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自分の価値がわからないって言って自己肯定感が低いとか言って愛されないとか言わないでくれ

怖くなる、怖くなる。

新宿駅を毎日使っていたのに、1年ぶりに行ったらみんな生きるスピードが早くて怖い。そんなに生き急いでたら死んじゃうよ、って思いかけて私は生き急ぎたくてここを歩いていた過去があるのを思い出した。


私は東京でどう歩いていたんだっけ。12センチの厚底ヒールをどう履きこなしていたんだっけ。こんなミニスカートで平気で階段を上がってたっけ。どこに行けば何があるんだっけ。

わからないまま目をキラキラさせて練り歩く東京は、もう無くなってしまった。私の中には1ミリも存在してはいない。悲しくはないけれど、おもちゃを取り上げられた子供のように少し不服。

東京にいたら地元が好きだけど、地元にいたら、地元も東京もどこも嫌い。

今だけ生きてるはずなのに、過去も一緒に見えるのはどうかと思う。未来も平等に、断片的に見えて欲しいね。どうだろう。


私はこの曲が好きだ。まるで私のために歌ってくれているようで、きっとそう思った人はいっぱいいる。

思い出したことがあるので、少し、昔話をしようと思う。

私は絵が好きだ。祖父の読む新聞に挟まれたパチンコ屋の広告の裏が私の世界だった。でもすぐに筆速の妹に取られて、私の世界は描かれる前に、彼女に占拠されていた。

私の方が年上だったからか、分かっていたのかいないのか…100円均一じゃなくて、大きなホームセンターの少し高い自由帳を私がねだれば母はいつも買ってくれいた。

そのページを全て埋めるのが生き甲斐だった。

それは幼稚園児の頃から変わらず、4月生まれというだけで全てのことが周りの人間よりちょっぴり出来てしまう年齢の頃のお話。


生活科ってまだある?今お子さんいる人はわかるかな。花とか野菜とか育てて道徳心と一般教養を身につける授業。

小学校低学年の頃、人生の無駄みたいな時間を私は耐えていた。朝は早いし、体育は半袖だし、5分を45分に引き伸ばすような内容の授業は、結構辛かった。外で遊べば健全で正しく清らかで、一人で居れば「みんなと遊ばないの?」と心配される。学校は人間社会の初めの一歩にしては、とても残酷で、最低で最高の場所だよね。

ある時、生活科で植物を描く授業があった。私はそれすら面倒で、隣に座る女の子と時々話しながらも、手は黙々と動かして絵を描いていた。さっさと終わらせてアリの巣の入り口を眺めている方が、まだ何かを得られそうだったから。

彼女との話は、他愛のない会話だった。花が綺麗だねとか、花びらが何枚だねとか、何色の花が好きとか、そんな他愛のない話。

でも気がつくと、隣の彼女は泣いていた。

声を上げず、堪えるように、涙をぬぐって。

「どうしたの?お腹痛い?」

わたしは彼女に、すかさずそう聞いたけれど、彼女は首を振るだけで、会話にはならなくて、私は走って先生を呼んできた。

駆け寄り耳元で話す先生と彼女とのやりとりを、わたしは立って見守っていた。彼女を保健室まで運ぶなら、上履きを持ってきた方がいいだろうか、もしかして私は何か彼女を傷つけることを言ってしまったのだろうか。私なりに色々と思考を巡らせていた時、

「だってクラカノコちゃんみたいに上手く描けないから」

彼女ははっきりとそう言った。

私は言葉に突き刺されて、動けなかった。

彼女の背中をさする先生は私の絵をチラリと見て、彼女の耳元で言葉をかけていた。

私のように上手く描けないと、悔しくて泣いている彼女は年相応に可愛らしかった。

私が泣きたくなった。でも泣けるほど、メンタルは強くなくて、そっと息を吐いたのを覚えている。

私の絵と肩を並べられると思われていたことが悲しかった。

いつも廊下に張り出された私の絵を、彼女は気に留めなかったのか。それとも無条件に愛されていたから、自分は何でもできると思っているのか。

傲慢な怒りが湧いてきた。

彼女が友達と遊んでいる間、私は一人で絵を描いていた。家に帰ってからだって、自転車で遊びにいく彼女と、絵を描く私。そんなの、描いた時間が長いから、私の方が4月生まれだから、上手くできるのは当たり前じゃないか。

私は何も言わなかった。

怒りと悲しみと呆気が同居してしまう私は、その時初めて自分は性格が悪いのだと思った。


今思えば、それは小さい地域のコミュニティの中のさらに小さな学校のクラスの中のお話なのだけれど、当時はそれが私の世界の広さの限界で、その中で1番がとれるものとして、絵に誇りと同時に執着をしていたのだなと思っている。

ロダンに「上手いですね」と言えるのは、世界でも当時のパトロンくらいだろう。

小さな世界で生きる私にとってはそれぐらい、彼女の発言は客観的に見ても禁忌だった。

歳を重ね、世界が広がった今はでは、もう上手いとか上手くないとかそういう視点でものを見ることはあまりないし、それより大切な価値観や物事がたくさんあるということを知っているので、あの時の気持ちを味わうことはないのだけれど。

たまに思い出すこの記憶は、言い換えれば初めて競争社会に身をおく、わずかなトラウマなのかもしれない。


私は絵を誰にも見せずに絵を描いてきた。

少しだけ”私の大切”を誰かにわかってしまうことが怖かったのかもしれない。

重度の偏頭痛、薬物乱用頭痛(痛み止めや頭痛薬の飲み過ぎで起こる頭痛)持ちで、月の半分も活動出来なかった私は普通に生きるのは無理だなと諦めて、絵に人生を全振りしていたので、余計に。

だから人に見せる絵を描くようになって、ようやく色を塗るのを覚えた。

絵はずっと描いてるのに、色を塗った事がないのはちょっと素人すぎるよねって思って最近は色の勉強をしている。早く自分自身に追いつくといいのだけれど。

人に見せることがプレッシャーになって、活動が続かなくなる事、絵を描きたくなくなる事だけは避けたいと思っていたし、まぁそういう時期もあったけれど、ここ最近は応援してくれている人がいるから筆を折らずに居られるのだと思う。

プレッシャーを緊張感に変えるのってたくさんの人が居ればいるほど、案外簡単なのかもしれない。

職がなくても引きこもりでも人から学ぶ機会はあるのだなと思った。なんともいい経験。

環境を嘆き、運命を呪っても何も始まらないとかいうけれど、機会がなければそうするしかないって嫌ほど思い知ったし解ってる。

だからこそ、そのままでもいいって私は思いたい。

いつか機会が来たら、その時は全力は出なくても、持てる力の少しを使えたら、それで意味はもう見出した事になるのだと思う。

何で身を滅ぼすのか、何がプライドなのかは人によって違って、”環境に委ねられている”って事を忘れずに生きたら、ちょっとだけ苦しくはなくなるのかもしれない。

自分で価値を見出せなくても生きている意味がわからなくても、自分の中に秘密の宗教作っちゃうくらい、密やかに笑えるくらいの闇がある方が健全だ。

だから、自分の価値がわからないって言って自己肯定感が低いとか言って愛されないとか言わないでくれ。



いつか愛してあげられますように。




2022.01.15


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