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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day4]

■9月20日(日)

 修業が4日目に入り、今日の午後はいよいよヴィパッサナーの修業が始まる。朝の瞑想時間に30秒ほど呼吸を止めてみることを繰り返してみたが、昨夜のような感覚はなくなってしまった。体が驚くのをやめてしまったのだろうか。隣にいる新しい生徒(僕とこの二人だけになった)も同じように感じないらしく、呼吸を止めている様子がよくわかる。
 朝食後、敷地の端のほうの林に近いところをぐるぐる歩きながら、頭を整理しておく。修業中はメモをとることができないので、すべて記憶に頼るしかない。

 以前読んだ『もの忘れを防ぐ 記憶力を伸ばす』(夏谷隆治著、池谷裕二監修/三修社)には、人間の脳は忘れるようにできていて、覚えようという意識がなければ覚えられないと書いてあった。
 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体に触れるもの、それらをすべて記憶していたら、たちまち脳はパンクしてしまう。だから、必要なもの意外は忘れる(覚えない)ようになっているのである。「記憶」と「感情」は深い関係があり、何かに感動した経験はなかなか忘れないし、おいしいものを食べればその店を人に勧めたくなる。
 同書でいちばん印象的だったのは、記憶の鍵は脳の神経回路(シナプス)がポイントという話だった。シナプスは簡単に言えば検索エンジンである。頭のどこかに記憶したものでも、それを常に出したりしまったりしないと、検索エンジンからもれてしまい、「あれなんだっけ」と思い出せずに悔しい気分になる。今回の瞑想のように強烈は体験は覚えやすいが、夜の講話は特に難しい。
 草原をぐるぐると散歩しながら、1日目はどういう指導があって、何を考え、何を試し、夜の話で何が印象的だったかを、キーワードだけでもいいから覚えておく。そして3日目が終わったら、1日目から3日目までを順に思い出すようにしてみた。

 グループ瞑想のあとは、集中できないときはぼうっとしていたり、いろいろなことを考えながら、ほかの生徒の様子などをちらちら眺めていた。あいかわらず、みんなじっと座っているので、それを見てまた自分のふがいなさを恥じる。そんなときはここにいてもだめだと思い、テントに戻って体と心を休めることにした。
 昼食後、同じように瞑想時間をさぼりつつ、グループ瞑想の時間をやり過ごす。そして15時から、念願のヴィパッサナーの指導が始まる。これから2時間、トイレに行くことができないというので、各自すませてからホールに戻ってくる。
 ゴエンカ氏の声が流れるやいなや、「これからは体を動かしてはいけません」と注意が出される。内心で「そんなことできないよ〜」と泣きながらも、ヴィパッサナーの指導が始まった。まず意識を頭のてっぺんに置くように言われるが、鼻の下もわからないのに、そんなものは無理である。
 そう思っていても、ゆっくりと意識を下におろし、頭全体、顔全体を観察しなさいという。感覚は感じないが、しかたなくついていくしかない。首から肩に降りて、上腕部に入ったときに、ビリビリしたような感覚が現れた。するとどうだろう。細かい泡がシュワシュワッと沸いてくる感覚や、チクッとした傷みや、まっくろくろすけが走り回っているような感覚が出てきたのだ。

 鼻の下の感覚がわからなくても、感覚を感じることができた!
 これが、昨夜聞いた素粒子のさざ波なのだろうか!

 感覚たちが楽しそうに勝手に腕を走り回り、それを僕は客観的に感じながらも、ブッダが発見した素粒子のさざ波はもしかしたらこれだったのかと、感動していた。手が終わったあとは足に進んだが、頭と胴体はほとんど感覚がない。それでも自分の肉体から素粒子のさざ波が生まれては消えていくことを、なんとなく実感できた瞬間だった。
 動かないようにと言われて途中で足が痛くなったり、感覚を追うゴエンカ氏の指導スピードについていけなくなりそうだったが、自分で自分を励ましながら、なんとか感覚を追うことができた。気がつくと2時間の指導時間が終わっていた。瞑想が終わって感動にうち震えながら周囲を見ると、同じように感動しているのか、2時間動けなくて疲れたのか、みんな微動だにしない。
 ところで、手足だけ感覚を感じられたのはなぜだろう? もしかしたら、腕や足は常に動かしているので、感覚を感じやすいのかもしれない。頭や胴体は筋肉を使うことも少ないし、「ぬもーっとしている」とよく言われるくらい無表情なので、顔の筋肉もほとんど動かしていない。なんだ、鼻の下はたんに鈍感だっただけで、手なら感覚を感じられたのではないか。

 17時のティータイムを挟んで、18時からグループ瞑想が始まる。このグループ瞑想から「決意の時間(アディッターナ)」と呼ばれ、1時間体を動かさずに、目を開けずに、姿勢をよくすることが求められる。足の痛みがあったら、その傷みがどう変化していくのか観察しなさいという。物事のすべてが現れ消えていくのだから、傷みもいずれ消滅するというのだ。
 頭のてっぺんから観察を始めて、右手、左手、胴体、右足、左足と意識をめぐらせていく。ワンサンクルでどのくらいの時間がかかるかチェックすると、約15分だった。つまり、頭のてっぺんからつま先までの観察を4回やれば、1時間の目安になる。意識をめぐらすことに集中していると、足の痛みを忘れてしまう。少しもぞもぞすることもあるが、組み替えないで座っていられるようになった。傷みを観察したり、ほかのことに気を紛らわせれば続けられるというのも、新たな発見だった。
 19時から講話が始まる。

 四日目が終わりました。 四日目はとても大切な日です。
 みなさんは、身体の感覚を使って、
 自身の内の真実を探究しはじめました。
 ダンマの大河に浸りはじめたのです。
 以前は、無知のせいで、感覚は苦しみのもとになっていました。
 これからは、その感覚が、
 苦しみを解消する道具にもなるということを学ぶのです。
 身体の感覚を平静に観察し、
 感覚を客観的に感じとることを学びなさい。
 それこそが、苦しみを解消し、真の解放へと導きます。

 質問したいことがいくつかあったのだが、この講話で先に答えが用意されていた。まず順番のこと。指導の順番にしなくてもいいが、いつも同じ順番で観察することが大事だという。また、例えば肩を観察しているときに足のほうがしびれてきても、それは置いておいて肩に集中し、足の順番になったらしびれをしっかり観察すること。

空を流れる雲のように、さまざまなものが現れ消えてゆく。同じように、人間の肉体にも、心地よい感覚、心地悪い感覚、そのどちらでもない感覚が生まれては消えている。それがどんな感覚であろうとも、心を平静に、客観的に観察すること。

 頭のてっぺんからつま先までどのくらいの時間をかければいいかという疑問は、心が鋭い状態だと10分程度だが、心が鈍かったり感覚を感じない部分があると30分から1時間かかる場合もあるらしい。僕は15分だったから、だいたい普通のスピードなのだろう。
 すべてのものが現れ消えていく無常のなかで、原因と結果の法則が働いている。原因があって結果があり、その結果が原因となり、新たな結果を生む。その流れは果てしない。同じ土に二つの種をまいたとする。ひとつはサトウキビ、もうひとつはニーム。サトウキビの種からは繊維まで甘い木が育ち、ニームの種からは繊維まで苦い木が育つ。それは自然が差別しているわけでもない。種の違いによって、現れる性質は決まっているのだ。
 ところが人間は、苦い性質の種をまいておきながら、収穫するときには甘い実を欲しがる。自分の行為に注意深くありなさい。行為が種です。甘い実を受けとることになるか、 苦い実を受けとることになるかは、それによって決まるのだから。行為には、身体による行為、言葉による行為、心による行為の三つの種類がある。言葉の行為も身体の行為も、心の行為の投影にすぎない。だから、心によい種をまきなさい。
 心は、意識、認識、感覚、反応という四つの部分からなっている。感覚器官が何かに接触したときに意識され、そのあとで認識され、どう感じるか判断し、実際に行動に移す。例えば「バカ」とののしられたときに、「バ」と「カ」という音の響きでしかないものが、それはバカにされていると認識し、嫌な言葉に感じ、反論する。逆に気持ちいいことであっても、同じような順番で心は反応している。

 この一瞬の「すき」「きらい」という反応が、
 大きな渇望、大きな嫌悪へとふくらんでゆきます。
 心に縛りを結びはじめます。
 実を結ぶ種、結果をもたらす行為、それがサンカーラ(反応)です。
 心の反応・反発する部分なのです。
 人は、一瞬一瞬、この種をまきつづけています。
 「すき」「きらい」と反応・反発しつづけています。
 渇望し、嫌悪しつづけています。そして、苦しみます。

 ヴィパッサナー瞑想を修業すると、心の意識層と無意識層との間の壁が壊れて、心がどんな反応をしているのか観察することができるようになる。表面意識では何も感じていなくても、体の感覚器官が接触することで、必ず心は反応しているというのだ。
 ブッダはこう言っている。ある反応は水面に描いた線のようなもので、描いたとたんに消えてしまう。ある反応は砂浜に描いた線のようなもので、朝に描いても夕方には潮や風で消されてしまう。ある反応はノミとカナヅチで岩に刻み込んだ線のようなもので、やがて岩が浸食されれば消えてしまう。しかし岩に刻まれた線が消えるまで長い年月がかかってしまう。

 すべては過ぎ去ってゆく、変化するものだということを理解し、どんな感覚に直面してもほほえむことができるようになれば、心の反応のさざ波はすぐに消えるだろう。心の反応に執着して岩に刻んでしまうと、その傷はなかなか癒えることがない。
 僕は初めてのヴィパッサナー体験に感動しながらテントに戻り、初めて味わったさまざまな感覚をかみしめていた。細かい泡のような気持ちいい感覚は、新陳代謝が行なわれて細胞が誕生しているのだろうか? チクッとした傷みは、細胞が役目を終えたサインなのだろうか? この夜は、興奮したまますぐに寝つけなかった。

イラスト|マシマタケシ


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