見出し画像

君の名は。・・・・・・少年少女の天翔る時遡る新日本神話創成。2016年劇場公開作品  

『よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ』
 
「君の名は「結び」という言葉がキーワードになっており、「組紐」がそれを象徴するイコンとして扱われている。私たちも極めて巧妙に編まれたこの作品世界を解きほぐすのではなく、さらに編み組んでいこう。

美しすぎる都会。これは必要な美化である。都会も破壊されるやもしれない切ない風景だ。

 ベースにある映像と音楽の糸。新宿も糸守町もありふれた風景も光に満ちている。明度や彩度をあげ過ぎたような新海誠作品の風景描写はどうも今まで馴染めなかったが、今回はこの手法がベストだ。
暗い映画館で実に映える作品となっている。恋愛のための雰囲気としての日常風景の優れた描写が勝利の鍵だ。この作品のキャラクタたちは実によく走る。走る。とにかく走る!ウジウジしないで走る。それを疾走感の溢れる音楽が支えている。
 私個人としてはどうも劇中に歌詞のついている曲が流れるのは、いかなる作品でも、どうしても好きではなく、これがメロディだけだったらどんなによいか、と思ったが、RADWIMPSの音楽が本作に多大な貢献していることは間違いない。PV調と言われるが、正にPVのよさを生かして疾走感ある音楽と背景、風景描写を土台にし、観客、特に若者たちを惹きつけている。

左右の対比が上手い入れ替わっている~のシーン。

 キャラクタの糸。身体が入れ替わってしまった瀧と三葉の恋愛が主な糸ではある。だが、二人を取り巻くキャラクタも実に魅力的に造詣され、この二人を支えている。気のよい瀧の友人たち、憧れの奥寺先輩、妹の四葉、三葉を助けるさっちん、テッシー、伝承を伝える祖母の一葉……兄弟姉妹、親、先輩など、周囲の人々がそれこそ網の目のような関係で都会と田舎を結ぶ世界観を織り成している。
 新海誠は「ほしのこえ」などでセカイ系の旗手とされていた。このセカイ系は「君と僕の閉じた関係が世界の運命と直結している」というものでエヴァンゲリオン以降の一部の作品に見られた傾向だが、今回の新海作品は主役カップルを食わずに群像劇となっている。
 
 恋の糸。瀧と三葉の馴れ初めは身体が入れ替わってしまうことからはじまる。巫女の儀式がきっかけともいえるのではないか。龍の冠、そして四葉との二人の舞は割れる彗星を暗示する。二人はスマホで日記をつけて交わすことにより、入れ替わりの辻褄合わせをはかる。知らない男女二人が秘密を共有し共闘するうちに恋心が芽生えるという定番である。
 
 この入れ替わりという発想は古くは「とりかえばや物語」、新しくは「転校生」などでとられてきた。誰より君を知っているが君のことを知らない……スマホでの日記と互いの身体、そして入れ替わることによって互いがどんな人間関係があるかしか知らない。あるべき身体にあるべき心が宿った総体としての「貴方」ないし「貴女」に決して出合えない。 
 男が女のもとに通い、歌を交わし逢瀬を重ねても夜の闇の中で愛する女の顔さえわからない、通ってくる恋しい男の人生もわからぬ、という平安の昔の恋のように。まさに「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」である。
 
 奥寺先輩とのデートを触媒に互いに意識しはじめる。唐突に入れ替わりは起きなくなり、飛騨に旅した瀧にとてつもない障害が立ち塞がる。
 恋愛物語は障害が多いほど燃える。「君の名は。」では、これでもか、というほどてんこ盛りの障害が積み重なっている。東京と糸守町の距離。既に死んだ3年前の三葉と入れ替わっていたという埋めようの無い時間。さらに消失する三葉の記憶という忘却。この障害を乗り越える。それこそ二人で返り討ちにしていく。
 
 311の糸。障害を生んだのは大災厄。一瞬で人々の住む町が壊滅し多くの人命が奪われた。私たちは同じものをみて、経験した。あの311である。あの時、どうすればよかったかなどは、しょせん床屋談義となるかもしれないが、誰にでも訴える。即ち「取り返しのつかないことをとりかえしたい。「あの時、あそこにさえいなければ今も隣で笑っているはずの、大事な人をとりかえしたい」という子供の夢想を「君の名は。」は作品世界内で臆面もなく実現せんとする。真正面から。それは311の災害に遭った、いや、遭わなくともテレビの前であの暴威をみた311を体験した全ての日本人が持った感覚だろう。「もし、あの地震の前の日に戻れたら。警告し避難をさせることに成功していたら!」
 そのためにきた。彼らはきた。妄想の架空の二次元の中ならきっとできる。瀧や三葉たちはそれをやってくれる。幼稚だと笑わば笑え。本当の願いをストレートにやれる作品はすくない。「大事な人をとりもどしたい」という普遍の糸が貫かれる。
 

明らかに異世界のようなシーンなのだが無理なく日本的風景に溶け込んでいる。ファンタジー。

 ファンタジーとSFの糸。この世の外へ。異世界か、時間を巻き戻すか、遥か宇宙へと旅立つより他ない。少し離れて別の糸を手繰り寄せよう。連なる糸を捜そう。或る意味カップル御用達アニメとの扱いを受けてしまいそうな本作だが、実は立派にオタク系の糸を引いている。深夜アニメのような演出のオープニングや、入れ替わっていきなり胸を揉むから開始とか、ハードルの高すぎる口噛み酒とか「これ、一般向けアニメだよね……お客さんドン引きしちゃうんじゃ……」といささか心配になった……またキャラデザインもどちらかといえば、深夜アニメ寄りであろう。内容もまた、学園SFファンタジーの系譜に連なっている。

 例えば大林宜彦監督の「時をかける少女」「転校生」であり、また「涼宮ハルヒの憂鬱」に見られるような時間遡行が仕掛けとなっている。特に私は三年前に電車で会い組紐を渡した、というくだりは、涼宮ハルヒシリーズを思い出す。出会う前に時間遡行でハルヒとキョンが出会い深夜の公園で宇宙人への落書きをし、キョンはハルヒにジョンスミスと名乗る。どなたかがおっしゃっていたが、三葉が髪に組紐をつけた姿はハルヒそっくりだというが確かに。オマージュか、偶然か、どうでもいいことではあるがシンクロを感じる。ジュブナイルの一つの系譜を結びなおしたともいえる。

すべてのはじまりとも言える儀式。

 神話の糸。御神体で魂の半分、口噛み酒を飲み、時を駆けて三葉の身体に入れ替わった瀧。物語は遂にその相貌を見せ、神話の世界へと足を踏み入れる。神話の糸が鮮やかな組みあがりを見せ始める。おそらく、物語の最初から幻惑されていた。決まっていた。
 
 スピンオフ小説や監督本人が明かしたとおり三葉はミヅハメ、宮水神社で祭られているのは機織りの神、シドリノカミ、別名はアメノハヅチノカミ、まつろわぬホシノカガセオ、星の神を討伐するというところからして、一族が彗星襲来に備えていたことがわかる。
 糸で男女が結ばれるのは三輪山の神話。三葉の名はミヅハメからとられているというが三輪山のイメージも入っているのではないか。宮水は言うまでもなく作品全体の水的イメージである。小川から向こうは「かくり世」をわたり、この世のものではない「三葉の半分」である酒を飲み、御神体から時間遡行する瀧は正に黄泉の国に降りるイザナギの神話。三年前、滅びた町。死の世界に降りて入れ替わり戻す。

すれ違い巡り会う二人の物語はなんと普遍的であろうか。

 瀧の身体の三葉と三葉の身体の瀧が夕暮れのクレーターで出会う。ニニギノミコトの天孫降臨のイメージが来る。見えぬ二人が手探りで探す、かたわれ時の再会は一瞬に永遠が宿るという中今の思想そのものが体現されている。入れ替わりを戻す。
 かの御神体は天岩戸をイメージし天岩戸開くの観がある。
 
 糸守町を滅ぼす彗星の名はティアマト彗星であり龍である。天かける竜にとしての彗星。その核が割れる姿は鎌首をもたげたヤマタノオロチであろう。口噛み酒もヤマタノオロチの存在を示唆する、いやうけいの儀式そのものではないか? 
 龍から糸守町を護らんとする二人はクシナダヒメとスサノオ。瀧から組紐を渡された三葉が走る。髪に翳す。なんとその姿は櫛を渡されたスサノオなのである。クライマックスでの男女逆転。いや三葉こそ、武装した女神であるアマテラスオオミカミとさえいえる。
 
 三葉にバトンを渡した瀧はさんずいに龍、瀧はヤマトタケルでもある。討ち取った熊襲建の名を名乗る。三葉を援けて町の人を救うため時を遡る瀧こそ、龍殺しの運命をになう英雄だった。

本編ではないキーヴィジュアル。だが大人になった二人が出会ったとき、少年少女のあの時の思い出せなかった記憶が流れ出す。瑞々しさ、エモーショナルな。それを象徴した素晴らしい一枚画。

 そして時は流れ二人は再会する。出会う場所は東京の四谷須賀神社、須佐之男を祭る神社。「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」神話は成就する。再会こそ必然だ。秒速5センチメートルの別離のリアリズム、近代文学の世界ではなく、呪術的な神話の世界なのだから。
 
 瀧はイザナギでありスサノオでありヤマトタケルであり、三葉はクシナダヒメでありアマテラスである……そう「君の名は。」は実は神話の物語であることが明らかになる。
 特定の神、神話ではなく、様々な日本神話イメージがオーバーラップしえもいわれぬ陶酔感、一体感、浮揚感を見る者に与えるのだ。それは誰しも祖父母の語りや、絵本や漫画日本昔話などで見て断片的に覚えているようなぼんやりとした姿である。
 言ってみれば広大な無意識。神話の力、無意識の世界が「君の名は。」の本質ではないか。
 今、八百万の神々は若い人たちの集合無意識に訴えかけている。現世こそ高天原、古層に秘められた神々の物語、日ノ本こそ神々の結う言の葉幸いの国であると。
 神話の世界から糸を手繰り浮上する、組紐を頼りに戻る。
 
「糸守町の人の夢は 今日この日のためにあったんだ」一族はおそらく何千年も入れ替わりの血筋を保ってきた。入れ替わりにより災害を防止し、最終手段とし時を結びなおす。祈りの力。宮水神社がそうであるように神社が地域社会の要であるならば……対立する中央と地方という図式ではなく、糸守町がこの国の縮小系と考えるならば……

 311のときに流れた噂が二つある。オバマ大統領自ら空母に搭乗し兵士たちを激励しに日本を助けに来る。そしてもう一つは天皇陛下が地震を鎮めるため地下の秘密の神殿で祈り続けているというものだった。また私が聞いた話だが、テレビで国民に語る天皇陛下に若者すべてが立ち上がりお辞儀していた、君が代を歌い始めた……放射能を含む風がジェット気流で人口密集地帯から反らされた時、気象担当者が神風だ、と叫び遥拝をはじめた……こうした噂がうまれること自体、日本はフィジカルには経済力とアメリカの軍事力、しかしてメンタルにおいてはやはり天皇でもっているのであるといえないか。
 みやびの糸が結びなおされる。君とは愛しい貴方であると共に、祈る人であり、大君でもある。
 
 奇跡は伝統と歴史、儀式がシンクロして振動するときに、ヴァイブレーションによっておきる。三葉が四葉や祖母の一葉と共に父を説得して町民を避難させることに成功した。いささか説明不足の感もあるが、父の町長こそ奇跡の真の目撃者ではなかったか。
 全てを上回る禍つ日に、日ノ本の欠けるその日に知ることになるだろう。私たちがなぜ、神代の血統を頂き、この小さな島国で連綿と先祖から受け継ぎ、子孫に受け渡してきたかを。
 歌に秘められた神の力できっと復た日本人は若者たちは未曽有の災難や困難に克つことができる。そんな祈りと願い、予感が秘められている。
 
 ムスビの糸。組紐をイコンとしムスビがキーワードとして何度もできている。ムスビは結いであり、産土神、縁ということであり、タカムスビ、カミムスビという男女神であろう。日本的アミニズムの精神を体現した言葉である。そして紡がれた物語。日本的価値、浪漫主義の糸を鮮やかに織ってみせた。やまとごころ、もののあはれである。
 
 おそらく、「君の名は。」は、普通の意味では、作品としては残らない。たとえばジブリのように何度もテレビで放送される家族で安心して見られる名作として扱われることはないだろう。おそらく、この作品を見た若者たちは詳しい内容も覚えていないかもしれない。でも大好きな彼氏、彼女と一緒に凄く感動した、ということだけをいつまでも覚えていることだろう。

星の降る日。少年少女たちは新たな日本神話の主人公になる。

「あの日、星が降った日。それはまるで」
「まるで、夢の景色のように」
『美しい眺めだった。』 
 
 なんだかわからない美しいものを大事な人とみた。それでいい。
 
 わたしたちは確かに美しいものをみた。天かける神話を。神代の恋の物語を。この日の昇る国で。それで充分はないか。
 
「おほかた人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きっとして、かしこきは、實の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、實の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめ計也」
 
 本居宣長 紫文要領より
 
※今読むと力が入り過ぎていますが、当時の感動をそのままに。鼻血出しました。これで宮崎駿の後釜は決まった!と思いましたね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?