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ランチのサラダがおいしいと幸せ。”思いは細部に宿る。”

ここ1年はなかなか「外食を楽しむ」という体験ができなかったのですが、仕入れや取材で出かけるとランチを現地で食べることになるので、行く先々でおいしいお店を開拓する、というのが楽しみでもあります。これは地域の魅力を発信する自分たちの使命でもある、と考え(おいしいものが食べたいだけ、というのもありますが)、皆さんにご紹介できるような素敵なお店を求めてさまよう日々を送っていました。

お気に入りのお店があると、出かける動機づけにもなります。

自治体がどんなにPRをするよりも、素敵なカフェやパン屋さんが1軒あるほうが、地域へのインパクトは強いというものですよね。

自分自身が料理好きだからこそ、外で食べるごはんは「こんなおいしいものをどうやって作るんだろう?」というわくわくを感じさせるものであってほしい、という勝手な願望があります。

それはいわゆる「映え」とかではなく、「純粋に味が良い」「真似したくなる」ものであってほしいという、ごく当たり前の願望。
期待値が大きい分、裏切られた時のがっかり感(お金出して食べてこれかぁ…という気持ち)も大きくなります。

外でごはんを食べていつも思うのが、「思いは細部に宿る」ということです。

例えば、ランチの前菜として出てくるサラダ。

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私にとっては、「これからどんなメインが出てくるんだろう」というわくわく感をさらに膨らませてくれるのがサラダです。

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彩り豊かな野菜が的確に使ってあったり、野菜によって調理法が変わっていたり、盛り付けに気をつかっておられるのが分かったりすると、ときめきが増します。

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特に珍しい野菜を使わずとも、例えばドレッシングが凝っていたり、ちゃんとみずみずしく食べられるように処理されているのが分かったりすると、

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ああ、食材をリスペクトしているんだなあ、と俄然調理されている方への信頼が沸いてきます。

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逆に、「…これは野菜がかわいそうだよ」と悲しくなるような、水気を失ったしなしなのキャベツのサラダ、かさかさの野菜に某メーカーのドレッシングをかけただけのサラダなどに出会うと、「どんなメインが出てくるんだろう!」というわくわく感は「…どんなメインが出てくるんだろう…」という懐疑的な気持ちへと変化します。そして、その嫌な予感は当たることが多い。

サラダという「メインではないもの」に対しても手間を惜しまず、最大限おいしくなるように気を配ってくれること。
レタスときゅうりだけのシンプルなサラダであっても、感じることができる「おいしく食べてほしい」という思い。

それこそが、自分が受け取りたいものなのです。だからこそ、思った以上のホスピタリティを受け取ったらすごく感激するし、逆だとめちゃくちゃ悲しくなります。

”野菜を皿に入れたらサラダ”というわけではないはず。
おざなりにするくらいなら、「サラダつき」ってメニューに書かないでほしいなあ‥と思ったりもします。


…と、書けば書くほどお店の批判みたいな文章になってしまって焦るのですが、これは決してランチのサラダをちゃんと作ってほしい、という話ではなく、「思いは細部に宿る」ことの一例です。

ほかにもいろいろ、暮らしのなかで同じように「ああ、作り手の矜持を感じるな」と感じること、ありますよね。

「これでいいんでしょ」じゃなくて、「こうしたらもっと良くなるかな」という、ちょっとした配慮なのですが、それそれ!それ大事!と思うこと、ありますよね?

例えばガーデンショップに行った時、庭の状態を聞いたうえで適した草花をアドバイスしてくれたスタッフさんには、買った後のこともちゃんと考えてくれているんだなあ、と嬉しくなったし、娘の受験に付き添った帰り、ホテルのフロントで娘の制服姿を見たスタッフの方が、「お疲れさまでした!頑張られましたね」と笑顔でキットカットの箱を渡してくれた時は、「おお、ホテルマンっぽい!」とドキドキしました。

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くらしアトリエの活動をしていても、商品に対して細部にまでこだわりがあり、それをまっすぐに伝えてくださると「応援したい!」という気持ちになるし、買った後のフォローや使い方に対しての注意がしっかりしていると、こちらも安心します。

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細部に宿った思いは、職業に対するプライドでもあるし、「自分ができる最大限をしよう」という熱意の表れでもあります。それを受け取るから、人は心を動かされるんですよね。

消費者、つまり受け取る側としては、やはり理想を追い求めてできたものを手渡してほしい、店のプライドを感じたい、と思うわけです。食を提供する人には「おいしいごはんを食べてもらいたい」「この空間で気持ちよく過ごしてほしい」という理想を日々頭において仕事をしてほしいし、デザイナーには「クライアントの思いを形にする」「手に取る人に意図が伝わるように」という理想を追求してほしい、と思う。

相手のことを思うからこそ、譲れないプライドがある。それは単なる「サラダつきランチ」ではなく、「ランチをどうおいしく食べてもらうか、の大切な入口であり、決して添え物ではない」と思うのです。


「そんなこと言ったって、いろいろ大変なんだよ!」というのは、受け取る側には通じないのです。消費者は正直で、時に残酷です。

もちろん、これは翻って自分自身への戒めでもあります。

受け取る側であると同時に作り手・発信する側でもあるので、「自分もいつも厳しい目で見られている」という意識を持ちつつ、ブレずに活動していかなくちゃ、と、悲しいサラダを見るたびに襟を正している、というわけです。
逆にすごく気持ちのこもったおいしいサラダに出会うと、もうその時点でメインへのワクワクで、幸せです。

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「思いは細部に宿る」というのは「神は細部に宿る」という言葉へのオマージュなわけですが、この言葉を有名にしたのは、美術作品の真贋を見極める際の心構え、というシーンなのだそうです(諸説あり)。

物事の良しあしを見極めるときに、大まかなものではなく、ディティールにより注目する、というのは、確かに!と思うし、逆に細部に何も宿っていないものを目の前にすると、なんとなく居心地の悪さや違和感を感じたりするのも分かる気がします。古くから、細やかさは大切にされてきたんですね。

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受け取る側として、いつも細部に思いが宿ったものと触れて暮らしていきたいと思うのと同時に、自分自身も発信者として、言葉の隅々まで、プロダクトの端々にまできちんと思いを乗せて、今できる最大限をやっていこう、と思います。

当然ながら、忙しさに流されて忘れちゃったり、理想がいつの間にかどこかへ行ってしまったりすることもあります。なんとなく気持ちがフレッシュになるこの時期だからこそ、いま一度「始めたときの理想」に立ち返って考えてみたいと思い、思いを言語化してみました。

全体を通してサラダ批判みたいになって大丈夫かな…と思いつつ、伝えたいことがちゃんと届くことを願っています…。

つまりは、おいしいサラダに出会うと幸せの予感がする、ということ。
心を込めてランチを提供してくださるんだなあ‥と。

暖かくなってきて、野菜がぐんぐん育って、これからますます野菜がおいしくなる季節、サラダからもりもり幸せを感じたいですね!

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