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鹿野芸術祭2022「物語が眠るまち」のこと

バタバタだった2022年が終わりつつあり、年末に向けて何がバタバタだったのか振り返りをしようのコーナー第1弾。
今回は、鳥取市鹿野町で11/20-23に開催された鹿野芸術祭のこと。(写真は全て鹿野芸術祭2020→2022を撮り続けたカメラマンの青木幸太さんが撮影されたものです)

2016年からスタートした鹿野芸術祭は、コロナ禍前までは年1ペースで開催されていたのですが、ご時世を鑑みて、2020→2022として3年をかけて制作・発表するという形でプロジェクトを進行していました。
私は、2021年からプロジェクトに参画し、ディレクターのひやまちさとさん、創設メンバーで画家の藤田美希子さん、制作の言葉を担うwakrucaさんを主とする運営チームをアートマネジメントの観点や広報周りでサポートするアシスタントディレクターのような役回りで動いていました。
チームに関わる中で、アーティストの山本晶大さんやカメラマンの青木幸太さん、鳥取にUターンした時から仲良くしてくれているほぼ同い年の宮原翔太郎さん達ともやりとりをしながら、今回の展示を実現させました。

アーティストではなく、運営という立場で関わることは、私にとって当たり前のような風景。これは学生時代から変わりません。小〜大規模のイベント運営スタッフ、映画制作スタッフ、ワークショップの設計など、いろんなプロジェクトの裏方と呼ばれるような立場を担い、プロジェクトを実現するためのあれやこれやをやってきて10年以上が経ちました。私としては、「裏方=運営する、だけ」という考えではなく、「企画→運営・制作→発信」という流れに全て関わる「プロジェクトデザイン」をしているのだ、と捉え、毎回いろんなプロジェクトに関わっています。

そんな私なのですが、今回は、その一連の流れからさらにステップアップ。
藤田美希子さんの作品・大絵巻絵画「Forest」を用いた対話型鑑賞の案内役や、アーティストトークの進行役として藤田美希子さんと宮原翔太郎さんと対談をしました。

今までの自分は、表に立つのを極端に避けていたように思います。裏方の仕事が性に合っている、ということもあるかと思いますが、表に立って上手く回せる自信が無かったのです。失敗する場面が多く、「自分などいなければ良い」と思う時間の方が長い20代でした。
ただ、状況と立場によって、自分という人間が培ってきたものを頼りにしてくださる方が増えてきたように思います。そういった方々とやり取りしていくと、徐々に失われていた自信を少しずつ取り戻す、というか新たな形で自分自身を肯定することが出来たのです。さらに30代に突入したことで、「今までと同じじゃつまらないな」とか「踏み込んでみたい挑戦してみたい」という思いがあり、苦手としていた進行役・ファシリテーションに挑戦し続けているのが、鳥取にUターンしてからの4年間なのだと思います。

未だに苦手意識は拭えないし、決して進行が上手いわけではありません。ただ、下手なりに新しい世界が見えてくる、と言いますか。学生時代に感じていた「初めてのことを知り、実践しながら身についてくる」という感覚が再び戻ってきたように感じています。
また、鹿野芸術祭メンバーの包容力というか、カバーする力であったり、鹿野町が元々持っている受け入れ力のようなものが、私にこのプロジェクトで新たな挑戦をさせてくれたり、今まで培ってきた自分の力を遺憾なく発揮できたのかなとも思っています。

少し裏話をすると、4日間という短い会期の中、後半2日間はディレクターのひやまさんが体調不良で現場を離れ、私が代理ディレクターのような立場で急遽現場を回していました。私としては、元々自分がアシスタントディレクターのような役回りでこのプロジェクトに参画しているということや、自分の経験値的に大規模イベントのスケジュールやスタッフ管理をしていたためなんとかなるだろう、また各アーティストは自分の作品やそこに来てくれるお客さんのことを考えて欲しいという思いがあり、全体統括は私がやらねば、という意識でした。急な対応だったため、常に脳が回転し心休まらない状態ではありましたが、自分1人で統括するのではなく、周りに頼りながら進行しました。統括拠点となるインフォメーションスペースで相談できるメンバーが常駐してくれたことや急な対応に駆けつけてくれるサポートスタッフさん、困ったことがあれば力を貸してくれるNPO法人いんしゅう鹿野まちづくり協議会の小林清さんを始めとする鹿野の皆さん、倒れながらもやり取りしてくださったひやまさんなど。本当に多くの方の協力で乗り切ることが出来ました。心より感謝いたします。

私は20代の頃、ディレクターやプロジェクトリーダーという立場で、失敗する場面が多く、人に頼ることや関係者に迷惑をかけてしまうことに対しての恐怖や申し訳なさが先行してしまい、いつしかそういった立場をすることを極力避けていました。先述した”表に立つ”というとこにも通じます。とにかく自分という存在がいることで周囲に苦痛の時間を与えるのが嫌だったのです。

そういった過去はあるのですが、今回の鹿野芸術祭でそのような思いは、ある意味で払拭出来たのかなと思います。もちろん先述したような”鹿野芸術祭メンバーの包容力というか、カバーする力であったり、鹿野町が元々持っている受け入れ力のようなもの”というものがとても大きいですし、私自身は、「抱え込まない。他者を信じる。」ということを貫いたのが良かったのかなと思っています。
ディレクターのひやまさんから「鹿野芸術祭を手伝って欲しい」と声をかけられた際、私は心身ともに調子を崩しており、やりたい気持ちはあるけど上手く関われるか分からない状態でした。そんな状況を伝え、しっかりと話を聞き、受け止めてくれたひやまさん。みんなマイペースだから、ゆっくりペースでOKや互いに無理をしないこと、体調に影響が出たら休もう、など口頭での注意喚起だったかもですが、そういったことをプロジェクトを統括する人から言ってもらえるというのが、すごく嬉しかったことを覚えています。ひやまさんを始め、鹿野芸術祭のメンバーは、いろんな経験をしてプロジェクトに参画しているので考えも多様。ただ「他者を思いやる」「傷ついた物事を受け入れる排除しない」という考えが無意識として全員共通にあるように感じており、そういった空気感が私としてはとても有り難いものでした。

私の「蔵多」という苗字のルーツは、現在の鳥取市青谷町蔵内近辺で問屋を営んでいた家系だから、というものだそうです。この蔵内という地名は、鹿野町に限りなく近いため、亡き祖父母を始め先祖代々「蔵多のルーツは鹿野」という認識でした。そういったこともあり、ひやまさんから鹿野芸術祭についてお声がけいただいた時は、「あぁ、先祖に呼ばれたのかな。縁だな〜」なんて思いました。なので、先祖が見ていたかもしれない景色で自分が仲間達と一緒に新しい景色、見たことのない4日間を作っていた、ということを面白く感じています。

鹿野芸術祭2022「物語が眠るまち」の展示期間は終了しましたが、現在もプロジェクトは進行中。アーティストやイベント担当者がそれそれの観点でレポートを執筆しており、年明け1月中旬ごろにWEBサイトへ掲載するように各自で進めています。私も対話型鑑賞についてのレポートをまとめています。また、記録映像や音声配信も準備中。「企画→運営・制作→発信」とプロジェクトは続いていくのです。そんな記憶の記録を是非覗いてみてくださいね。

(2022.12.06追記)藤田美希子さんとのアーティストトークが音声配信されました🦌


いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。