電話

 誰かに電話をするつもりだった。
 けれど何をどう間違えたのか、自分の携帯電話番号にかけていた。
『ルルルルルル ルルルルルル』
 バカ正直にコール音が鳴り始める。いや、どこにかかるっていうんだ?
『ルルルルルル ル……』
 すぐに掛けなおそうと思ったら、向こうから勝手に鳴り止んだ。やっぱり自分にかけた場合はエラーかなんかで自動で切れるようになっているんだろう。
 そう思ったのもつかの間で
『はい、十紙垂(トシデ)ですが』
 私が出た。
 その場でずっこけそうになって、心臓が止まりかける。
 うん、なるほど? 自分の携帯電話番号にかけると、声真似の達人が自分のフリして応対してくれるサービスがあるんだな。最近のガラケーってのはスマホに押されて商売上がったりなんだろうけど、力の入れどころが間違ってる気がする。私だって金さえあればスマホにするよ、そりゃあ。
 なんて、私は勝手に納得しようとしたが、私が無慈悲に続けやがった。
『ええと、すみません、どちら様ですか?』
 丁寧な対応。私も知らない番号から電話が来たらこんな風にしっかりと敬語を使うんだろうか。そりゃあ、使うんだろう。私がそうしてるんだから。
 そして声音は確かに私の声とよく似ていた。少なくとも、自分の番号にかけたことすら間違いで、更に別のどっかへ間違い電話をかけたってわけじゃなさそうだ。第一、十紙垂なんて妙な苗字を私は自分の親類縁者以外で見たことがない。ニュースにのったら一発で素性がバレるだろう。
 まあ、電話越しの声のトーンなんてあてにならないし、たまたま自分の声に似た人にかけた、というのならまだありそうなものだったけど。こういう時に自分の苗字が「ヤマダ」とか「ワタナベ」だったら混乱してたろうな。
『もしもし? イタズラ電話なら切りますよ』
 ねえ、私。もしこれがイタズラ電話だったとして、そんな風に言ったところで意味なんてあるのか。けれどしかたない。私は電話ってあんまり好きじゃないし、電話慣れしてない。そんな悲しい慣れは別にいらない。
 なんにしろ、私としてはべつに、そのまま向こうが切るに任せても良かった。全てを見なかったこと、もとい聞かなかったことにして、改めて本来の相手に電話をかければいい。電話代なんて気にしちゃいないけど。
 ただそれじゃあ不公平だなって思う気持ちもあった。つまり、私はこの現象、まあ怪現象の類だけど、それに自覚的でいる。一方で電話の向こうの私はそうじゃない。ただのイタズラ電話だって思ってる。そりゃ不公平ってもんだろう。
 とはいえバカ正直に名乗ると本当のイタズラ電話だって思われそうだ。まあ私ならそう思うよ。そして向こうはたしかに私。
「久しぶり、ヒナ。リコだけど。わからなかった?」
 だから、とりあえずそう言ってみた。リコは私の中学の頃の友達の名前だ。にっこり笑うと歯の矯正が剥き出しになるんだけど、それがとても彼女の幼い雰囲気とあっていて可愛い子だった。少しだって趣味があわないくせに、どうしてか一番長い時間を一緒に過ごしていた。
 卒業してからは会ってない。
 今はもうあの矯正は外してしまっただろう。幼い雰囲気も無くなってしまったかもしれない。なんだかすごく悲しい気持ちになる。
『リコって、御崎中で一緒だったリっちゃん? ごめん全然わからなかった。雰囲気変わったんだねえ』
 私たち(Weではなくて、Iの複数形だ)を繋いでいるものは声だけで、その点でいうと私の言葉は少しだって信憑性のなさそうなものだけど、向こうはけっこうあっさり信じたようだった。声なんて、リっちゃんはミルク菓子みたいな声をしていた一方で、私のは相変わらずアルミホイルみたいな感じなわけで、一応似せては見たけど全然のはず。
 さてはこいつ、名前だけでさっさと信用しやがったな。
 実のところ、私はけっこうバカなのかもしれない。べつに自分が賢い人間だと思ったことはないが、オレオレ詐欺に引っかかるようなタイプのバカだとは。
『でも、急にどうしたの? もしかして同窓会のお誘い?』
「あー、うん。実はそうなの。ヒナって一人だけ東京の高校に行っちゃたでしょ。だから連絡するのが大変でさあ」
『ホント!? もう予定は決まってるの?』
「予定が決まったから連絡したんだもの」
 そりゃ嘘っぱちってやつだった。だって私はリっちゃんじゃないんだから、同窓会なんてあるわけない。
 しかし、同窓会とはね。咄嗟にうんと言ってしまったけど、これには私も参らされた。
 電話の向こうの私は実に楽しそうだ。私だって同じ立場ならそうするだろう。だって私なんだから。リっちゃんの笑顔と矯正が目に浮かぶ。それだけじゃない、他のバカどもの顔もだ。
 行きたいなあ、同窓会。戻りたいなあ、中学。
「ヒナはさあ、どうして東京行こうって思ったの」
 だからだろうか。そんな突風みたいな感傷がふと口をついて出ていた。
 どうしてだって? そんなこと嫌になるほど知ってるのは誰なんだか。
 でも、向こうの私はやっぱり律儀に答えてくれた。私だってそうするよ、もちろん。
 でも聞きたくない。耳をふさごうと思ったけど、姿勢が崩れそうでやめた。いいよ、もう。言っちゃっていいよ。あーあ。
『小説家になりたくてさあ。って、前にも言わなかったっけ?』
 言ったよ。100回くらい言ったよ。リっちゃんもう聞き飽きたって感じだったよ。でもいつもちゃんと聞いてくれた。そういうことは忘れるなよ、私。
「こっちでも出来ることじゃないの? それって東京じゃないとダメなの?」
『やっぱり都会にでていっぱい勉強しなきゃ駄目かなって思って。なんていうか、人間ドラマ? そういうのって人が多いところで起きるものじゃん? それにママも東京に憧れてたんだって。だから、ちょっとした提案のつもりがトントン拍子で決まっちゃって』
 そこで、ふと私は気がついた。
 向こうの私は、たしかに私ではあるけれど、別人でもあるようだった。つまり、時間的なズレがあるらしい。少なくとも、今の私じゃない。
 なんか、元気だった。
 東京くんだりまで出張ってきて高校に入って、まあおそらく、二年と少しくらいまでのどこか。その頃の私だ。改めて考えると少し声も若い。そりゃあ煙草を吸ってないからだろう。アルミホイルとまではいかない、サランラップくらいの声。
 紛れもない別人だ。しかし確かに私でもあった。
「それで、夢は叶いそうなの?」
『まだわかんないかなあ。勉強はしてる、けど』
「けど?」
『うん……人が多いと、すっげー奴も多くてさあ。いやあ、井の中のなんとやらっていうのかな。どれだけやっても全然追いついてる気がしないんだ。リっちゃん、アキレスと亀って知ってる?』
「聞いたことくらいはね」
 まあ、本物のリっちゃんは知らないだろうな。彼女は、だってどんなに切羽詰ったってけして本を読まない人間なんだから。『人魚姫』を読むのだって文字オンリーな媒体なら顔をしかめそうな相手に「アキレスと亀」を期待するのは間違ってるってものだ。
 けれどそんなことは抜きにしてリっちゃんはいい子だった。彼女は本を読まなくても、直に人から学ぶ術を知っている。今更ながら、私が騙るにはもっとも不適切な相手かもしれない。
『アキレスはけして亀に追いつかない、なんて言うけどさ、アキレスは無限に追いつかない亀に向かって走り続けるんでしょう。普通諦めちゃうよね、追いつかないってわかったら。いやあ、そこが凄いところだと思うんだよ、アキレスの。無限に追いつかないってわかるくらいまで無限に走っちゃうんだもん。それって追いつけなくても、なんかもう別の境地に達しちゃってると思うんだ』
「ヒナは、走ろうとしない?」
『まだ走ってる。でもこの先は……どうだろう。やる気はあるけど自信はないかも。ああ、なんか変な感じだね。リっちゃんとこんなこと話すなんて』
「私も少しは大人になってるってこと」
『そっかあ。私も大人になったら少しは変われるかなあ』
そりゃ、無理だろうな。自嘲的な笑みってやつが漏れる。私は知らないだろうが、私は高校を卒業したくらいじゃちっとも大人になっていないのだ。そのことは私がよく知っている。
 大人になる機会が見えたこともあった。そりゃあ、精神的な意味でも、肉体的な意味でも。ただしそれを前に逡巡して、深夜にベッドの上で暴れたりして、それでなんとか手を伸ばす覚悟を決めたときにはもういなくなってたんだな。
「大人になると見えなくなるものってあると思う。だから、ヒナには、子供の頃しか見えないものがまだ見えているはず。それでいいんじゃない」
 よかないさ。
 でも、向こうの私が今の私より三、四年くらい若いと知ってから、なんだかちょっぴり私自身を相手にしているっていう気分が薄れてきて、思わず愛しく接したくなっただけだ。ごくごく飲んでいたオレンジジュースが果汁0%だと知ってから、なんとなくオレンジの味がしなくなったような気がして、それがなんとも哀れに思えるあの感覚。こいつは、果汁なんて出がらしのすっからかんさえ入ってないくせにオレンジジュースを名乗らされているんだなあ。私だってちょっぴりだって大人じゃないくせに法的にはギリギリ大人を名乗らされている。向こうの私は、まだ未分化の原料液のままだろう。
 いいねえ。
『なんか、ありがとう、リっちゃん。ちょっと引いちゃうくらい元気出た。いや、引いてないよ。ほんとに。てか私のことばっか話しちゃったね。そっちはどう? 彼氏とかできた?』
 自分はこれっぽっちも恋人なんて作る気がないくせに友人にはそういうことを聞けるんだ、私は。まあ中学の頃は女子校だったから、社交辞令的に連中と合うたびに私はそう聞いたことはある。そしてこいつは私だから、やっぱり同じように聞いてるだけだ。
「彼氏なんて……まあ、なんだろう。正直な男はバカだし、気の利いてる男は嘘つきなんだ。そしてみんな碌でもない、最後には女より男同士の友情が大事だって言い始める」
『えと、なんかあった? 聞いちゃいけなかった感じ?』
「なんにもないよ。私はうわべだけなぞったくらいで、もう奥まで付き合うのはやめちゃった」
『ふうん。こっちも共学だけど、あんまし男の子と話す機会ないからなあ』
 機会なんて、いつも授業後すぐに図書室に駆け込んでるやつにあるわけ無いだろうが。
 でも、まあ、それは男がどうとかってんじゃない、東京の人間が根こそぎ魅力がなかっただけだ。
 私が今日の天気やなんかについて話そうとすると、すぐに連中は「でも明日は雨だけど」なんて言い始めるんだ。誰が明日の話をしているっていうんだろう。私は今を話してるのに。
 その点で言えば図書室の本は誠実だった。まさに読み進めているその一行だけしか騒ぎ立てない。右のページを読んでいる最中に左のページがネタバレかましてくるようなことはない。
 それに、だ。小説の最後の行には全てのまとめが書いてあったりなんか絶対にしないところがいい。まとめるのは、あくまで読み終えた私の仕事だから。
 なのに連中ときたら、人の話を聞いているようなふりをしてるくせに「つまり、君の言いたいのは」だとか言い始める。それなら、私が最初から「これから話しをしようと思うけど、やっぱりすこぶる時間がかかるから要約すれば、つまり……」と言えばいいのだろうか。私の話している時間はどうでもいいらしい。今日の天気より明日の天気のほうが気になる人たちなんだから。
「ヒナ、そっちの天気はどんな感じ?」
『天気? うん、まあ七割晴れで残りは曇りって感じかな』
「そっか。明日の天気はどう?」
『え、うーん、どうだろう。でも、明日も晴れるといいよね』
 あっけからんと言い放つ私。ちょっぴり負けた気がする私。
 晴れるといいよね、ときた。
 私はすっかり向こうの私の明日を、明後日を、おおよそ四年後程度まで知ってるつもりでいたけど、奴さんにとってはまだ明日はどうだろうって感じのものなわけだ。少し東京の雨に毒されすぎていた私。
「そうだね。こっちは連日雨だから、お天道さまが恋しいよ」
『ほんとう? 雨の日ってやだよねえ。服は濡れるし歩きにくいし、おまけに頭は痛くなるし。でも雨が上がっちゃうと、どうしたってあんなに嫌な気分だったんだろうって思うじゃん。私は、あれけっこう好きなんだ。健康体、いいなあ~って思って。や、ちょっとガキっぽいかも。忘れて』
「二日酔いが冷めた後みたいな感覚でしょ、わかるよ」
『二日酔いって……リっちゃんまだ未成年じゃん! 東京はめっちゃ厳しいよ~年齢確認。うちのママだってコンビニで年確ボタン押させられるもん』
「東京の人は、その人が本当に大人かどうかなんて見る目がないんでしょう、きっと」
『まあ、そうなのかなあ。そんな事言うなんてリっちゃん大人だよ本当に。もう大学生にでもなってるみたい』
「大学生になったって大人になれない人はいっぱいいるよ」
 そう、例えば私とかね。けれど私なんて可愛い方だ。自分は大人じゃありませんっていつ何時でも白旗をあげる用意がある。中身は私と同じくらい果汁0%なくせに純粋果汁配合なんて書いちゃうような連中よりはマシのはずだ。
 けれど今は就活シーズンで、そんな違法表記ジュースがごまんと店頭に並んでいる。そして善良な市民がそれを知らずに飲んでいる。なんともはや。とにかく私だって違法表記には違いないのだけれど。
『大学ねえ。ていうか私たち、来年はもう受験じゃん。行くとこ決まってる?』
「ヒナの場合、どこに行っても同じだよ」
『ひでえ! それどういう意味だよ!』
「私は大学には行かない。高卒で、世界一周する」
『え、マジ? リっちゃん本気?』
「ただお金がない」
『なんだ』
「でもヒナは大学なんてどこ行っても同じだってのはマジだよ」
『えー……』
 それこそ世界一周でもしたほうがいいかもしれない。
 ただ、ちょっぴりそれも安直だ。コインの面が気に入らないから裏返してみるみたいな。その裏側にもやっぱり同じ模様が刻まれてる可能性だってある。そうなった時、もうコインの裏側が永久に見えなくなったことを受け入れなくてはいけなくなるんだろう。
 本当に怖いのは、むしろそっちのほうかもしれない。
『ねえ、今度どこかで遊ばない? 私バイトしてるからさ、新幹線代くらいはあるよ。ちょうど春休みだし』
 私は、なんとなく、その私の口ぶりから、懐かしい思い出の絵画たちの香りを嗅いだ。昔々の日々を切り取った美術館。でも館内は私語禁止で、だから私は、今はこれっぽっちも思い出話なんてしたいとは思わなかった。だいたい自分自身と思い出話をするなんて、ただ昔のことを一人回想してるだけじゃないか。
 けれど向こうの私は、今、自分の時を少しずつ巻き戻そうとしている予感があった。だからこそ、あっちに戻ろうなんて考えているんだろう。
 そういう流れは、もうリっちゃんには止めようがない。どんなふうに成長したってあの子が私の戻ってくるのを積極的に拒むはずがない。もし、まっとうな理由があろうが、思い出に拒絶されたら、私はすっかりしょげかえってしまうだろう。
 それはかわいそうだ。でも、もうリっちゃんでいいることはできそうにないんだと私は悟った。
「ちょっと、ヒナ、いい? 大事な話があるんだけど」
『う、うん。どうしたの、改まって』
 だから、この際だからもう全部うっちゃけることにしたんだ。そもそも、このまま最後までリっちゃんを演じ続けても不公平が解消されないじゃないか。最初に彼女の名を騙ったのはいたずら電話だと思われて切られるのが嫌だったからで、今はもうその心配もない。
「ええと、実は私、リコじゃないんだ」
 口にだすのはいつでも簡単なんだけれど、問題はその後だった。とはいえ向こうにいるのも私だ。気兼ねする必要はない、とわかってはいるけれど。
 そして私の反応は、まあわかっちゃいたけれど、けっこうにあっさりとしていた。
『うーん、やっぱり? なんかおかしいと思ってたんだけど』 
「バレてたか。じゃあ誰だと思う?」
『それがさあ、少しも思いつかないんだよね、悪いけど。ここまで私のこと知ってる人なんてあんまり多くはいないはずなのに。家族じゃないし、友達の誰でもない気がする。先生とかそういう感じでもないし。後はもうウチのうさぎのトビーくらいしかいないもん』
 うさぎだったらどうするつもりなんだろう、こいつは。
「まあちょっと、ひっかけ問題みたいな感じではある」
『や、全然わからん! ギブ!』
 間髪入れずに降参宣言が入った。さすが私だ。諦めが早い。
 しかし、改めて考えるとなんと答えればいいんだろう。
「私は、あー、十紙手陽菜っていいます。どうも、はじめまして」
『……なるほど。まあ納得はできるかな。理解はできないけど。いや、うん。そっかあ。私と話してたのかあ。なあんかそんな気はしてたんだよねえ。嘘だけど』
 たぶん向こうで私はうんうんと頷いているはずだ。電話越しでもジェスチャーを入れてしまうのは私の癖だから。
「そんなに驚いていないね」
『驚いたほうがいい場面?』
「自分で考えてよ」
『そっちが考えても、それって自分が考えたことになるんじゃないの? だって私なんでしょ』
 たしかにそうだ。理屈の上では。私に言いくるめられてしまった。
「ただし厳密に同じじゃないんだけど。そっちは今、高校2年くらい?」
『明日が誕生日だよ』
「そういえばそうだったなあ。それで私は22になる」
『マジか。私は17だけど。あ、17歳です。明日で』
「自分に敬語使われると頭痛くなるからやめて」
 クソ、五歳も若いのか。いや、そんなに変わらないかもしれない。大局的に言えば誤差の範疇。けれど私にとっては大きな五年間だ。なにもなかったけれど、なにもなかったことにだって意味はある。
『過去への電話かあ。どうやってかけたの? 他の私とも話した?』
「自分の電話番号に間違えてかけた」
『間抜けだなあ』
「お前だぞ、お前の未来だぞ」
『本当は誰にかけるつもりだったの?』
 それは、と言いかけた口が止まる。
 誰にかけるつもりだったんだろう?
 思い出そうとするとねずみ返しにぶち当たってしまう。
「思い出せない」
『じゃ、たいした用事でもなかったのかも』
「うん、まあ、そうかもね」
『それよりさ、本当に未来の私なら、もっと人生を豊かにするためにこの電話を使ってよ。宝くじの番号とか、大統領選挙の結果とか、入試試験の内容とかさ。なんだってリっちゃんだって名乗ったりしたの』
「イタズラ電話だと思って切ってたろ、そうしなきゃ」
『そりゃあ、そうかも』
 人生を豊かにする電話。
 それは、考えてみれば真っ先に試すべきことだったかもしれない。普通、過去の自分に電話をかけるといえば、なにがしかの気に入らない過去をやり直そうとするものだ。
「そっちが豊かになっても私の時間には影響ないんじゃない?」
『たしかに。ちょっと試してみようか』
「試すって……」
 がたん。重い音。たぶん、椅子か何かから立ち上がったんだろう。どたどたという忙しない足音。それが、すぐにまた戻ってくる。
『そっちは何月何日?』
「3月8日」
『じゃあ、この私十紙手陽菜は云々年の3月8日、財布の中に右上の角を折った千円札を入れておきます、と。よし。心に刻みこんだ』
 紙面上をマジックペンが走る音。ああ、なるほど。私にしては頭の回転が速い。
 そして私は財布を開く。100円玉が三枚。うち一枚を取り出してみる。右上の角と呼べるものはなく、折り込まれてもいない。
「ダメだ。300円しかないぞ」
『我慢できずに使っちゃったんじゃないの?』
「いや、そもそもそっちの行動が私に影響するなら、私の記憶には未来の自分と電話したことが残ってないとおかしいはずだし、やっぱり関係ないんだろう。平行世界ってやつかもしれない」
『時間系のSFはしっちゃかめっちゃかでややこしいんだよなあ』
「少なくとも私たちに起こっている現象は単純な部類だと思うけど」
 それから、二つの電話の間を無言が行き来した。
 私はといえば、向こうの言っていた、人生を豊かにする電話の使い方ってやつについてまだ考えていた。
 どうせ私自身の人生は豊かにならないとしても、まあ、こんなでも私には違いないらしい。助言くらいはできるだろうか。とはいえなにを言えばいいのかはわからない。いつだって私は、人に助言をするっていうのが苦手だった、どうしたって助言なんてできるんだ? 自分のこともまともに処せないような人間が。
『考えてみたんだけど、どうせ平行世界なら、やっぱり宝くじなんて聞いてみても無駄かもね。これが50年後とかだったら色々と聞けたんだけど、5年だとそう変わらないもんだなあ』
 変わらないということはない。いや、私はたしかに5年のうちに少しだって変わらなかった。変わらないことはいいことだと思っていた。変わらないもの、永遠の若さ、普遍的な価値観、そういうものは無条件にいいものだと信じたかったわけだ。
 でも実のところ、世の中びゅんびゅんと変わっていく一方で頑なに変わらないっていうのは、ただ置いてけぼりを喰らっているだけなんだって気がついたのが、つい最近。良しにつけ悪しにつけ、ただそういうものなんだ。開いた距離だけが真実だった。
 だからせめてそのことくらいは助言、じゃない、忠告しておくべきなんだろう。なんのかんのと言いつつ向こうの私は、まだ若い私よりさらに若い。
「おまえ、『ライ麦』は読んだのか」
 読んださ。中学の頃に。私だって覚えてる。その感想も。
『うん、読みはした。覚えてないの? なんか、まあ、ガキっぽいよね、あの主人公。何でもかんでも気に入らないってばっかりで』
 ある意味でその瞬間に、初めて私はこの電話の向こうにいるのが過去の私だと言うふうに実感できた。私は私と経験を共有し、思考パターンだって似通っている。
 でも、あの頃の私はまだ、ライ麦の畑で好き勝手に走り回る子供の側だった。そして今は、つまり私は、そのがきんちょ共を捕まえるために崖っぷちに立つキャッチャーの側になろうとしている。
 そしてこれが最初の仕事だ。
「一つだけ言っておくよ。可愛い私に向けて、人生を豊かにするたった一つの方法を」
『それ頼りになるのかな』
「なるとも。効き目抜群だ。いいか。私みたいに生きるな。それだけだ」
 それが唯一かつシンプルで最大限に効果的なコツだった。どうあっても。
 向こうの私は、今はまだ七割晴れでいるけれど、すぐに雲間は消え、雨が降り始める。けれどそれは、同じ場所にいつまでも突っ立っているからだ。爽快に駆ける駿馬を繰って、まだ晴れの続いている場所を探せばいい。それだけの時間は在る。
「今の生き方をやめろ。本を読むな。人と関われ。みんなが好むものを楽しめ。目上の人間の言うことは聞け。彼氏を作れ。子供を産め。まともに働いて、そして生きるんだ」
 けれどまあ、電話の向こうにいる私はやっぱり私だった。
『それさ、私にできると思う?』
「だよなあ」
 ある意味で、私は少しほっとした。だって、それでこそ私なんだから。結局の所、頑なに陣を敷いて動かないこの場所こそ私の最後の領地なのだろう。だからそこで生まれ、そこで死ぬ。たとえそこが止むことのない土砂降りでも。
 しかし、私はキャッチャーには向いていないな。崖っぷちのその先が見たいと言われると、もうどうあったって子供を止めてやることなんてできやしない。それに崖っぷちに見えているのは自分だけで、他の子供からするとそこは相変わらずライ麦の畑がつながっているかもしれないし。
『ねえ、私。そっちはうまくやってるの?』
「いや、全然」
『だよねえ。でも、ちょっと自信ついた』
「なにが」
『私は、自分は追いつくことのない亀に立ち向かうアキレスにはなれないと思った。でも、とりあえず5年くらい経ってもまだ、私は走り続けてるんだってわかったから。ひょっとすると最初の一歩ですっかり心がくじけちゃって、もう走ることをやめちゃうんじゃないかって不安だったから』
「そんないいもんじゃない。別に、私は」
『まあまあ。自分を卑下すると私まで卑下されてしまうじゃない』
 そりゃたしかにそうだった。しかしいいじゃないか、自分なんだから。
 それから私たちは、ちょっぴりだけ思い出話をした。もう抵抗感はない。自分の記憶を掘り下げるだけに終わると思ったが、これがなかなか面白いものなんだ。自分の思い出でも、やっぱり歳月を経ると感想や見え方が変わっている。
 それは、でも、思い出を振り返ることは長く続けるべきものじゃない。
 電話の向こうがにわかに騒がしくなった。聞き飽きた始業チャイム。向こうの休憩時間が終わったんだろう。考えてみれば向こうの私がどんな状態で電話に出ているのか気にしていなかった。そうか、まだ学校にいるのか。
「じゃあ、そろそろ」
『……これ、やっぱり夢とかじゃないわけ?』
「まだ疑ってたの? そういうこともあるだろうさ。生きていれば」
『けっきょく、ほとんど有意義なことは話さなかったね』
「そんなもんだよ。電話なんて」
『そうかなあ。ところで、電話は誰にかけるつもりだったのか思い出した?』
 こいつ、まだそんな話題を引きずってるのか。
 とはいえ、実のところ、私もさっきそのことを密かに思い出していた。ただ、ちょっぴり恥ずかしくって口には出したくなかったのだけど。
 でも、いいか。どうせ自分だし。私が恥ずかしい思いをするということは、ある意味ではあいつが恥ずかしい思いをしているということになる。
「一番大切な人に電話しようと思ってたんだ」
『ふうむ。つまり、私は私が一番大切だったってことか』
「やめろよ。口にするのは無粋ってものでしょう」
 私が笑う。私は笑う。
 さあ、もういい時間だ。電話料金なんて気にするつもりもなかったけど、やっぱり気にすることにしたんだ。
「じゃあね、私。元気で」
『うん、元気で』
 ぷつん、通話が切れる。
「もしもーし」
 ちょっぴり未練がましく言ってみたけど、当然なにも返ってこない。私は電話のそういうところが嫌いなんだ。
 でも、今日の電話は楽しかった。しかし、もう二度と話すべきじゃない。こんなイレギュラー、一回きりにしておくのが無難というものだ。たまには無難に従おう。
 私は未だに折りたたみ式のガラパゴスケータイを放り投げる。
 それは私の胸を、膝を、スニーカーを通過して、ビルの屋上の縁、磨き抜かれた窓ガラス、植え込みの新緑を貫き通し、アスファルトの路面にて砕け散った。
 暖かな風が吹く。雨は降っていない。雲間から光が刺すのがよく見える。
 少し濡れた手すりを乗り越えて、また私は生きる道の方に戻った。亀のいる道だ。長く険しい。
 別に、最初にやろうとしていたことが嫌んなってしまったわけじゃなかった。ただ、たとえ平行世界かなんかだとしても、思いの外に爽やかだったあの子を台無しにしてしまうのが、とても不誠実に感じられただけだ。
 本当にそれだけなんだ。 

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