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リコリス・リコイル~君の心臓〈セカイ〉を撃ち抜くエモい令和の弾丸。2022年7月~9月 #4:地獄の黙示録

 アニメにテーマは必要かはよく議論される。テーマ、というより理念であろう。人はなぜ闘争するか。利益や感情的な好悪、希望など、様々であろう。しかし、もっともわかりやすく欲望されるのが、考え方、理念の違いによる闘争である。

 三つの大きな理念がリコリス・リコイルでせめぎ合う。リコリコは利己利己ですらある。
 あくまで物語に奉仕するために理念の闘争がある。ただ理念重視、理念布教のための物語はイデオロギーの操り人形となり魅力をたちどころに失う。千束とたきなの物語のため、立ちはだかる理想が必要なのだ。

 吉松の信奉するアラン機関は才能は神の所有物だとする。宮沢賢治も才能とは天が何事かを成し遂げるため貸し与えたものであり自分自身のものではない、と説いていた。一見、ユートピア的な考え方ではある。吉松はその神の力に仕える司祭である。

ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ。英知の象徴。劇中では明かされなかったがアラン機関もおそらくラジアータを擁するDA同様、AIを中核として組織されているように窺える。

 彼の行動はすべてアラン機関の力によっている。この理不尽のディストピアのメタファーは人生を世界に決められることこそ幸福と説く。これはDAの悪意の存在を許さない平和とも通じる。
 DAとアランは双生児であり、AI、IT万能社会のメタファーである。
 だがそれは中世である。いかに合理的にみえても神(その代理人)の決める中世と変わらない。理性に基づいた選択が人を自由にしてきた。
 
 奇妙なのは千束は吉松の、アランの認める自身の驚異的戦闘能力を大した才能とは思っていない点である。「目は誰でも弱点」「なんの才能があるかわからない」天然なのか欺瞞なのか。
 なんとかスキルの物語(スキルさえあれば、なんとかなるとおもっているんだろうか。現実ではスキルを活かす力量、見合った精神力や知性が必要なのだが)が横溢する中、この才能観は皮肉でもある。
 誰もが認める才能を自分では評価しないし、それを運命として受け取ることに抗う。それが千束の理性で選択なのだ。

 絶対のDAは真島との会話で楠木司令が非理法権天の論理を振りかざす。法の埒外の存在として犯罪者を処刑して回るリコリスは不自然であると指弾する真島。法外のものを認めない真島はある意味、まともな常識人であり法治主義の近代人である。
 しかし、楠木は法より先に存在したDAこそ天意であると主張する。法より慣習、伝統であるという保守の考えにもみえるが、DAはその力をこそAIラジアータに拠っているのである。

最高のAIラジアータ。しかし、所詮は道具でしかない。盲従した時、組織は破滅への道を辿る。

 歴史と伝統を騙りつつテクノロジーに盲従し権力を振るう……正に中共やロシアのような権威主義国家の理念でなくてなんなのか。近代VS反近代。近代がテロリストであり反近代こそ社会という価値の転倒。まったく噛み合わない理。

 こうした利己的な理に対して千束は利己的な信念で対峙する。人の命を奪うのは他人の時間を奪うので拒否する、死は誰にでも訪れるお別れの時にすぎない、周囲の人たちに与えたことで記憶に残りたい、と千束の信念は千束の死生観だった。
 
 しかし千束の利己的な信念は変わるたきなのために。たきなが千束によって変わったように。はっきりと描写はされていないが、終盤戦、千束はついに真島を殺す決意を固めたと私はみている。

千束のように自分なりのルールで公正であろうとする。彼のなりたかったのは正義の味方。

 千束の心臓の調子が悪くなり真島はフェアにも休憩を申し出る。千束にとっては美味しいが真島にとっては甘すぎるジュースで価値観の違いをメタファーする。
 会話は和やかだが殺気が満ちている。千束の守りたいものは矛盾に満ちた子供たちリコリスが犠牲になる現実の平和、このディストピアでも充分価値ある自分の大好きな場所、仲間、「一生懸命な友達」、そして生きた証として他者と関わること。
 真島はありのままの闘争に満ちた抽象的な世界、痛みを伴う真実を守ろうとしている。

「正義のヒーローはどっちだ」「ビルから落ちない方じゃない?」ダイハードのオマージュがまたも演じられ、決定的対立が露わとなる。

 千束は自分の死後、DAが消えるまで戦い続けるであろう真島をこのままにしておくことはできない、と直感したのであろう。
 自分以外、この強敵の相手にならない。フキもリコリスも何よりたきなも殺される。おそらく、たきなのために真島を始末する必要性を認めてしまった。吉松の心臓を奪い取って延命することはできないが、自らの命を使って真島を討ちたきなを守ることはできる。

 千束は真島を延空木から落とすために組み立てられた戦闘を行う。追い詰められ、たきなの声で我に返る千束。ないはずの心臓の鼓動が聞こえるエモい演出。

はじめての殺意。千束はたきなに真島のいないより安全な世界を残すことを決めた。真島を道連れにすることに、もはや躊躇いも無く迷いも無い。たきなと真島によって千束は羽化を遂げる。

 ついに殺意を露わにし銃弾を撃ち込み続ける千束に恐怖し落下する真島、共に落ちる千束を救ったのはたきなのワイヤー、一本の細い鋼線が千束を支える。

肩に食い込む鋼線の痛みに耐えるたきな。千束の命の重さ。千束を失うのはこの痛みなのだ。


 千束は命に大事にをモットーにする癖に自分の命は使い道を冷酷に計算していた。それをたきなが受け止める。
 宙ぶらりんになった千束は延空木が爆破されず花火が打ち上げられるのみで、「ふざけやがって」と呟く。

 闘争は終結した。

 千束のDAのこの悪しき平和が守られる。そして間接的ながら吉松の企ては成功した。千束は「ほんとうにだいじなもののためならいのちをなげだしいのちをうばう」戦士となった。この悪しき世界が勝利をおさめる。

 アニメにおける「悪しき平和」VS「正義の闘争」は実に古くから語られている。数えきれないくらいたくさんの作品が存在する。個人的に私の好きな作品を二つあげる。機動警察パトレイバー2とR.O.D・THE・TVだ。

日本における戦争、自衛隊の存在に切り込んだ現在でも通用する金字塔的名作。

パトレイバー2では全滅したPKO部隊の元隊長柘植がクーデターを偽装し首都東京で戦争を演出するという挙に出る。柘植は偽りの平和を守る警察、主人公特車二課らに打破される。 

既にIT万能、支配の世を見抜いていた。世界(IT)VS個人(読書)という隠れた傑作。

 R.O.D・THE・TVではすべての人類に英知を与え救済しようとする大英図書館が、世界の理想より、友達とその息子、自由に本が読める世界が大事な元エージェントの紙使い読子と仲間に倒される。

「世界がどうとか知らんわ~」「世界を好みの形に変えている間にお爺さんになっちゃうよ」の千束は正にこの系譜に続する。
 
 真島に似る「偽りの平和をただす」大義に対して公務員の義務として戦う特車二課より、どちらかというと大英図書館に「自分勝手なビブリオマニア」と罵られる読子に近いかもしれない。
 こうした構図の対決は、敗者である理想主義者にも同情的な描かれ方をする。利己的な正義の押し付けではあるが、それが主人公達に「では、君らに語るべき正義はあるか」と問うている構造になる。
 
 しかし、どうしても正義、理想は抽象論として退けられる傾向が特に最近では強い。新自由主義が圧倒的勝利をおさめ内面化された時代「世の中を変える」のは学生運動残党の老害か、日常を脅かすテロリスト予備軍、無敵の人の呟き、現実に適応できない人の言い訳のように思えてならない……というアニメ視聴者に寄り添わざるを得ないのも事実である。
 
 リコリコではやや俯瞰して「だから映画は面白いんだろ? 現実は正義の味方だらけだ。いい人が同士が殴り合う。それがこのクソッタレな世界の真実だ」と真島が語る。
 
 しかしながらこうした利己的な正義の激突は、二人の物語の背景に過ぎない。二人が絆を育むための利己的な舞台なのだ。そして父であり師であるミカ同様、利己的な感情で互いのために動き、救う。
 
 千束はたきなのため不殺の誓いを失い、たきなは千束のため人生の目標を失った。かわりに二人が得たのは掛け替えのない相棒であり、唯一無二の友。

 3話の「自分で決めたことでしょ。それが一番大事」「失って得られるものもあるから」が生きる。
 論理より感情と行動。
 赤心、知行合一こそ尊ぶべきとする陽明学の世界。エモいの前に論理や正義は退場させられてしまう。
 利己利己の世界である。

 「みんな、自分が信じるいいことをしてる。それでいいじゃん」千束は利己的な感情や論理がぶつかり合うこの現実を否定せず、ふわっとした言い方で認める。しかし、千束は真島とは相いれなかった。千束は「そんなことは間違っている!」と指摘する正義の少女ではない。
 千束が真島と戦うのはあくまで利己的な理由、利己的に自分を救おうとするたきなのためである。噛み合わないまま戦う。

 では、結局のところぶつかり合わず、自分が信じるいいことをするにはどうするか。それは「嘘」をつくことである。
 ミカがシンジを殺し人工心臓を手に入れたことは千束には伝えない。(人工心臓がシンジの身体にあったか否かはさして重要な問題ではない。同じことであると解釈する)
「君の新たな人生のはじまりは、私の死によって完成する」という呪いのバースデーカードも捨てる。
 
 それに対して千束は「騙されたフリ」をする。父親やたきなが慮ってついた嘘を愛ゆえとして真実ととらえる。そして千束は恐らく抱えているであろう絶望、自分ではない自分になってしまった真実を抱え続ける。南の島に逃亡した理由が「死ぬと思い込んだ」わけがない。

父、仲間、友人、視聴者・・・・・すべてを欺き通す未だかつてみないヒロイン。だがこれで正解だ。懊悩する千束や人工心臓の真実など視聴者が想像すればよい。本編は明るく幕を閉じる。

自分が守り愛したすべてと別れ、誰にも会いたくなく知られたくない。自殺するわけにもいかない、と葛藤したであろう。

 千束の命を中心にリコリコの皆が共犯者になった。お互い本当に大事なことは言わなくてもいい。「戦士はすべてを見せないものだ。愛するものには特にな」ミカが吉松に最後に告げた台詞は新しい千束の信念でもある。松葉杖の嘘がメタファーする。
 「優しい嘘」がすべてを包む。思えばこの物語は誤解と嘘の物語であった。

 だが、その「優しい嘘」は少女を殺す。千束は最期まで誰にもぶちまけずに真実に蝕まれながら耐え、平和な日常のため、犠牲になるリコリスたちがいる。
 千束を巡る欺瞞とこの国の平和を巡る欺瞞がリンクする。千束はDAそのもの、千束の心臓がこのディストピアのすべての中心に位置する。吉松を拒否した千束こそがこの世界、ディストピアとなった。
 彼女はレックスムンディ=このセカイの王である。君と僕との関係が世界の運命に直結する・・・・・・懐かしの「セカイ系」作品でもある。この優れた構造が露わになることが正にリコリス・リコイルだ。
 リコリスのもたらす平和に対する「反動」であり、吉松から千束へのこのディストピア全体の「巻き直し」であり、千束の運命の「蘇生」である。

「この日常にはワケがある」

 ディストピアでも生きるべき今がある、この悪しき平和な世界でも確かな幸せがある。

機動警察パトレイバー2。最終戦後、柘植と南雲の会話。「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか?」「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。 それともあなたにはその人達も幻に見えるの?」偽りの平和を断罪することはある意味、神となるくらい傲慢な行為でもある。しかし、それでも挑み続けていまうのもまた人の業ではないか?

 しかし「優しい嘘」は破綻しないのか。本当に?生き残った真島はまさにそのメタファーだ。DAの平和は続かない、時代は変わる予感を残す。それは正に「革命未だならず」の古典的な空気だ。

「優しい嘘はどこまでもつか」
 
 仮に次回作があるのなら、それがテーマになるかもしれない。

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