日暮れの校舎で会えたなら(2/n)

 一本のベルトコンベアを想像してみてほしい。だだっ広い空間に延々と伸びる一本のベルトコンベア。始点は遥か遠く天地開闢の隙間の向こう、終点もまた無限光年彼方に霞んだままでようとして知れない。
 これは「時間」だ。均質、正確、厳粛に流れる一本のレーン。
 そして僕らはその上にいる。ぼけっと口を開けたまま突っ立って、流れ行く景色を眺めている。しかしね、よくよくその景色を見ていると妙なことに気がつくわけだ。
 百本のベルトコンベアを想像してみてほしい。だだっ広い空間に延々と伸びる百本のベルトコンベア。そのそれぞれの上に僕らがいる。ぼけっと口を開けたまま、同じ速度で流れているこっちを見つめてる。ハァイ、手を振る。向こうも手を振り返す。一陣の風が吹き抜ける。コンベアの端っこに立っていた奴がそれにあおられてふらつき、落っこちる。落っこちた先にもまたベルトコンベアがある。僕らがいる。すぐ隣には同じようなレーンが何本も伸びていて、やっぱり僕らがいて、こっちに向けて手を振っている。
 無限本のベルトコンベアを想像してみてほしい。だだっ広い空間に延々と伸びる無限本のベルトコンベア。そのそれぞれの上に僕らがいて、ぼけっと口を開けたまま手を振っていて、風が吹き、落ちて、やはり同じ。そしてふとした時、無限本のベルトコンベアは実は延々と伸びちゃいないんだってことに気がつく。ずっと同じところをぐるぐる回り続けている。しっぽに噛み付いたウロボロスみたいになって、頭とケツが合体していて、天地開闢の瞬間とも、無限光年彼方の終点にもたどり着きそうにない。それが無限本ある。今も増え続けてる。
 これが「時間」だ。日本時間にして2019年の1月1日0時0分を境に、決定的に変質してしまった「時間」の姿だった。1月1日という頭が同年12月31日23時59分に噛み付いている。風ってのは「ジャンプ」のことで、これといった予兆もなく僕らは今いるレーンから蹴落とされる。肉体はそのままに意識だけが落っこちるんだ。たいていは物理的に近くにいた人々と一緒なんだけど、毎回ってわけじゃない。どういう基準があるのかは誰だって知ったこっちゃなかった。そもそも「時間」がこんなに勝手なやつだったってこと自体、人類にとっては寝耳に水だったのだから。

 駅前の商店街にまで来るころにはもう「新世界より」の放送は終わっていて、日はとっぷりと暮れていた。晩秋の寒さが身にしみる。あんなに鬱陶しかったはずの蝉時雨も、飛び回る蚊の連中もいやしない。
「レイジ、希、なにか食べたいものあるかい」
「おごってくれるんすか?」
「まさかさ。聞いてみただけ」
 がっくしだった。僕は自分の財布を開く。たぶん、自分のだ。中にはよれよれの千円札が二枚、小銭がたくさん。使ってない大量のポイントカード、店によっては三枚くらい重複してるや。そして相変わらず整理されていないレシートの束。そのうち1つを梨子が掠め取った。
「何も面白いものなんてないぜ」
「そうかな。じゃあ、この、成人向けコミックというのは」
「嘘ばっかりだよな梨子は。貸してみろよ」
 本当だった。722円。ちょっぴり胸がドキッとしたが、別に僕という意識上の主体とは関係ない、知ったこっちゃないんだと思い直してびりびりにやぶき捨てる。梨子が笑う。本当にいつも笑ってばっかりだった。とはいえそれがこの人の自己証明なのかも知れないな。聞いてみたことはない。誰もそんな事を話したがる奴はいないに決まってる。
「レシートを溜め込んどくのはいい案だと思うよ。エロ本買うくらいには元気だったっぽいってわかる」
「わざとやってるんじゃない。いつもこうなんだ」
「いつもそうしてるから、いつもそうなんだろ」
「変える必要のあるような習慣じゃない」
「なんでもかんでも習慣を変えてみるっていうのも面白いものだぜ。特にさ、周りの連中から外れて一人だけでぶっ飛んじまったときとかは」
「そんなことを怖がるなら盟約は破棄したほうがいい」
「怖がってるんじゃない。そうだな、うん。怖くはないさ」
 学校は山の麓にあって、商店街に行くまでに短いながら田んぼの間の道を抜けていかなきゃならない。もう暗いからあんまり見えないけど、昼間のうちはさぞ稲穂が美しいことだったろう。全くもって農家の人々は凄いやね。何が凄いって、だってせっかく丹精込めて育てた野菜もジャンプしてしまえばどうなってるかわかったものじゃないんだから。昨日に田植えをしたと思ったら、今日また田植え前の田んぼに放り出されるかもしれないのに。でも、そうなったら彼らは、また田植えをするんだろう。
 もっとも大半の人間がそうだった。「時間」ってやつが滅茶苦茶にほつれてしまっても、習慣と生業は捨てられない人が多いらしい。事実、僕らだって学生をしたまんまだ。それは一つには、ジャンプがいつ起こるかなんて誰にもわからないんだから、自暴自棄になってるわけにもいかないって問題もある。何もかも好き勝手やってやろうと思ったときに限って、一週間も二週間もそのまんまってことは結構あるものらしい。ただやっぱり、そこがどんな世界であっても、どんな時間であっても、習慣だけが自分を保証してくれるからなんだと思う。たぶんね。
 レイジと希はもうけっこう前を歩いていた。いつのまにかずいぶんとちんたら歩いていたらしい。梨子はさらに僕の後ろの方で、あまり真っ直ぐじゃない歩調でふらふらとしている。それで、不意にぱっと顔を上げた。
「子供の頃にさ、毎日通っている公園があっただろ。団地の裏の、すべり台がなんでか三個もあるやつ。それで、世界に存在する全ての公園はたぶんどれも同じようにすべり台が三個もあるんだと思っていたんだね、若き入出梨子は。だって私にとって公園といえばそこしか知らなかったからさ、本当に世界にたった一つしかない公園のうちの全てではあったんだよ、あそこは。
 ただちょっとした親の用事の連れ添いかなんかで、隣町に行ったことがあった。車で行ったんだ、ドイツ製のでかいの。当時はパパが生きてたから金回りも良かったんだ。それで、用事へ向かう途中に、窓からそこの公園を見たんだよ。隣町のを。今でも覚えてるんだ。だってすべり台が一つしかないんだもの。絶対にあそこに行かなきゃいけないって思った。それで私はもう気が違ったみたいに親に頼んで、泣きわめいたんだね。いやあパパもママも驚いただろうなあ。それともようやく乳飲み児から卒業したばっかみたいなガキンチョだと普通なのかもしんないけど。
 で、その時はもちろん用事に向かう途中だって言うんだから無理だったんだけど、中学にあがってからまた隣町まで行く機会があったんだ。それで、あのときにはもうすっかり子供の頃のことなんて忘れてたんだけど、偶然にその公園のとこを通ったんだ。フラッシュバックっていうのか、いままで濾過用のフィルタに引っかかっていた記憶がフィルタごとひっくり返されてまるごと落ちてきたみたいな感覚があった。けれどね、緒川、私の記憶違いだったんだよ。実は記憶ん中の公園じゃなかったんだな、そこは」
 梨子は上機嫌だった。なんだか興奮してるようで、いつにもまして早口でまくしたてている。そういう時のこの人はすぐに分かるんだ。だって両手を使ったボディランゲージがすごく激しくなるから。やっぱりちょっと、魅力的な動作ではない。
 本当ならこういう時、僕はいつも相槌を打つだけの役割にまわることにしている。ただ相槌を打ってるだけだといつまでも続きそうだったし、何よりもてんで要領を得なかったから、しかたなく僕は口を挟んだ。いつも梨子に口を挟まれてばっかりだから本当は自分ではやりたくなかったんだけど、しかたない。明らかにこの人は、最初には何かしら自分の経験をひいて僕に説明をしようとしていたんだろうことは確かだ。なんの説明をしたかったのかは知る由もない。が、さっき言っていた怖いの怖くないのってことかもしれない。何にせよ、梨子がすっかり自分の過去の体験に入り込んでいて、そっちに脱線していそうなことは感じられたから。
「それで結局、あんたはどうしたんだい」
「ああ、うん? だからさ、そこの公園には滑り台が一つしかなかったんだ。団地裏の公園は――」
「僕はその団地裏の公園なんて行ったことはないぜ」
「そうだった? まあ、とにかくそこには三つも滑り台があるんだよ。なのに他の遊具はなんにもないんだ。私はいつもそこで遊んでたね。どうやるかっていうと、最初の一つを決めてから、パパからもらったピンクの腕時計で時間を測るんだ。そして滑り台の滑る方からつるつるするのを堪えて登頂する。で、次のに移る。それが三つ分終わると時間をまた見て、どれだけかかったのかってのを秘密のノートに記録する。そんなようなことを毎日やってた。毎日やってると結構早くなるもんなんだよね」
「変わった子供だ」
「うん。それなのに隣町の公園にはさ、滑り台が一つしかないだろう。だから幼い頃の入出梨子は恐怖したんだ。私はこの公園ではどうやって遊べばいいんだろう? だっていつもの記録は三つの滑り台を巡ることが前提なのに、一つしかないんじゃタイムも三分の一になってしまって成立しないじゃないか」
「記録を三倍にするんじゃダメだったのか」
「ダメだったねえ。だって三つの山を登るんだから体は疲れて効率も落ちたりするだろう。やっぱり別物さ。それに私はまだ掛け算をマスターしきれてなかったんだ」
「足し算だって構わないじゃないか」
「言ってやってくれ、幼い頃の入出梨子に」
 レイジと希はもう本当にずっと先に行ってしまっていた。大声を上げたって届くかは怪しく思えた。商店街の明かりはそろそろすぐそこに見え始めている。
「それで、梨子、君は何が言いたいんだよ」
「だからさ。昔の私は習慣が変わるなんてことが起きるのを想像するととても恐ろしかったって話だよ。公園で遊ぶといえばそこには三つの滑り台が必要だったんだ。それが二つも取り去られた世界があるだなんてね。こんな恐怖もないよ」
「でも、今はそうすることだって怖くはない」
「怖いさ。不意のジャンプで今までの習慣ってのがすっかり通じなくなってしまうこともあるだろ。そういう時、恐ろしいから、私の方から自分を変えてやろうって思うんだ。そういうのも悪くはないってんだ。緒川はそんな時にどうするんだい。滑り台が一つしかない公園に飛ばされた時にだよ」
「どうもしないよ。僕はあんまり習慣ってのを意識したことないからね。ていうか、意識しなくてもそうちまうってのが習慣なんだと思ってた。ジャンプした先がどんなであっても、僕が僕である以上は、習慣もそのまんまだろうな。それが習慣ってもんだろう、やっぱり」
「しかし物理的に不可能な時もあるってことだよ。ちゃんと私の話を聞いてるの?」
「聞いてないね」
 だって梨子の話は取り留めがなく、要領を得なかった。聞く気になる方が凄いってもんだ。
 僕らはもう何も言葉をかわさずに、「眞島商店街」とデカデカ明朝体で掲げられたゲートをくぐった。レイジと希が、入り口そばにいつも出ているたいやき屋の屋台の戦利品を手に持って待っていた。すでに二人の口はもぐもぐやっている。
「私達の分は?」
「あったけど、食べた」
「その手に持っているのは?」
「これは私とレイジの」
「4つあるうちから、緒川はいいにしても、私の分も優先して食べたの?」
「確かに、そういうことになるんだね」
「しかし、おいしそうだなあ」
「うん、とてもおいしい」
 そのまま涎でもたらしそうな勢いの梨子を目の前にして、希はその手に持っていたもう一匹も食べ尽くした。頭から三口。その影で、レイジもまた自分に飛び火する前にと急いで口に突っ込んで盛大にむせ返っていた。
 僕は、べつにやることもなかったから、もぐもぐする希を眺める梨子を眺めていた。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
「おいしそうだねえ」
「ごくん」
「いいさ、自分で買ってくるから」
「待って梨子!」
 屋台に駆け出そうとした梨子を希が引き止める。彼女が声を上げるのは珍しい。鈴の音がりんとなるような声なんだ。あたりにはそんなに人もいなかったけど、希が少しでも大きな声をだせば誰もが振り返る。もちろん梨子も振り返った。喜色満面、「やっぱり私のためにとっておいてくれたんだよね! ありがとう希! 大好き! ほんと好き! この地上におりたった天使め、あんまり先輩をからかうもんじゃないぜ!」って感じだったね。
 けど、希の用事はそんなんじゃなかった。ただ彼女は澄ました顔で
「たい焼き代、払って」
 と告げた。
 まあ、その時の梨子の様子は、例えあと何百回ジャンプしたって僕は忘れることはないだろうな。掴みかかるべきか、肩をすくめるべきか、ちょっと泣き出してみるべきか、「ジョークのセンスは二流だな、希」ってさらりと流すかで自我が分裂しているって感じだった。それはもう、口を開けば自分でも何が飛び出てくるかわからないって風で、とにかく黙りこくるのに必死らしいのはよくわかる。
 それで梨子はたい焼き代を払ったのかって?
 そんなことは知らないね。
 だって気がつけば僕はまたジャンプに呑まれていたんだから。実に今週四度目のジャンプだ。ぐらりという感覚、さえない。披露宴の思い出のアルバム、それが切り替わっていくように、さしたる感動もなく、僕の意識は切り替わる。

 で、初め、僕は自分が石の上に寝転がっているのかと思った。だってあまりにも硬いものだから。
 全身がひどく痛い。こんな石の上で寝ていたらそう痛くもなるだろう。このままだと筋肉まで石のようになる気がして、ばっと飛び起きた。飛び起きようとした。
 半開きの視界の中にある光景を分析する間もなく、ぐるんとそれらが一回転する。更に硬い地面へと落っこちる。い草の匂い、畳だ。それで、ようやく、これまではベッドの上にいたらしいってことがわかった。大理石のようなベッドだった。
 時計の針の音。痛む体。すえた臭気。ひどい寒さ。
 あまり見覚えのない場所だということは間違いない。梨子も、希も、レイジも、辺りには居ない。というかここはほんの手狭な部屋でしかなく、そこにいるのは僕だけだった。あとは硬いベッド、なぜだか同じ部屋の中にある白い便器。背の低い机と散乱した紙片。外へと続くのだろう白い扉は固く閉ざされている。
 どうにも混乱したままの頭を振る。まだ、さっきまでの商店街の光景が脳裏から消えない。ネットブラウザの戻るボタンを押してページを切り替えるように、目を一度瞬くとすぐにそっちへと戻っていけるような感覚がある。ジャンプした直後にしばしば起こるやつだった。でもそんなことはなくて、あの光景の中には二度と戻れない。一緒に居た連中は同じように飛ばされたかな。それはわからない。次のジャンプがある前に落ち合えれば、また次のとこにも一緒に行けるだろうが、僕らには盟約があるのでそれをすることはない。互いに互いを探さないこと。それがルールだ。酷いルールだと思う。言い出したのは梨子だった。とはいえあの人なりの優しさ、あるいは経験からくる対応策であったのは間違いないし、僕らもずいぶんと精神的に助けられている。
 嫌だろう、ずっと一緒にいようとするほうが。そうした行為そのものがってんじゃない。どうあったってジャンプは残酷な結果を招くんだから、最初からすっぱり諦めといたほうがいいという話しさ。誰かと一緒に長くいればいるほど別れというのは辛くなるのだから、その時のために悲劇のフラグを溜め込んでおく必要はない。そういう意味で梨子は合理的だった。
 それで、ここはどこだろう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?