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〈小説〉 秋桜の風

 康子の父が昔から仕えている土師氏は、箆津国を治める有力な豪族である。父はいつも土師氏現当主である倫明のことを、じつに立派な名君であると褒め称えていた。康子は実際に倫明に会ったことはなく、父からそうした話を聞くばかりである。実際倫明がどういった人物なのか知らないが、少なくともこの辺りで倫明のことを悪く言う者はなかった。倫明の父、嘉明もすぐれた人物であったが、倫明はさらに人々に慕われているようだった。

「倫明様の奥方のお輿入れも、もうすぐねえ」
 どこか落胆した様子で呟いた母のほうを、康子は裁縫の手を止めて見た。この辺りは幸い早くに平定されており、争いらしい争いもなかったのだが、このたび東国に大規模遠征がおこなわれることになった。そのための下着を急ぎ縫い上げているというのに、母はそんな様子であまり捗っていない。この分だと康子がほとんど仕上げなければならないかもしれない。

「母上、そのようなことを仰って、また手が止まっているではありませんか」
 康子がため息とともにそう言うと、母は何ともいえない表情で康子を見た。康子は母の言葉が想像できてしまうことに半ばうんざりしながら、再び針を取った。

「……あなたがあの時倫明様の御言葉を拒みさえしなければ、あなたが正妻としてお輿入れしていたのかもしれないのですよ。それを、そのような……私はこのお着物が倫明様のものであればどんなにいいかと、何度思ったか知れません。それを、あなた……」
 母は今にも泣き崩れそうだ。こういうとき、泣き真似をしないだけ、まだ母は良心的かもしれなかった。母に泣かれるのはつらい。それでも、自分にも譲れないものがある。

「母上、そのようなことこそ、今言い連ねても詮無いことでしょう。私とはご縁がなかったのです。それを今さら騒ぎ立てたところで、今度お輿入れなさる姫君に申し訳が立ちません」
 倫明の正妻となる女性は、康子の母方のまたいとこにあたる。康子とはやはり面識のない人だったが、その才覚や美貌たるや、方々に轟くほどだと言われている。美男の誉れ高く、光源氏の再来かと噂されている沖永氏からも、再三の申し入れがあったと噂されていた。それを断っての、縁談だった。

「そうは言っても、あなた……それはかの姫君ほどの美しさはないとしても、あなただって歌才に優れ、地位もある姫君ですよ。それを……若い時分を無駄に過ごして、あとで後悔しても遅いのです。土師氏当主である倫明様の、いったいどこに不満があるというのやら」
 母はそう言ってため息を吐いた。やはりその手は止まったままだ。もはや裁縫などするつもりがないのかもしれない。康子はその分手を動かしながら言った。
「不満など何もございません。ただ、折が悪かったのですよ。そういうご縁がなかったというだけです」

「折もご縁も何もないでしょう。あなたはもう少し、自我を抑えることを学ぶべきなのです。確かにこの時勢を生き抜くには、おなごであろうとも夫にすべてを委ねていては、子を守ることも家を守ることも叶わないでしょう。その点は私も安心できるというもの。ですが、女の幸せというのは、そういうものではありません。夫に添い、時に夫を癒し、そしてそれに癒されながら、子をうみ育ててゆく。あなたにはその重みがなぜ分からないのでしょう」

 別に分からないわけではない。康子の喉元まで言葉が出かかったが、呑み込んだ。意味のないことだったからだ。
「倫明様のことは、もう言わないで」
 康子は小さくそう言った。もうたまらなかった。いつまでもそう言われることがどれほど苦痛なのか、母には分からないのだ。姫君のお輿入れの日取りまで決まった今、康子に何ができるだろう。それならば、失ったものの価値など今さら知りたくもなかった。


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