見出し画像

僕はそれでも野球を続けた / 中学野球編②


長い怪我人生活を終えて、

足が完全に治ってからは人よりも走った。長距離走やランメニューもこれまでの分を取り戻したくて必死に走った。するとチームでも早い方になっていた。

バッティングは小学生の時のように簡単にボールは飛んでくれなかった。それでも自分はパワーヒッターなのだと信じて打撃スタイルは変えなかった。バッティング練習は毎回楽しかった。

硬式野球で初めて試合に出たのは2年生の夏休みの終わりの時で9番レフトだった。

その時、指揮をとっていたのは佐藤コーチという方で、今は神奈川県の桜ヶ丘駅の近くで「かじふち」というカフェをやっている。

恩師の佐藤コーチ

そこのランチはおしゃれで、味も含めて最高なので是非行ってみて欲しい。

話が逸れたが、

自分は本当に下手だった。チームの誰よりも下手だった。メンバーからも2回外れた。

それでも佐藤コーチは練習試合の時に自分をスタメンで使ってくれた。少年野球の時には試すことすらしてもらえなかったから、本当にありがたかったしスタメンだったこともあってとても気合が入った。

それに、B戦の2試合目といえども「瀬谷シニアで試合に出れた」ということが本当に嬉しく野球が楽しかった。

おそらく自分が中学3年間で試合に出たのはこの時期の数試合のみで打席数にして15打席ほどだと思う。自分はかなり頑張って3本くらいヒットを打ったので、少ない出番ながら打率.200くらいは打ったと思う。なかなか頑張ったぞ。だってチームで1番下手くそだったんだから。


このまま練習やトレーニングを重ねて上手くなればレギュラーにはなれずともチームの戦力になれるかもしれない!と思った。

だからこそ、

完全復帰したはずだった。


したかに思えた。
でもだんだんと異変は大きくなっていった。

「ボールが投げられない」

これが前回にお話ししたイップスである。
キャッチボールを終えてシートノックに入って仕舞えばなんともない。ただキャッチボールとトスバッティングが鬼門だった。

暴投をして嫌な顔をされるとますます投げにくくなり、また暴投をしてしまう。するとまた嫌な顔をされてしまう。するとさらに投げにくくなり…さらにさらに…と、負の連鎖はどんどん大きくなっていった。

通常キャッチボールはこのように横並びで行う。

○  ○  ○  ○  ○
Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ
Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ  Ⅰ
○  ○  ○  ○  ○

しかし、自分が相手の胸にノーバウンドで投げようとしたボールは儚くも隣のそのまた隣の人のところへ転がっていった。

中学生の時にはイップスを知っている選手は周りにおらず、自分でもこれがイップスだとは認識していなかった。

その状況で見当違いなところに投げてるやつがいたら周りはどう思うか。「ちゃんと投げろよ」と。でも自分は相手を懲らしめるためにわざと暴投を投げるような人間では無いので真剣にやっていた。

普通に投げるとまっすぐにすら投げられず、「暴投してもいいから思い切ってもっと上に投げろ!」と言われてその言葉に甘えて思いっきり投げると、大大大見当違いの大暴投になってしまう。

もうこれには周りはかける言葉もない。
本当に精神的にきつかった。ボールを投げられなくなった自分に対して責めることもあったし、責めなくとも切なく悲しかった。真剣にやっているのに人からちゃんとやれ、真面目にやれ、と言われるのも本当に苦しかった。

その苦しさに耐えきれなかった自分は3年生になってすぐ


「肘が痛いです」


と、はじめて指導者に嘘をついた。

本当に苦しかった。痛くて投げられないのももどかしいが、身体が元気なのにどうやっても投げられないのはもっと最悪だ。これは経験者にしか分からない苦痛だ。野球をこれ以上続ける気などどこかに飛んでいってしまうほどのものだ。

そして自分はそのまま復帰することなくシニアでの活動を終えた。



イップスという言葉の意味を初めて教えてくれたのは野球ゲームのパワプロに出てきた青葉春人であり、

そして今自分が悩んでいる症状がイップスだと教えてくれたのは、小学校の時からシニアの時も通っていた野球塾「コロナベースボールアカデミー」のコーチである元楽天の戸叶尚さんだった。


戸叶さんは元投手だった。おそらくイップスになったことはなさそうだったが、親身になって教えてくれた。

初心者以下のレベルのキャッチボールだったのが、小学校低学年くらいのキャッチボールくらいならできるようになっていた。

自分は例えレベルは小学校低学年レベルだとしても相手のもとへ投げれるようになったことが本当に嬉しかった。戸叶さんがいなければ、今の自分はいないし、間違いなくここまで野球を続けることは無かったはずだ。




中学3年間で立った打席数は約15打席
チームで1番の下手くそで
打ったヒットは約3本
そして重度のイップス


それでも野球を続けることにした

自分の可能性だけは信じていた。プロになるんだ。プロになるためにいい高校に行く必要がある。そしていい大学に行く必要がある。

だったら公立より私立だ。

勉強は苦手だったが、野球の推薦で行けるチームがある訳もないため、勉強を頑張った。野球の有名な大学に入るためにも勉強がある程度できるところを探した。

勉強が苦手だったため、一般入試をしても失敗するのは目に見えていた。だから推薦入試で入れるところを探したし、そのために内申点を稼いだ。5教科19+英検3級を加算して内申点は20。オール3だった2年生の頃からオール4程度まで上げた。

高校を選ぶ時に学力の他に野球部のレベルを重要視した。

神奈川県でいうと、横浜高校や東海大相模のように圧倒的なレベルなところに行けば埋もれてしまう。かと言って弱いところで試合に出ても仕方がない。

そしていくつも高校を見学した結果、選んだのが神奈川県の私立である

「藤嶺学園藤沢高校」だった。

そして、このときの選択が大正解だったことを当時の自分は知る由もない


次回、高校野球編に続く。

いつもご支援ありがとうございます。 夢や目標を叶えるために使わせていただきます。