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16章 リバウンド

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「新わくわく片付け講座」を受講しても、全員が問題を解決できるとは限らない。
 また、一度は部屋が片付いた、すっきりしたといっても、二、三ヶ月たつと、また元に戻ってしまったという場合もある。
 ダイエットで、一時的に体重を減らしても元に戻ったり、反動でダイエット前より太ることをリバウンドと呼んでいる。
 整理や片付けにも、このリバウンドがある。
 K社では、講座の卒業生にアフターフォローも兼ね、講座終了三ヶ月後に往復はがきを出している。メールでもファックスでもなく、往復はがきというところが味噌だ。

 受講後、スムーズに片付き、その後もうまくいっている場合は二重丸。
 受講後はうまくいったが、その後、また戻ってしまったという人は、丸の中に三角、受講後の片付けそのものがうまくいかないという人は? マークを記入することになっている。
 書きたい人は近況を書いてもらうが、基本的に返事は記号と名前のみとしている。
 返信が来ない人は、うまくいかなかったのだろうとK社では考えている。
 返って来たハガキを前にして、まろみが名簿をチェックしている。
「蔵子さん、今回は二重丸が六〇パーセントで、リバウンドが三〇パーセント、後の一〇パーセントが?です」
「だいたい、そんなものかなあ。それでは、手分けして電話をしてみましょう」

 二人は二重丸の人には電話をしない。
 丸に三角のリバウンドの人と? の講座を受けてもどうにもならなかったという人だけである。うまくいかなかった人たちや、明らかにリバウンドで、元に戻ってしまった人たちに、電話で話を聞く。
「蔵子さん、高井百合さんは、講座の後、お姑さんが手首を骨折されて、それどころではなかったそうです」
「そりゃ、大変だわ」

 この時、蔵子とまろみは責めるような言葉は使わないようにしている。
もともと、「新わくわく片付け講座」に参加したということは、片付かないからである。
そして、“片付けられない”というのは、誰かに責められなくても、心の底に負い目となって沈んでいる。
 子供のころから、母親にあなたは片付けが下手だと言われ続けた人。
 夫に、家事もまともにできないのかと言われた人。
 姑に、だらしない嫁だと嫌味を言われた人。
 友人や兄弟姉妹の何気ないひとことで傷ついた人。
 片付けるということはそういう傷を癒す行為でもある。
 だから、一度でうまくいかなかったからといって責められない。

講座を受講しても片付かず、返信の葉書に? としてもらうのは、バツを書いて欲しくないからである。これで終わりではなく、まだまだ可能性があるという意味で? と書いてもらっている。

「まろみちゃん、黒田容子さんは、ハガキを出すのを忘れておられたそうで、二重丸だって」
「良かった。これで? が一つ減って、二重丸が一つ増えてと」
リストにチェックを入れているまろみに蔵子が訊いた。
「容子さんはとっても上機嫌でした。さて、なぜでしょう」
「片付いてすっきりしたからではないのですか」
「それもありますが、もうひとつ。押し入れを片づけたら、本の間からへそくりが出て来ました。そこで、来週はご夫婦で二泊三日の温泉旅行だって」
「いいなあ、うらやましい。片付ける人には福来るですね。温泉なんて、ここ何年も行ってませんよ」
「ほんとねえ、温泉に入って命の洗濯もよいわね」

 二人が温泉で盛り上がっているところに電話がかかってきた。
「お葉書をいただいた牛窪みどりですが、ご相談がありまして、これから事務所にうかがってもよろしいでしょうか」
 電話を保留にしてまろみが聞いた。
「蔵子さん、牛窪みどりさんがこれから相談に来たいとおっしゃってますけど、どうします?」
「牛窪さんから返信は来てたの?」
 まろみが首を振ると、蔵子は受話器を受け取った。
「ご無沙汰しております。みどりさん、これからお越しになりますか。はい、お待ちしております」

 その節はお世話になりまして、と現れた牛窪みどりは三ヶ月前より心なしかふっくらしていた。
蔵子は応接コーナーに案内し、その後、いかがですかと切り出した。
「それが…」
まろみが水出し煎茶と葛饅頭も持ってきたので、まずはどうぞと勧めた。
「蔵子さんの好物は豆大福ですけど、夏は葛饅頭になります。みどりさんも召し上がってください」
 甘いものは人の心をほっこりさせると蔵子は思っている。これは自分が食べたいので、言い訳でもあるが。

 白いハンカチを膝に広げ、みどりはゆっくりと煎茶を飲み、葛饅頭を口に入れ、にっこりした。
「冷たい葛饅頭はおいしいですね。久しぶりにいただきました」
 ひといきついて、蔵子は訊いた。
「片付きませんか?」
「はい。片付けたいのに体がだるくて動けないのです。頭と体がつながっていないみたいで。
ほんとに、気持ちはあるのです。すっきりしたいと思っています。でも、どこから手をつけていいのやら、動けないし。夫や妹は単なるぐうたらだって言います。それで、ますます落ち込んで、動けないのです」
「みどりさん、どこかお悪いところは?」
「年に一回は人間ドックで調べてもらっていますが、体重が増えてメタボ予備軍だということ以外、特にこれといって。風邪をひいたのも何年前かというくらいです」

「それでは…暑くもないのに、顔がほてって、急に汗が噴き出るということはありませんか」
「そういえば、何時間も冷房の中にいるのに、突然汗が噴き出ることが何回かありました」
「もしかしたら、更年期で、体調が良くないのかもしれませんね」
 みどりは、アッという顔をした。
「ちょうど、体が変化する時期なのかもしれません。本当に体調が悪いようでしたら、お医者様にご相談されればと思います。今までにも、更年期でやる気が出ないとか、片付けられないという方がありました。そういう時は、無理をなさらない事です。そして、ご自分を責めない事。でないと、ますますイライラして落ち込みます」
「確かに、落ち込みまして…どうしようもなくて、こちらにご相談にうかがったのです」
「弊社で片付けのお手伝いをさせていただくこともできますし、体調が良くなってから片付けられても良いと思います。一番よくないのは、できない、できないと自分を責めることです」
「はあ、しかし、やっぱり気になります」
「それでは、特別な秘訣をお教えします」
姿勢を正し、口元を結んだみどりに蔵子は言った。
「良いですか。わたしの言うとおりに唱えてください。『片付かなくても死にはしない、片付かなくても死にはしない、片付かなくても死にはしない』はいどうぞ」
 みどりは一瞬ポカンとして、あはははと笑いだした。
「そういうことです。体調が良くなられたら片付けられれば良いのです。また、それでも今できることと思われるなら、今日はこの小さい引き出しひとつとか、棚を一段かたづけるとか、小さな事を一日ひとつずつにしてください」
 まだ、笑い過ぎて涙を浮かべているみどりはうなずいた。
「とにかく、気になさらない事です。それに、妻が片付けをしないといけないという決まりはありませからね。あとは、気分転換に何かなさるのをお勧めします」
「実はフラダンスを習いたいと思っているのです」
「それは面白そうですね。体を動かすことも良いですから」
「蔵子さんもご一緒にいかがです?」
「いや、わたしは、とても、そんな」
 なに照れているのですかとまろみに冷やかされ、蔵子は、忙しいものでとごまかした。
 蔵子はや踊りと名のつくものが苦手である。盆踊りからジャズダンスまで、考えただけで身震いがする。走ったり、飛んだりという運動は人並みにできたが、踊りとなると、手と足が別々の生き物のようにぎこちなくなるのである。まして、フラダンスなど考えただけでも、凍結状態だ。
 そんな蔵子を見て、みどりは、蔵子さんにも苦手なことがあるのですね、ほほほほと、上機嫌で帰った。

 蔵子さんのフラダンスを見てみたいものですねと、まろみが冷やかすので蔵子は無視して電話をすることにした。次は、リバウンドの真鍋玲子さんだからと、ファイルを用意する。
 玲子は元気そうな声だった。一度は片付けたので、洋服や押入れの余分なものは処分し、片付いたが、その後、リビングやキッチンは、使ったものが出しっぱなしになっていて、またまた混乱状態だとのことだった。
「ご自分でそのことがわかっておられたら、大丈夫ですよ。最近忙しかったのではないですか」
「はい、実はマンションの自治会の役員を押しつけられまして、書類だとか、コピーだとか、紙が山ほどやってきたのです」
蔵子は笑いをこらえながら続けた。
「紙がやってきたのですか。それは大変ですね。必要な書類はファイルされて、不要なものはその場ですぐ処分していかれると良いかもしれませんね」
「そうですね。なんだかばたばたして、ゆっくり考える暇がなかったのですが、前の時と同じように、ひとつひとつすればよいのですね」
「はい、どの程度の紙の量かわかりませんが、多いのであれば、ファイルをいれるボックスを購入されて、そこへファイルを放り込むようにすれば、テーブルやソファーの上に紙がいっぱいということにはならないと思います」
「まあ、まるでうちをご覧になったみたいですね」
「いえいえ、だいたいパターンがありますので。テーブルやソファーがふさがると、次は床に紙が散乱するようになります。そこまでいくと、倍くらいのエネルギーが必要になりますので、今の段階で片付けられればと思いますが」
「わかりました。やってみます。うまくいけば、二重丸の葉書を送りますので」
「お待ちしております」

 講座の中でリバウンドや対応策についての説明もしてあるので、どうしてリバウンドになったかということは概ね理解してもらっているようだ。
何十年も積み重ねてきた人間の習慣は、そう簡単には変えられるものではないので、過程のひとつと考えれば、そう落ち込むこともないのだが、頭ではわかっていても、落ち込む人は多い。

 まろみは三田ふくみと小一時間も電話で話をしている。「変わろうか?」と書いて、メモを渡すとまろみは首を振った。
電話が終わったのはそれから二〇分後だった。
「どうだったの?」
「それが、リバウンドで、また物があちこちに散らばって、ご本人曰く、うつ状態だそうです。どうやら、バーゲンで物を買いすぎたみたいですよ。気が付いたら、洋服に靴にバッグの箱や袋がいっぱいだそうです」
「ストレスかしらね」
「そうみたいです。嫁姑の問題で、なんとなくですが、息子さんのお嫁さんに張り合ってるようで。でも、ずっと話を聞いているうちにだんだん落ち着いてこられて、衝動買いして馬鹿みたいだったわって」
「それなら、大丈夫でしょう」
 時には、講座を受けたのに、自分では片付かないので何とかして欲しいと、片付けの依頼をする人もいる。
 その場合は、K社の仕事として依頼を受ける。

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村雨治枝も? の“片付かない組”の一人で、電話をすると、ちっとも片付かないので見に来て欲しいとのことだった。
 蔵子とまろみが玄関に入った途端にコーヒーの良い香りがした。
リビングのソファーに腰を下ろした二人は、整然とした部屋を見回して、どこが片付いてないのだろうかと思った。
 コーヒーにジンジャークッキーを添えた盆を運んできた治枝は、ご覧の通りですと肩をすくめた。
「あの、片付いていないお部屋はどこでしょうか」
「えっ、いやだ、蔵子さん、冗談はよしてくださいよ。ちっとも片付いてないでしょう」
「いえ、このお部屋なら、普通、片付いているといいますけど、ねえ、まろみちゃん」
「はい、そう思いますけど。もしかして、押入れに山ほど物が突っ込んであって、襖を開けると、ドドっ―と物が落っこちて来て、キャー!とか…」
 治枝はにこりともせず、答えた。
「押し入れやクロゼットにもそんなに物はありません。もともと、それほど物持ちではないので。一番多いのは本です。一人暮らしですし、この前の地震のニュースを見て、本棚が倒れたり、本が飛びだしたりしては怖いと思いましたので、かなり処分しました」

 蔵子とまろみは顔を見合わせた。
確かに、片付く、片付かないは主観の問題でもあり、判断するのはその部屋で暮らしている本人である。他人から見れば片付いていないのに、本人は片付いている、という思い込みは時にあるが、これはその逆である。

 治枝は額に皺を寄せて、深刻な顔をしている。
「わたしは片付いているというのは、美しいということだと思うのです。ところがこの部屋は、ものは少ないけれど、美しくないでしょう」

 確かに、オレンジ色とピンクのチェック柄のソファー。ブルーと黒の太い縦ストライプのカーテン。センターテーブルは濃いメープル材、テレビのおさまっているリビングボードは彫り物が入ったクラシック調のオーク材。テレビ用のパーソナルチェアは小豆色のレザー貼り。

インテリアという意味では統一感がなくアンバランスである。
しかし、面と向かってセンスが悪いとは言えないので、ふたりは黙り込んだ。
「蔵子さんもまろみさんもインテリアコーディネーターですよね。なんとか考えてもらえませんか」
「わかりました。では、インテリアのプランをご提案しますので」
 蔵子とまろみは、バッグに常備しているスケール(メジャー)で室内や家具の寸法を測った。
「それでは、インテリアのイメージはどういう感じがお望みですか」と、蔵子が治枝に訊いた。
「それが、自分でもよくわかないのです。だから、こんな部屋になってしまって…」
「例えば、自然で落ち着いた部屋とか、暖かでゆったりした感じとか、かわいい感じとか」
 治枝は考え込んだ後、ごめんなさい、イメージが頭に浮かばないのですと申し訳なさそうに首を振った。
 そこで、蔵子はまず、「新わくわく片付け講座」で考えた、どういう暮らしがしたいかを思い出すことから始まって、好きな色は何色か、処分する家具、予算、これからの暮らしまで、様々な質問をした。

「ご要望はだいたい伺いましたので、いくつかプランを作って、どういう部屋になるかわかりやすいようにパース、いえ、絵を描いて来ますので、それをご覧になって決めていただければ」
 治枝のマンションを後にした途端に、まろみが口を開いた。
「まさか、こんな展開になるとは思ってもみませんでした」
「そうね、ほんとにお部屋はきちっと片付いていたのに、整理整頓は終わっても物足りない。次は美しく心地よい部屋にと思われたのでしょうね」
「バージョンアップですか。案外、治枝さんのような方は多いかもしれませんよ」
「そうねえ、『新わくわく片付け講座』でインテリアやカラーの話も少しはしているけど、もっと具体的なことまで考えてもらえるようにした方が良いのかしら、検討してみましょう」

 一週間後、インテリアのプランを持って、蔵子とまろみは治枝のマンションを訪れた。
「いかがでしょうか。サーモンピンクがお好きだということなので、カーテンとソファーはサーモンピンクで、他の家具はパイン材で統一すると、自然で明るい感じになって、お部屋も広く見えると思いますが」
 蔵子は説明しながらパースを見せ、カーテンの生地サンプルを並べた。
「まあ、こんなに変わるのですか。素敵ですね。カーテンも目立たない地模様の花柄になっていますね」
「はい、アクセントカラーとしては、クッションにオレンジや黄色を少し使われても良いかと思いますが」
「そんなクッションはどこに売っているのかしら。どうしましょう」
 まろみが、ネットで調べればと言いかけて、口をつぐんだ。この家にはパソコンがないことに気がついたからだ。スマホも電話とメールしか使っていないのだろう。そういえばスマホの画面は小さいから商品検索はしないというシニアもいる。
 パソコンで検索すれば、すぐに見つかるものも、パソコンと無縁な暮らしをしている人には、どこに買いに行けば良いかわからないし、探しまわる時間と労力はかなりのものになるだろう。

「ご要望があれば、わたくしの方で手配いたしますが」
「お願いします。これで、やっとわたしの部屋も片付きます。そうそう、今日は蔵子さんのお好きな豆大福を用意しましたから」
 恐れ入りますと言いながら、まろみをちらっと見ると、まろみは知らん顔をしている。
あの顔は、「蔵子さんの好物は豆大福なんです」としゃべった顔だ。
「治枝さんのところも、きれいになって良かったですね。あとは伯方賀永さんだけ連絡取れないです」
 蔵子が電話をすると、賀永が出た。
「あら、蔵子さん、お久しぶりです…姪の結婚式で五日程ハワイに行ってたの。それが、できちゃった婚でバタバタと決まって」
「おめでとうございます。ところで、お葉書ではリバウンドということでしたが、その後も片付いていませんか」
「今ねえ、ひっくり返っているわよ。アハハ。ハワイへ行くのにスーツケースやら、昔の水着だとかなんとか引っ張り出して…その上に、今はお土産が散らかっている」
「一度は片付いたという事ですよね」
「ええ、きれいに片付きましたよ。それがね、片付け始めると面白くなって、ジグソーパズルみたいに、このすき間にはこれって、空きスペースにきっちり詰め込んだのよ。
それで、きれいに片付いた、やった~!と喜んだ。それも一週間ほどかな。
ぎちぎちのキチキチに詰め込んだし、どこに何を入れたかがわからなくなって、物を探すのにまた取りださなきゃいけなくなって、ジグソーパズル崩壊なの」
「ジグソーパズルのように、きっちり詰め込もうとされると、そうなるかもしれませんね」
「そうなのよ。入れる時はすっと入ったのに、一度出したら入らなくなったり。昔の結婚指環みたいなものよ」
「ふむ、昔の結婚指環とは、言い得て妙な表現ですね」
「蔵子さんって、やっぱりおかしな人ねえ。そんな事に感心してる場合じゃないでしょう。
問題は、リ・バ・ウ・ン・ド」
「そうでした。収納は八割くらいにしておいてください。一〇〇パーセント詰め込むと、おっしゃるように、ジグソーパズル崩壊になります。それから、しまう場所は、使う場所に近い処にまとめてしまってくださいね…最後に、賀永さんは、なんでも完璧にしようとされるようですが、完璧ではなく、ほどほどにしておいてください」
「その、ほどほどが難しいのだけれど」
「う~ん、それではわたしも…六八センチのウエストにぴったり六八センチのスカートをはけば、寸法は合っていますが、動き易いでしょうか」
「きついわね。それに食事をしたらホックが飛んでしまうかも」
「そういうことです。ウエストも片付けも、ある程度、ゆとりが必要です」
 電話を切った蔵子に、まろみがごくろうさまでしたと、お茶を持って来た。
「ウエスト六八センチって誰のことです?」
「さあ、誰でしょう」
「賀永さんのウエストはどう見ても、八〇センチはありますよ」
「だから六八センチと言ったのよ」
「恐れ入りました」
16章 終

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ひとり暮らしの老前整理® (13)


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