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〈小説〉水底から見上げる

「あなたって、まじめなのね」
 エイコはそう言って背を向けた。彼女はいつも風のようだ。そうやって翻す姿が、特にそんなイメージを私に抱かせる。こうしたところが特に魔性の魅力というやつなのかな、と思う。私にはない、エイコだけが持つ抗いがたい魅力。クラスの男子はみんな、エイコに一目置いている。年齢関係なく、エイコに夢中な者も大勢いる。

「そうかな、それはエイコだからそう思うんじゃない」
 背を向けたエイコにそう言葉を投げる。思ったよりきつい響きになってしまった。一瞬焦りのような気持ちも湧いたが、エイコは特に何も言わなかった。しばらくそうして私に背を向けたまま、後ろで両てのひらを組み合わせ、伸びあがるようにして空を見ている。鼻歌でも歌っているかもしれないと思うような、楽しげで、やわらかな雰囲気があった。それを事実、風が撫でてゆく。

「そうかもね」
 エイコは振り向かずにそう言った。腰まで伸びたさらさらの髪。静かに揺れている。そのとき風は吹いていなかったので、風のせいじゃない。エイコがリズムを取るように、体を動かしているからだ。

「ねえ」
 エイコのさらさらの髪も、のびやかな手足も、私にはなかった。白い肌も、大きな目も、控え目で赤い唇も、私とはまったく別の何かでできているみたいだった。私は男子にちやほやされているエイコをうらやましいと思ったことはない。エイコには淫らな噂もついて回っている。それがどこまで尾ひれなのか、ほかの人には分からないだろう。でも、エイコは話してみるとかなり気さくで、なんでも話してくれた。自分の恋の話、家の話、進路の話。エイコはみんなが思うような「女」ではなかった。

 エイコは私にないものを何でも持っている。すぐれた容姿も、頭脳も、白くしなやかな指も。私が持ち得ないそのどこかひとつをエイコと交換できたとしても、私にはそぐわないだろう。これらすべてがエイコを形作ってエイコとなり、どこか神秘的な、至高の存在にしているのだ。もちろん、私は知っている。エイコが至高の存在などではないことを。私と同じように悩み、考え、苦しんでいる。そして喜びを求めている。素直で、明るい子だ。そう、「子供」なのだ。

「なに考えてるの?」
 不意にエイコが私の顔を覗き込んだ。整った顔立ちは、女の私から見てもきれいだと思う。何か有無を言わさぬ圧倒的な力がそこにあった。芸術と同じ。美は観念的なもの。そして存在そのものが想像以上の説得力を持つ。
 でも、それだけ。

 私は、きっとほかの人には想像もしえないような、エイコの叶わなかった恋のことをいくつも知っている。そこにじわりと染みるような優越感があることも、私は気付いていた。

「なにも?」
 私がそう言って嘯くと、エイコはわずかに眉根を寄せて私を見て、それからまた背を向けた。今度ははっきりと鼻歌を歌いながら。
 かわいそうなエイコ。あなただっていずれは老いて、衰える。その間に、あなたの恋はいくつ叶うのかしら。あなたの恋が叶わない理由を、きっと私だけが知っている。

 こんなに綺麗なのに、エイコの中には自信がない。エイコは、自分が愛されるはずがないと思い込んでいる。それこそが、エイコの恋が叶わなかった理由。エイコ自身が、エイコを愛していないから。ほかの誰も、エイコを愛せない。エイコの分までエイコを愛するような男気のある人は、きっと前時代に滅んだんだと思う。

 エイコの淋しさ、孤独、悲しさ。私は知っている。私は仄暗い思いを抱きながら、エイコを見つめた。私がエイコにそれを教えないのは、私が言ってもエイコは納得しないからだ。エイコは自信がなく謙虚で、賢く、傲慢だからだ。

 でも、それらをすべて補って余りあるほど、エイコは綺麗だった。無機質な人形のように。鑑賞用に、誰もがガラスケースに入れたがるだろう。エイコに血肉を求めない、そんな人もいるんじゃないかしら。
 そう、私みたいに。

「ねえ」
 今度は、私から呼びかける。エイコは肩越しに振り返った。その眼はどこかいたずらめいていて、子供っぽく、無邪気で、暗澹としていた。

「今度、旅行いこっか。ふたりで」
 私がかねてから考えていたことを口にすると、エイコは大きな両目をさらに大きく開いて私を見た。そしてすぐ破顔し、どこか照れたように言った。

「お金ないけど。近場にいいとこあるかな」
 私はその言葉に満足してほほ笑んだ。いいところ、あるよ。温泉もあるんだって。ほかに誰も来ない、秘湯というやつ。私と二人っきり。それって、安全かな?

「調べてみるよ」
 私がそう言うと、エイコは「うん」と言ってまた背を向けた。
 もうすぐだ。もうすぐ、計画を実行できる。
 私の家の空っぽなガラスケースに、何より美しいものが埋まる日はもうすぐ。


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