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安達としまむら~「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」萌えを超えて尊ひへ到れ。2020年10月~12月

 正直、好きなタイプのアニメであるが作画がなあ、というのが第一印象であった。安達も島村もあまりに華がなく、モブなどは顔が黒い。背景は平板。手抜き系かあ、とさえ思えた。あーあ、前番組のアサルトリリィ担当のシャフトかPAワークスがやってくれればなあ、と……しかし、回を追うごとに まさに背景、キャラクターに命が吹き込まれたかのように活き活きとしてくる。

 よいアニメはにおいがする。雨のにおい、体育館のにおい、島村の勉強部屋のにおい、炬燵のにおい、春の夕暮れのにおい、私は女子高生だったことはないけれど自分でも重くやっかいに感じる自分の体臭、お気に入りの整髪料の下からのぞく友達の体臭はなぜかむしろ好ましい……そんなものが思い起こされる。

 なんとなく授業をサボる二人、安達と島村は無二の友人になっていく……安達の方はちょっと常軌を逸しているし、少し幼いような雰囲気なのだが。 これは安達の母親が肉体を女子高生と張り合ってしまう痛い「女」で、ほとんどネグレクト状態であることからも察せられる。対照的に島村の母親は実にできた母親である。
 なんとなく遊びに行くのもはじめて、幼馴染コンビの日野と永藤とも話すようになり、授業に出席するようになる。クリスマスにバレンタインに万障繰り合わせて楽しもうと努力する。よくある不登校児のリカバリーのような話ではある。
 もう冬だから授業をさぼって卓球のある場所にはいけない、凍えてしまうとのくだりはとてもよい。リカバーに成功した者の述懐としてリアルだ。
 安達は島村を太陽という。太陽を慕って安達はかわる。植物のように。
 
 島村は万事、のめりこまぬように距離をおいている。そして観察力がある。妹、半ば犬という安達の立ち位置。すべてを突き放しているようなモノにこだわらないような島村が、仕方ないなあ、という感じで安達に付き合っている。島村を熱烈歓迎する幼稚園のときの友達の樽見にもなんとなく冷めている。
 
 決定的な危機はクラス替えの際におとずれる。人間関係の上手い島村は、3人のクラスメイトと一緒に行動する。本当は島村に軽く思われていて自分が舞い上がっていただけではないか、と安達はまたも不登校になる。ペットショップのケースの犬以下と自虐するが占師や先輩の置いていった小説の影響で逃げない決意を固め、強引に3人組と安達が昼食をとっている椅子に座る。安達は島村の横に自力でおさまる。このエピソードは出会いには実に様々な偶然が左右していることが現される。
 存在するのか否かさえも、わからない謎の宇宙人幼女ヤシロは二人の出会いのメタファーであったように思える。
 
 島村は冷静にものをみる。安達との関係を優先することは他の選択肢を淘汰することに他ならず、人間関係の可能性と引き換えであると。女子高生らしからぬ、もはや冷酷な廟算でさえある。モブの顔が黒塗りなのはそれである。自己と関係ない人間は顔がないのと同じであるという冷たい認識のあらわれである。計算を超えて島村は安達と友人であろうと決意する。安達の決意に応える。
 
 島村の下の名は後半まで明らかにされない。文学者の名前をそのまま使っているとは思わなかった。島村抱月はイプセンの「人形の家」を翻訳し本邦における女性の自立を説いた。母親の家からの安達の解放を意図したのだろう。はっきり荒れている家とは描写されていないのだが、安達の家はなんとなく廃屋のようであり、最初まさか友達は幽霊的なホラーな話なのか、とさえ思えた。この描写は上手い。
 
 桜の下、島村は述懐する。何度もこの桜を二人で見ることはない。自分たちの時間は有限であると。避けられない将来、一人で春、歩いていかなければならないことを。でも、今は安達に桜をもとめる。桜は移ろい、散華、死のメタファーとしてつかわれることが多い。でも、ここでは友だ。

「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」伊勢物語にある在原業平作とされる歌は水無瀬の宴で詠まれた。私はただ春を惜しむ季節の句だと長い間思っていた。桜が好きでたまらない平安歌人の日本人の春の歌であると。しかし、それは違った。これは恋の歌であり、友の歌であった。気に掛かる人、大事な人がいることはこんなに心ざわつかせるものであると。
 昔鳩ポッポと揶揄された首相は友愛を説いたが、友恋という言葉もあるのではなかろうか。桜がモチーフのアニメはたくさんある。秒速5センチメートルとか、イエスタディをうたって、など。でも気付かなかった。安達としまむらではじめて気付いた。まさかアニメから歌の解釈を学ばされるとは思っていなかった。本作の最大の衝撃であった。本居宣長もびっくりであろう。

自転車に乗る二人。このシーンが私は好きである。


 逝く青い春を惜しむ。それが本作の魅力であろう。二人は関係を続けられる可能性の方が小さい。大人になれば、密接して相手を求めすぎた少女時代は、恥ずかしくなる黒歴史になるかもしれない。もし二人が友から恋人となり関係を育むとしても違うものになるだろう。もっと落ち着いた大人の関係に。安達もいつまでも安達犬ではいられない。でも、それでもいい。それがいい。思春期に一瞬の光芒を放つ。そんな友恋があってもいい。きっと人生は豊かに華やかに色づく。

「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の返歌は「散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」である。桜がなければ春はのどかである、しかし桜は散り行くからこそ美しい。

 雅、ものの哀れ、侘び寂びに通ずるものとして萌えを本田透は定義した。今、新しい定義を求める。萌えは己を主体とする。人形遊びに例えると己と人形のままごと遊びである。だが、百合やBLは己を主体としない。人形と人形でもってままごと遊びをする。
 己は愛されなくともよい。人形同士の関係性を想像し創造して愛する。なぜヘテロな愛ではないのか。それは自己の性別により女なら女、男なら男側に自己投影してしまうからである。その自己投影を廃す。愛し合う二つの意識を自己の心に持つ。
 その世界を愛し全肯定する。その感情をもって「尊ひ」とする。萌えを超えて「尊ひ」となす。間違いなくこの作品には「尊ひ」がある。島村抱月と安達桜は「尊ひ」

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