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時代錯誤の妙

※この文章は2020年の夏に書いたものです


 一年ほど前のことである。
朝刊を読んでいると、少女が電車で外国人に話しかけられ、うれしい思いをしたという読者投稿を目にした。
その外国人は勇気を振り絞るように彼女にこう尋ねたという。

「あの…その本はどんな本なのですか?」

子どもから大人までスマートホンに目を落とす車内。
ただ一人、それも若い女性が必死に気を集める本はどれほどの価値のあるものなのだろうと、その人は気になったのだ。
状況を把握した彼女はしどろもどろになりながらも説明をし、電車を降りた後ふっと胸があたたかくなったというエピソードだった。

 本と携帯電話は性質的にどちらも個の世界に没頭するものであるが、なぜか本が見知らぬ人との会話のきっかけを生む一方、スマートホンが現代的冷たさの象徴に見えるコントラストが描かれたこの文章は面白く、印象に残った。
また、この記事は同じようにどこにでも本を携帯している私に、まったく逆側の疑問を常々抱いていたことを思い出させたのだった。

「あの…そのホンで何を見ているのですか?」と。

 

 私の非常に悪い癖だと自覚しているのだが、つい人の操作しているスマートホンを覗いてしまうというところがある。
言い訳じみたように一応断っておくと、放置されているものを勝手に開くということはなく、また覗く時にも相手は必ず極めて親しい友人に限り、メール等のプライバシーに強くかかわるものの操作時を避け、あからさまに覗いていることがわかるように大げさに行う。
余計タチ悪くも行儀悪くも聞こえるが、こうすればもし友人が見られたくないと感じた時に露骨に拒絶の意を示されるので、一線を越えるような事故を起こさずに済む。
もちろんそうまでしたところで呆れられることが大半なのだが、やはり彼らが広大なインターネットからどんな情報を彼らが選択するのか気になってしまうのだ。
果たしてそれほど神経を傾けるものが詰まっているのだろうか。

 そしてある時、ふと思ってその疑問を一度口にしてみた。
尋ねられた友人は若干怪訝な表情をしながらも、率直にこう答えてくれた。

「適当に目についたもの見てるだけだけど。お前は本読んでるけど、それに何か求めてんの?求めてないなら十万倍情報が溢れてるこっちの方がオタカラを見つける可能性があんだろ。」

屁理屈に思えなくもないが、なるほどと頷いてしまう自分がいた。
実際、私は本を暇つぶしを主たる目的として所持し、その選定基準は図書館で目についたものを手に取る程度の適当な調子だ。
ひょっとしたら何かの知識を得られるかもしれない、もしかしたら楽しい物語かもしれないという射幸心はある。
だが、そこにたとえば自己啓発だとか知識の探求だとかの大それた狙いがあるわけでなく、たまたま身についた習慣を繰り返しているに過ぎないのだ。
彼の言うとおり、私もまたスマートホンを見つめる人同様に漠然と情報の海に潜っていたことに気づかされたのだった。

 

 かと思えば、この発見に冷や水を浴びせるようなできごとに遭遇することとなる。それはある日の友人宅での集いの時だった。

 朝まで飲み明かそうと息巻いて集まった面子のなかに、久々に出会う大学の後輩がいた。
その後輩とはそれなりに気心の知れた仲だが、学年が違うこともあり、互いを知悉するような関係でもない。
皆々酔いが回り出した頃、そんな彼との話の中で

「先輩って休みの日に何してるんですか?」と尋ねられることがあった。

私はとっさに記憶を巡らせ、

「八時とかそこらに起きて、朝ごはん食べたら買い物に行って、帰ってきたら少し読書してお昼を食べて、午後は資格の勉強と本とたまに映画を観て適当に過ごして、夕飯作って食べたら後は自然と終わっていくかなあ…」とポツポツと言葉にしていった。
すると後輩は本当に味気ないと感じた顔をして

「それだけですか?」

ともらした。

「それだけだけど…」

「先輩、生きてて楽しいですか?」

それはごく自然に出てきたであろう言葉だった。
思わず絶句してしまったが、瞬間この反応を面白く感じた私は少しその真意を問いただすことにした。

 すると彼の脳裏にはこのような理由があったようだ。自分はゲームをするし動画サイトを見るし、好きなシリーズがあれば投稿者もいる。
それなのに先輩の一日はルーティンで新鮮味に欠けるし、こうやって一緒に話していても自分の趣味と折り合うようなところもない。
そうなると、そんな別世界に生きる人が何を生きがいと日々過ごしているのか皆検討がつかない…と。
ここまではそれは極論だろう、と感じていた。
なので、読書なんかの趣味を挙げたじゃないか、と反論をしてみると、

「でも、そんなの履歴書に書く定番のものじゃないですか。」

と返ってきたのだった。

 これにはある種の鋭さがあり、二重の意味でハッとされられてしまった。
一つは、たしかに読書が往々にして履歴書の趣味欄に「何も思いつかないから」として書かれるものであり、そしてそうした苦し紛れの記述をした彼ら彼女らが面接で薄っぺらく述べている情景がありありと浮かんだからだ。
そんなものを列挙しても面白みもなく、聞いている側も「またか」と思って踏み込んでくることも想像を巡らせることも少ないだろう。

 そしてもう一つは、そんな定番のものを人より少しやりこんでいるからといって自分が充実した人間であると無自覚に思い込んでいたこと、つまり読書を少なからず高尚な趣味だと解釈している自分に気づいたからだ。
読書もたかが趣味、スマートホンを睨むことだって悪いこととは限らない、などと表面上広く理解を示しているようでありながら、心の奥底では明確に優劣をつけていることを自覚した瞬間、私は恥ずかしくてたまらなくなったのだった。
それからは後輩との問答に強く言い返せることもなく、ただただ自分の愚かさを呪うこととばかりであった。

 

 言い訳をもう一つ重ねることはしたくないが、それではなぜそのようにスマートホンを蔑視する思考が自分の中に生まれていたのだろうかと紐解いていくと、過去の一つの出来事に行き着くこととなる。
それはその昔父が語っていた、携帯電話を持たない理由にさかのぼることができるのかもしれない。

 還暦を少し過ぎた父は現在に至るまで携帯電話を所持していたことが一度たりともない。
私が小学生くらいの頃はまだそのような大人もいる程度の普及度合いであったが、中学に進学し、高校生になって自分が携帯電話を持つ段になってさすがにおかしいと感じた。
そもそも父は古代のパソコンオタクであり、仕事も機械作業を伴うものだ。
興味を持ってもこれっぽっちもおかしくないはずなのに、頑なに所持を拒むそこにはよほど大きな理由があるのではないだろうか…。

 ある日の深夜、共に夜食を食べる最中に何気なさを装ってついに尋ねてみることにした。
父はよほどこの機会を待っていたのかもしれない。
やや得意ぶって食べ終えるまでの間語り尽くしたのだが、要約してみると

「俺が子どもの頃は携帯電話なんて漫画で見るSFの世界の話で未来人の所有物だった。俺は未来人になりたくはないんだ。」

という考えを父は持っていたようだった。

 連日脳内で練ったかのような口上を適当にいなす思春期真っただ中の私であったが、父の財産である手塚治虫全集を当時端から読んでいたこともあって、すべてをくだらないと一蹴することもできなかった。
便利になりすぎた故のしっぺ返しや、失われていくものの貴さに、当時の私の倫理観は非常に敏感になっていたのだ。
そのためにこの父の話がトラウマのごとく私の芯にまで滲みこみ、今のアナクロニズムな私を形成する一因となったのではないだろうか。

 もっとも、そんな父も最近は兄夫婦から孫の写真をもらうためにとパソコンでSNSを始めたようだ。
その使い方を尋ねられた所感として、ひょっとしたら父はただの機械オンチなのかもしれないという疑念が二十数年の付き合にして浮かんできたのではあるが。
いいかげんの遺伝子が受け継がれていないことを祈るばかりである。

 

 かつて読んだ三浦しをんさんがスマホ歩きについて綴ったエッセイで、二宮金次郎なんて本読みながら歩いている、と書いてあった。
軽快な論調で書かれていたそれは、彼女の気楽なスタイルも相まって、そんなに深く考えることないんだぞ、と背中を蹴飛ばしてくれているような気がした。

 たしかに私がその昔心に留めたように、便利さのなかでも忘れてはならないことや、形骸から生じる損失を避ける動きは必要だろう。
だがひとまず落ち着いて考えてみれば、少女にあたたかい思いを残すような出来事が起こり得る現代社会も、決して悪いものではないのである。
記事を読んだ時、直感的に私の胸の内に少女の喜びが共有されたことが、その何よりの証明だと言えるだろう。

 もっとも、こうして落着きを取り戻して前述の脳内戦争を振り返ってみると、本とホンを掛けるような思考は我ながらになかなか時代遅れに感じられてくる。
これもまた、少しでも尊ばれるものであると助かるのだが…

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