ペッシはなぜ「ゲス野郎」に堕ちたのか? 物語を貫く正義のはざまで


(このnoteにはジョジョの奇妙な冒険シリーズのネタバレが含まれています。読んだことない人はSTEEL BALL RUNを買って読みましょう)

ジョジョ5部のアニメを見返していて、ふと思った

ペッシの死に際、言うほどゲス野郎か??

というのはもちろん上記のシーンのことで、このあとめちゃくちゃアリアリされるわけだが……

いちおうおさらいしておくと既にこの時点でペッシは死に体であり、プロシュートの兄貴も助からない

どうせアリアリされることが確定しているので、ブチャラティへの腹いせ混じりでありつつも、せめて暗殺チームの仲間たちが楽になるようにと亀の中の面子を始末しようとする場面だ

いや、でも、仲間のためならこーするだろうがよ!

形兆兄さんじゃなくたって「誰だってそーする、俺もそーする」って言いたくなるにきまってる

さっきまで「10年も修羅場をくぐり抜けてきたようなスゴ味」とか言ってたのにブチャラティさん手のひら返し早過ぎじゃないですか?

なんて

ちょっとペッシ側に肩入れし過ぎな気もするが、しかし誰しもが抱く疑問であると思う(たぶん)

本当にペッシは「ゲス野郎」に堕ちたのか?

それともブチ切れたブチャラティのたんなる勝利宣言だったのか?

今日はそういうことについて考えてみたい

まあ結果から言えば、間違いなくペッシの最期は「ゲス野郎」だったんだけど

結果だけを追い求めるような子はボスみたいになっちゃうのでね……

それよりも大事なのは納得することだ

納得は全てに優先するぜッ!

ということで丁寧丁寧丁寧に見ていこうと思う




おしながき

・ジョジョにおける「ゲス野郎」とはなにか?
・結局ペッシはなにがいけなかったのか
・作品を貫く「正義」というものさし
・異色の『STEEL BALL RUN』
・全部読むのがめんどくさい時のまとめ




ジョジョにおける「ゲス野郎」とはなにか?


そもそもブチャラティの言う「ゲス野郎」ってどういうことなんだろう?

まあ辞書的な意味についてはわざわざ言うまでもないだろう

だいたいペッシが字義通りのゲス野郎だったなら悩む必要もないわけで

やっぱりジョジョ流の(ようするに荒木先生の哲学としての)「ゲス野郎」という基準があるんだろう

つまり

ペッシは辞書的な意味での「ゲス野郎」かどうかは微妙なところだったかもしれないが、荒木先生流の「ゲス野郎」に堕ちてしまったためにアリアリされてしまったということだ

じゃあこのジョジョ流「ゲス野郎」とはどんなもんなんだろう?

言っちゃなんだが、例えばボスとか吉良吉影みたいな連中のことかもしれない

しかしジョジョ独特の概念をジョジョのキャラで例えちゃ「黒色とは黒い色のことです」と言ってるようなもんだし、もう少し真面目に抽象概念への演繹を試みるべきだ

とはいえ国語の問題の答えは提示された文章の中から探し出すのがセンター試験の鉄則である

「ジョジョ」の中で語られる様々な言葉の中から、もっともジョジョ流「ゲス野郎」について詳細に説明しているのはおそらくこのシーンだろう

これこそがジョジョ流の「ゲス」の精神、吐き気を催す邪悪と定義されている

これがどんなものであるかというのは、逆にジョジョ流の「正義(エンヤ婆とは関係ない)」を紐解くことでよくわかる

ここで言及される仗助たちは、無関係に過ごそうと思えばそれができるにも関わらず、殺人鬼・吉良吉影を命がけで追い詰めて打ち倒す

そして彼らの行為は基本的に「みんなのため」であり、けして「自分が殺されないため」なんかではないのだ

つまりジョジョ流の「正義」あるいは「黄金の精神」とは利他的な心持ちのことである

「黄金の精神」が利他の心なら、やはり「吐き気を催す邪悪」とは利己に徹する心に違いない

ジョジョにおける「ゲス」とは利己的な精神に囚われた人間たちのことであり、逆に「正義の徒」とは利他的な信念のために行動できる人々を指すのだ

5部はこのテーマが特に顕著で、例えばフーゴを助けるか否かというジョルノとアバッキオの対立はこの「正義」を問うような対立だ

べつにアバッキオは自分のために他者を利用しようなんて考えないし「邪悪」ではないが、その時点では「正義」でもなかったということがよく描き出されている

アバッキオが「正義」を捨ててしまった警察官という生い立ちであるのが象徴的だろうか

余談だがジョジョの各部にはほぼ必ずこの「正義」の精神を持っている敵キャラが出てくる

例えばしりとりの救世主で有名なンドゥールは、自分のためではなくDIO様のために承太郎たちを始末しようとする

利他精神とは、必ずしもその対象が一般人だったり正義の側である必要はないのだ



結局ペッシはなにがいけなかったのか


ジョジョにおける「ゲス野郎」の正体は明らかになった

この定義で言うとやっぱりペッシは「ゲス野郎」じゃあないんじゃあないか?

そんな風に思える

だって「仲間のために」ブチャラティの仲間を始末しようとするんだから、それって「利他的な行動」ってやつなんじゃないのか?

しかし、よくよくジョジョ流「正義」と「邪悪」について考えながらペッシの言動を追っていけばすぐに納得がいく

そもそもペッシの最期の行動は、殆どがブチャラティへの腹いせだ

そんなことわかっちゃいる

腹いせ程度しかできないような状態でも、ペッシにとってはあれが最善策であり、だからこそ「ブチャラティ厳しい……」ってなってるわけだから(仲間皆殺しにされそうになって厳しいもクソもないけど)

けれどジョジョ流「正義」の感覚で言えば、この腹いせとかいうのが最も悪辣なのである

いくら仲間のためと言い訳をしたところで、ペッシが根っこのところで「腹いせ」という「自分の満足」のためにジョルノ達を殺そうとしているのであれば――

それは「ゲス野郎」の心なのだ

ジョジョの世界はシビアだ

スタンドバトルは一瞬の油断が命取りとかそういうことではなくて、この「ゲス野郎」の側に一度でも振れてしまったキャラクターに未来はない

3部の肉の芽みたいなので洗脳されてたとかそういうんでもない限りは

そんならペッシはどうすればよかったんだろう?

いや、どうしようもない

自分たちの未来のために無関係のトリッシュを拉致ろうとしている時点で暗殺チームに未来はないわけだ

よく暗殺チームとブチャラティチームが手を組めばボスの暗殺なんて余裕だったという話があるが(そうだったらいいよね~~~~)

暗殺チームが絶対的に「ゲス野郎」の側にいる時点で(それは彼らが殺しを生業にしているという意味ではない)、彼らはけして救われることはないのだろう




作品を貫く「正義」というものさし


そんなこんなでペッシについては納得することができたことと思う

せっかくなので、こうした考察を今後の創作に活かしていこうと思ってもう少し考える

つまり、ジョジョにおけるこの「正義」と「邪悪」の基準はどのように機能していて、それは創作を行う上でどの程度に普遍的なシステムなのだろうか?

ということ

唐突だが、優れた物語には「説得力」というやつが宿っている

それは厳格な資料調査に裏付けられたリアリズムであると捉えられがちだが、たぶんそれは違う

リアルであることは必ずしも「説得力」に繋がるわけではない

というかフィクションの世界の説得力がリアルなディティールによって生み出されるなんておかしい

作品の「説得力」とは、言いかえれば「一貫性」というやつだ

ジョジョで言えば、「ゲス野郎」は負けて「正義」は勝つ

これはジョジョにおいて(一部例外を除き)普遍的なルールである

こうして抽象的な言葉で言ってみるとわかりやすいが、創作の上で実践するというのは困難な作業だ

今このキャラクターは「正義」と「邪悪」のどちら側にいるのか? というのを常に把握していなくちゃいけないのだから

ジョジョはその困難な作業を徹底していて、だからこそ「説得力」が宿っている

よく謎概念として取り上げられる「スゴ味」というやつも、ようするに「正義は勝つ」というメタルールをキャラクターが感じているにすぎない

だから謎概念でありつつも読者も説得されてしまうのだ

だって「こいつ絶対に正義だし、まあ勝つよな」って思うでしょう?

そのフィクションがどのような要請に従って描かれているのか? というものを主題とするなら、こうしたことは主題ともまた違うのだろう

同様の「ものさし」は様々な作品の中で活用されている

例えば先日こまかく書いた『BLACK LAGOON』では「(現代日本社会とは)逆」であることが貫かれていた

あの世界では「逆」の状態である限り勝つし、そこから外れたら負けてしまう

レヴィとロックの口論のとこもそうだが、レヴィとヤクザ(銀さん)との一騎打ちなんかにもよく顕れている

あのシーンでは、銀さんは「生きよう」と思ってしまったが故に敗北する

ただ大切な人と一緒に生きていたいという当たり前の感情によって「逆」から外れてしまったために負けるわけだ

いや、本当に口でいうとすごく簡単に説得力のある物語をかけるスーパーロジックのようだけど、実践するのは本当に難しい……




異色の『STEEL BALL RUN』


蛇足的だが、ジョジョの「正義」と「邪悪」のルールを最も素晴らしく美しく描き出した作品について少し語りたい

それは第7部『STEEL BALL RUN』

この作品の主人公=ジョニィは「漆黒の殺意」なんていう物騒な精神を宿していて、基本的には自分のために戦っている

推定無罪の相手を容赦なく撃とうとして相方=ジャイロにドン引きされたりする

「利他」の精神が基本だったジョジョ主人公としては異色の設定だ

さらにこの作品の敵=ヴァレンタイン大統領は国民のために行動している

おまけに大統領はその能力(D4C)のために「主観的な死」を繰り返しながらも目的達成に邁進するのだから凄い

完全に善悪が逆じゃないか!

そう、STEEL BALL RUNの設定はこれまでのジョジョシリーズに対するアンチテーゼとなっているのだ

とはいえジョニィもれっきとしたジョジョの主人公である

ただ、彼は初めからは「黄金の精神」を持っていないのだ

しかしジャイロやその他の人々との関わりの中で、少しずつそれを手に入れていく

そして中盤、ジョニィは決断を迫られる

自分の幸福への鍵である「聖人の遺体」と、かけがえのない相方であるジャイロ

そのどちらかを選ばなくてはならなくなる

初め、ジョニィは遺体を選ぶのだが、結局はジャイロを取り戻す代わりに遺体(自らの幸福)を差し出すことになる

上のシーンはその後に主人公二人で乾杯するシーンだが、いや~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ここが本当に好き

ここでジョニィはようやく「ジョジョの主人公」となれるのだ

まあ、ペッシも主人公だったらちょっとくらいゲス野郎に堕ちても大丈夫だったかもね……

ペッシの奇妙な冒険

ないな





全部読むのがめんどくさい時のまとめ


『STEEL BALL RUN』読め!!!!!!!!!!!!!!





おわり

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