見出し画像

ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day6]

■9月22日(火)

 修業6日目。いつものように朝4時に起きて、4時半から瞑想に入る。頭のてっぺんから足のつま先まで意識を巡らせ、順番に感覚を観察しなければいけないのだが、頭と胴体はあいかわらず何も感じない。頭全体、顔全体、胸全体と、少し大きいブロックを意識してみるが、やはり同じだ。おでこに集中すると、おでこのイメージが前方に現れてしまい、最初の数日でやった鼻の下と同じことになってしまう。

 朝食後、散歩しながらこれまでを振り返り、8時からのグループ瞑想に入る。時計を見なくなり、1時間座っていることが苦痛でなくなったこともあって、時間が気にならなくなってきた。時計を見てしまうと、もう15分も過ぎたとか、まだ5分しか経ってないとか、あと30分も残っているとか、ついつい時間にとらわれてしまっていたことに気づく。時計を見ないことで、時間の概念から解放されて瞑想に集中できるようになった。もちろん、ヴィパッサナーで感覚を観察していることもあるが、ときどき妄想しているときがあっても、時間にとらわれなくなっている。
 そのあとの瞑想は1時間くらいホールにいて、それからテントに戻って休む。昼食後に少し昼寝。ヴィパッサナーの指導が始まったあと、毎日少しずつ複雑になっていくが、ここでは具体的な指導内容には触れないようにする。それは、この文章を読んで実践する人がいると困るからである。それはたんにケチッて教えないわけではなく、指導者がいないところでヴィパッサナーを行なうと、何かあったときに対応できないという配慮からである。ヴィパッサナーは心の奥まで入り込む瞑想法なので、注意しないと精神状態がおかしくなってしまうこともあるらしい。

 午後の瞑想は頭と胴体を中心に観察してみるが、やはり集中すればするほどイメージが外側に飛び出てしまい、皮膚感覚に入り込めない。鼻の下の感覚を感じられなかったときのように、感覚を感じられないことに対してあせりを感じてくる。どうしたら、手足と同じような感覚が頭や胴体に現れるのだろうか。
 14時半からのグループ瞑想が終わり、そのあとの瞑想時間に入るときに、ゴエンカ氏の言葉が耳に残った。

 もう一度、始めなさい。
 落ち着いた、注意深い、平静な心で、
 もう一度、始めなさい。

 これまでは、感覚がない部分に集中しすぎていたのかもしれない。そう思って、「落ち着いて、注意深く、平静な心で、おでこを観察する」と思いながらおでこに意識を置いていると、3回くらい言葉を繰り返したところで、おでこにピリピリした感覚が現れたのだ。驚いた僕は、これまで感覚を感じなかった首や胸など、同じようにこの言葉を意識しながら観察してみた。するとどうだろう。おでこと同じように、感覚がわかるようになったのだ。
 17時のティータイムを挟み、18時からグループ瞑想が始まった。

 よし、この方法で頭のてっぺんから足のつま先まで観察してみよう。
 落ち着いて、注意深く、平静な心で、
 落ち着いて、注意深く、平静な心で……。

 何度か繰り返しているうちに、頭のてっぺんがざわざわした感じになってきた。その感覚を保ちながら、ゆっくり下に意識を移動していくと、スキャナのセンサーのような直線がゆっくりゆっくり下がっていく。まるでCTスキャンに入っているような感じである。
 途中で引っ掛かって止まりそうになると、また「落ち着いて、注意深く、平静な心で」と自分自身を励ましてみる。するとまたスキャナのセンサーは動き始める。これは、このまま感覚を感じられるかもしれない。最初のヴィパッサナー指導のときも、ゴエンカ氏のリードが有効だったと思った僕は、自分の横にインストラクターに立ってもらい、励まされるようにしながら、スキャンを続けていた。

 落ち着いて、あせらないで。
 感覚に集中して、しっかり感じて。
 平静な心を保ち続けて。

 インストラクターのおかげで、頭のてっぺんから足のつま先まで、きれいに感覚を感じることができた。これまでの手足の感覚とはまた違い、体全体をきれいに観察できたことが心地よかった。
 昨夜からの課題を考えながら感覚を観察しているうちに、手足全体の感覚が同時に共鳴するようになり、体全体が細かい振動に包まれたような状態になった。

 なんだこれ!
 すごく気持ちいい〜。

 感覚に執着してはいけないと言われているので、気持ちいいと思ってはいけないんだと我に返り、また頭のてっぺんからの観察に戻る。それにしても、あの状態はいったい何だったのだろうか?
 19時になり、今日の講話が始まった。ブッダは「人生は苦しみの連続である」と説いたが、それを聞くと悲観的になってしまう人がいる。でも、実はそうではないのだ。

 この道は悲観主義の道ではありません。
 ダンマ(法)は、
 苦悩という苦い真実を受け入れることを
 私たちに教えますが、
 そこから抜け出る方法も教えます。
 この道は現実主義の道、
 楽観主義の道なのです。
 働くのはみなさん方、一人ひとり。
 自分自身の解決のためには、
 自分自身で働くしかないのです。

 ブッダはすべてのサンカーラ(反応)は無常であると説いている。すべての反応を智慧をもって観察するとき、人は苦悩から離れるのだ。すべてのものは生まれ消えていく。この真実を信仰心から、あるいは頭の中だけで受け入れたとしても、それだけでは、心を浄化することはできない。心を浄化するためには、自分自身の体の感覚から理解しなければいけない。気持ちいい感覚、痛くて不快な感覚、何も感じない感覚など、さまざまな感覚が現れては消えていくことを肌で感じ、どんな感覚であってもそれを区別せず、平静な心で観察していると、やがてそれは消えていく。
 反応しないことといっても、それは盲目的に植物のように無感情になることではない。盲目的に反応・反発していた心のクセを取り除き、正しい行動を起こせるようにする訓練なのだ。バランスのとれた心から生まれるものは、自分にとっても、またほかの人にとってもいい行動になるだろう。

 シーラ(道徳律)、サマーデイ(集中力、心のコントロール)、パンニャー(智慧、心を浄化する洞察力)という教えは、ブッダ独自のものではなく、以前からインドにはあったという。ところがブッダは、身体の感覚こそが渇望と嫌悪のはじまるところであり、その時点でそれを消滅させなければならないということを、身をもって感じたのだ。これは信仰心によって受け入れるものでもなく、頭で理解する哲学でもない。自分自身の体験によって受け入れることが大事なのだ。
 修業を続けるときに5人の敵が現れる。感覚に対する「渇望」と「嫌悪」の反応。心の奥底から反発する「睡魔」の誘惑。瞑想以外のことをしたくなる「動揺」。修業に対する「疑惑」。
 この瞑想方法は自然の摂理に沿ったもので、魔術や奇跡によって行なわれるものではない。執着することなく、盲目的になることなく、正しい理解をもって修業を続けることで、苦しみから自由になり、真の安らぎを得ることができる。

 講話が終わってから、先生に質問する。「落ち着いて、注意深く、平静な心で」という言葉でリードしたら、うまく全身の感覚を感じられるようになったが、最初の説明でお経を唱えたり、特定の言葉を使わないということを注意されていたので、それが気になったのだった。先生によると、言葉が思い浮かんでしまうのはしかたないが、意識的に言葉を使うのは避けるようにとのことだった。感覚のスキャンに入るきっかけとしてはいいかもしれないが、言葉に頼ってしまうと本質から離れてしまうようだ。今はしかたないが、そのうち言葉を意識しなくても感覚に入れるようになるだろう。徐々に言葉を減らしていくことにしよう。

イラスト|マシマタケシ

基本的に、noteでいただいたサポートは、ほかの方の記事のサポートに使わせていただいてます。