んだことある、という方も多いかもしれませんね。

著者の若林さんはお笑い芸人であり司会者。日頃ほぼお笑い番組は観ないのですが、たまたまテレビで若林さんが作家さんと対談しているのを観たことがあって、面白い考えの人だなあ、作家さんと対等に小説の話ができるなんてすごいなあ、と思ったことがありました。きっとすごく知識を持ってる人なんだな、と。

若林さんが「人見知り」であるらしいというのも聞いたことがあり、人見知りを自認する自分としては俄然興味がわいた、というのもあります。エッセイは普段、苦手分野で手にとることもあまりないのですが、とても面白く一気に読みました。

若林さんご自身が今まで「人見知り」だと感じていたのは、大人の実社会に対して自分がゲストだったから、なのだそうです。

年齢を重ねれば、周りの人はどんどん年下になり、意見を求められたり、こちらから話しかけたりする頻度も増える。批判したら代案を求められるから、ちゃんと自分の意見も持たないといけない。若い時のように尖ってばかりいるわけにはいかない ―だから、人見知りなんかしている暇はないのだ、おっさんはゲストではなくホストなんだ、ということが書いてありました。

なるほど確かにそうかもしれない。歳を重ねると、それだけ多くのものを求められるようになります。社会の中にいると、人見知りをしている暇はないのかも。

私自身も「地域づくり」というカテゴリの中で活動していると、自分から話しかけることを強いられる時も多いし、時には目の前に多くの人がいる状況で発表をしなければならないなんてこともあります。(写真は「くるみの木」の石村由紀子さんがいらっしゃったときの対談)

小学生の頃は人前で喋るだけで涙が出てくるような子どもだったのに。中学生の頃は大人と話すのが嫌で嫌で、よく怒られていたのに。でも若林さんに言わせれば、その頃の自分は社会にとって「ゲスト」だったということなんですね。なるほど~納得です。

今は「人前で話すなんて嫌だ」と言っても、他にそれをする人がいないのだから、やらないといけない。一応代表理事だし…。どうせやるなら、ちゃんとやりたいし。だから勉強して、練習して、何とか形にする…その繰り返しで、若い頃に比べればずいぶんと人前で言葉が出てくるようになったんじゃないか、と思っています。(ちなみに今も、来月に予定されている事例発表の資料作りであたふたしています。)

自分が社会において「ホスト」側となるにつれ、少しずつ耐性がついてくるのかもしれません。

でもそれはあくまでも「仕事だから」、あるいは「社会を円滑に進めていくために必要なことだから」耐えうることであり、個人的にはやっぱりまだ人見知りです。初めましての人と話すのは苦手だし、前にも書いたけど集合写真も苦手です。

でも、歳を重ねれば社会的な立場でのありようを求められるのと同時に、今の世の中「いろんな人がいてもいい」という考え方もありますよね。そう、「多様性」!だから、「地域づくりをしてるのにスタッフが社交的じゃない」というNPOがあってもいいのです。

シャイな人から見た「地域」のあり方も、ひとつの側面として見せていく意義があるんじゃないかなと思う。きっと私たち、今までの地域づくりとはまったく違う視点で、島根を見ているんだと思うのです。

それは社交的な人にはおそらく、想像することもできない視点。例えば、イベントに行く勇気がない、という人のためのイベント。「ママさん」と十把一絡げにされるとモヤモヤする…という人のための学びの場。見ず知らずの人とわいわい参加することは難しいけど、お料理には興味がある、という方のために、ひたすらに長いワークショップレポート…。どれもビジネスにはなり得ないけれど(だから誰もやらない)、自分だったらこういう発信をしてほしい、と思うことを積み上げて企画しています。

NPOとは本来広く開かれているべきものですが、「閉じているところに語りかけ、開いていく」という役割もあるんじゃないか。そこから、新しいつながりや、今までと違う視点が誰かに届いて、島根が楽しく、豊かなものとして認識されることこそが、自分たちのミッションだと、12年活動してきた今、しみじみ感じています。




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