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読書記録:ブライアン・フェイガン『海を渡った人類の遥かな歴史』

海なし県で生まれ育ったからか、私にとって海とは観光地であり、日常からは切り離された存在だ。そのせいだとは思うのだけれど、古代に人類がどのように広がっていったのかと考えを巡らせるときに、海をどのように渡ったのかという重要な事項が思考から抜け落ちてしまいがちである。

知識としても弱いところなので、今回はその視点をじっくり学ぼう。ブライアン・フェイガン『海を渡った人類の遥かな歴史 古代海洋民の航海』(河出文庫)は、人類学者・考古学者である著者の豊富な航海の経験を交えつつ、古代の人々がどのような船を操り、なぜ水平線の彼方へと漕ぎ出していったのかについての解説書だ。

非常にボリューミーで、網羅的に様々な海域について考察されていて読み応えがあった。しかしながら船についての知識が不足しているため、イラストも多少あるとはいえイメージしにくい記述もあり、すべてを消化できたわけではない。

興味深く読んだのは、GPSどころかコンパスさえ無い時代に、海の上で自分の位置をどのように確認して航海していたのかについてだ。南太平洋の人々は星と時間と島の関係をひたすら覚える必要があった。地中海では陸から陸へ、どのようなルートと手順で行くかを覚える。インド洋では季節ごとに変わる風向きに乗れば、ほぼ自動でアフリカと中東を行き来することができるらしい。

歴史に名を残さぬ無数の人々のトライ&エラーを想像するにつけ、海がそれほどまでに魅力的な『冒険すべき』場所だったのだろうと考えたくなるが、著者によれば動機はもっと単純な、『必要に迫られた』ものだったらしい。例えば子孫に相続する土地を求めて。例えば自分たちにとっては無価値なものが価値あるものと交換できるとわかったから。

なるほど確かに、命をかけるに値するほどの実利がなければ海を渡ろうとは思わないだろう。そこに海が広がっているから、水平線の彼方に何があるか確かめにいこうなどという、夢とロマンにあふれた動機が切り開いた航路もあったかもしれないが、その多くは海の藻屑と消えたのだろうし。

読んでいて最もワクワクしたのは、アリューシャン列島についての章(第12章)だ。これまでこの地域について考えたことがなく、私の頭のなかの世界地図において空白地帯であると気付かされた。北極圏にも住める人間の順応性をかんがみれば、ベーリング海の南に位置する島々で暮らす人々がいても不思議ではないだろうに、これまで全く気にも止めなかった。

海獣が食料になり、衣服になり、舟の素材になる暮らし。鮭が遡上する川のほとりに村を作って、海獣を捕まえに海へ繰り出す。氷河期の終わりとともに隔絶された島々で長く営まれていた生活についての資料はほとんどなく、そのノウハウは失われてしまったという。

日本列島から北の地域についてあまり知識が無いのは、政治的な意味合いもあるかもしれない。アラスカのほうが星野道夫氏の本などで知っていて、心の距離は近く感じる。しかしながら自国の『近隣』ではあるのだし、もっと関心を寄せるべきであるように思う。今後の読書の課題のひとつとしたい。

思い返してみると、池のボートすら漕いだことがない私は、海の過酷さのようなものにひたすら疎い。沖縄でグラスボートに乗ったときに、こんなにも波で揺れるのかと驚いたのだけれども、それより何倍も簡素な、木をくり抜いただけの古代の舟はどのようにバランスをとっていたのだろうと思う。

今度沖縄に行くことがあったらカヤックに挑戦してみよう。テレビで見たスケルトンのカヤックを漕いでみたい。そういう実体験が想像力を働かせることもあるだろう。

自分の苦手分野を認識し、足りない知識を知ることのできる有意義な読書となった。古人類学はやっぱり面白い。




以下、雑記
***

それは突然やってきました。
カメムシたち。

玄関の外壁周辺に2週間前くらいから2、3匹は常にいたのですが、先週の水曜日の朝、家を出るときに10匹以上に増えていて、ギャーギャー言いながらとりあえず出勤し、1日中、どうやって倒すかを脳内シュミレーション。仕事は手につかず。

帰りにドラッグストアで凍結させるスプレーを購入し、それを右手に構え、左手には団扇を盾として構える勇者スタイルで帰宅したのですが、どうしたことか1匹も居なくなっていたのです。

東の空を仰ぎ見れば真ん丸のお月様。カメムシたちは月へ旅立ったのだろうかとぼんやり。

しかし次の日からはまた2、3匹が常駐しています。不気味。全国的に増えているらしいですが、この戦いはいつまで続くのでしょうね。早く冬が来てほしいです。

今回も読んでいただきありがとうございました!

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