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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day10]

■9月26日(土)

 朝4時の鐘の音で目が覚める。とうとう修業10日目を迎えることになった。4時半から6時半まではいつもの瞑想と詠唱があり、途中で外に出て散歩していると、小さなアマガエルがいたので、ちょっと捕まえてみた。僕の好きなシュレーゲルアオガエルの子どもだった。金色のまぶたがかわいくて、しばらくコミュニケーションを楽しむ。
 朝食をすませて休憩。今日のスケジュールを確認すると「メッターの日」と書いてあった。メッターというのが、日常に生かす特別な瞑想方法のようだ。

 8時からグループ瞑想に入る。昨日の朝の段階で気持ちに区切りがついたので、気負いのない状態で瞑想に集中できた。すると終了の少し前くらいから、胴体がぐるぐる回るような感覚になった。いや、感覚というよりは体を揺さぶられている感じである。講話の中で、足を組んだ状態で跳ねたり、逆立ちして足をぶらぶらしている人の例があり、体が反応しているのだからそのまま観察しなさいとあったので、どんな状態になるのか、しばらく観察することにした。洗濯機の中に放り込まれたように、右回りにぐるんぐるんと動いている。少し目を開けて体を確認してみると、イメージしていたほど大きな動きではないが、たしかに体が動いていた。

 グループ瞑想が終わり、9時からメッター・バーバナーという新しい瞑想の指導が始まった。いよいよ、これまでの修業を日常の中で生かす方法を習うことができる。ここに来る前に読んだ「歩く瞑想」などがあるのだろうか? これまでと同じように座って瞑想を始め、ゴエンカ氏の話に耳を傾ける。
 アーナーパーナー瞑想で集中力を身につけ、ヴィパッサナー瞑想でありのままの状態を観察し、すべての苦しみから逃れ、自分を解放して幸福を得る修業をしてきた。これから日常に戻り、修業を生かすために、自分が手に入れた自由と幸福が、世界中の他者へもたらされるよう、愛と慈悲を持って祈り瞑想する。それがメッター・バーバナー(愛と慈しみの瞑想)である。

 人の心は、いいことは自分の内側に溜めようとして、嫌なことはすぐ外に出そうとする性質を持っている。外に出された心の濁りは、ほかの人が持っている嫌悪の感情と反応し、その結果、他人を巻き込むことになる。心を浄化していくと、その無知による反応が消え、心の奥から愛と慈しみの感情が湧き出てくる。メッター・バーバナーは、この愛と慈しみの感情を外へ出す瞑想方法。ヴィパッサナーが自分の内側に向かう瞑想だとすると、メッター・バーバナーは自分の外側に向かう瞑想なのだ。

 私は、知ってか知らずか
 意識してか意識しないでか
 その思いや言葉
 あるいは行動で
 私を傷つけた人々を許します。

 私は、知ってか知らずか
 意識してか意識しないでか
 私の思いや言葉
 あるいは行動で
 私が傷つけた人々に許しを請います。

 すべての生きとし生けるものが
 苦悩から解放され
 自由になれますように。
 真の平安、真の調和、
 真の幸福を享受できますように。

 生きとし生けるものと
 私の得た恩恵を分かち合えますように。
 私の安らぎを、私の調和を、
 分かち合えますように。
 私のダンマを、
 分かち合えますように。

 生きとし生けるものが、
 幸せでありますように。
 安らかでありますように。
 真の自由を得られますように。
 幸せであれ、幸せであれ、幸せであれ。

 約1時間半、ゴエンカ氏の言葉を聞きながら、ただじっと座って瞑想を続けていた。いったいこれは、どういう瞑想方法なのだろうか? 僕はてっきり、日常生活の動きの中で行なう瞑想方法を習えると思っていたが、けっきょく最後までじっと座っているだけだった。メッター・バーバナーの意義がわからず、自分の中にがっかり感だけが残ってしまった。

 11時から「聖なる沈黙」がとかれる。食堂にはダーナ(寄付)のテーブルが用意され、ヴィパッサナー協会の資料などが掲示されている。「お疲れさまです」と声を掛け合い、ようやく相手の顔をはっきり見ることができた。
 携帯電話を除く貴重品が返却され、筆記具を手にする。だれかと話してしまうとこれまでの記憶がすぐに消えてしまいそうだったので、A4の裏紙5枚に10日分のマス目を作り、指導内容、感想、試したこと、講話、質問の各項目に分けて、次々にマス目を埋めていく。幸い、夜の講話を要約した冊子があったので、それを参考にしながら記憶をたどっていく。

 昼食のあと、先生に質問する。けっきょく、メッター・バーバナーという瞑想方法が言葉を唱えるものなのか、よくわからなかった。先生によると、言葉を心の中で唱えてもいいし、唱えなくてもそういう気持ちを持つだけでもいいという。体に起こる細かくて気持ちいい感覚を保ちながら、愛と慈しみの心でその感覚、バイブレーションを外側に放出するようなイメージらしい。
 修業を終えて帰ったあと、朝と夕方に1時間ずつヴィパッサナー瞑想を行ない、最後に数分間、メッター・バーバナーを行なうこと。同じ部屋の同じ場所でメッター・バーバナーを繰り返しているうちに、部屋全体にいい気が満たされ、そこに入ってきた人が心地よく感じるという。
 それでも、これをどうやって日常に生かせばいいのか、まだ自分の中で整理ができなかった。最後まで、自分が習いたかった瞑想はこれではないという思いが残る。

 休憩のあとに、グループ瞑想の時間になった。今日は3回のグループ瞑想があるほか、自由時間となっている。瞑想時間の終わりごろになって、体が右回りに動き始めた。今度は胴体だけでなく、頭の動き加わって、腕の感覚もいっしょに回転しているようだった。
 ヴィパッサナー瞑想が終わり、午前中に習ったメッター・バーバナーの瞑想に入る。すると、今度は洗濯機の回転が左回りになったが、ほどなくして瞑想時間は終了。
 その後も記憶メモの書き出しをせっせと続ける。周囲は楽しそうに会話が弾んでいるが、とにかくこの体験を伝える役目があると言い聞かせて、マス目を埋めることに集中する。

 18時からのグループ瞑想が始まった。しばらくすると、また洗濯機に放り込まれたように、体がぐるぐると回転を始めた。両手を離していたはずなのに、指を組んでいる感覚になる。少しずつ上下に動かしてみると、やはり指は組んでいないことがわかるが、感覚がつながって段差になっているのがわかった。
 体がぐるぐる回るのをしばらく観察していたら、手のひらでぐるんぐるんとしっかりなぞるような感覚が3周くらいあった。はっきりした感覚でおもしろいと思っていたら、その感覚をきっかけに体の回転がぴたりと止まってしまった。ああ、終わってしまったと思っていたら、次に右の背中が筋肉痛のように痛くなってきた。集中していたので筋肉痛になったのかと思ったが、しだいに痛みが強くなってくる。もしかしたら、過去のサンカーラが浮かび上がっているのだろうか? そう思うと、凝固して鋭い不快な感覚というのに当てはまる。

 ところが、グループ瞑想の終わりを告げるゴエンカ氏の言葉が流れてしまった。このまま途中でやめた場合、次に同じ感覚が出てくるのかわからない。明日の朝の瞑想時間はあるようだが、この機会を逃したらこの感覚を観察することはできそうもない。休憩時間に人が出入りしたり、次の講話が始まって気が散るかもしれないが、このまま瞑想を続けてみよう。
 そうして背中の痛みを観察していたら、右の脇腹と腰のほうにその痛みが分離するではないか。そして分離した部分から、ゲートが開いたように楕円形の塊のようなしこりが現れた。そのしこりと痛みはしだいに広がり、心臓の動悸も早くなってくる。
 これまでも、右脇腹の奥のほうがチクッとすることがあったが、その痛みなのかもしれない。3つに分かれた感覚は、脇腹のほうはしだいに弱くなり、次に腰の痛みも消えていった。しこりのような部分が最後までチクチクしたが、少しずつ範囲が小さくなり、最後はチリチリと弱くなっていって、ほとんどの感覚は消えたようだ。

 目を開けて時計を見ると、講話が始まって30分くらい過ぎたころだったから、1時間半の瞑想をしていたことになる。背中の痛みが過去のサンカーラだとしても、それがどんな記憶と結びついているのかはわからなかった。それでも、自分の中にあった心のしこりが消えたことは間違いなさそうだった。それがどの感情なのは、いずれわかるだろう。
 感覚の観察をしながら、講話の内容も耳に入っていた。今夜はこれまでの復習のような内容で、瞑想方法の再確認が続いていた。

 ヴィパッサナーの修業を行なうとき、五つの戒律を守ることから始まる。日常生活ではそれを守ることは難しいが、10日間コースに参加することで強制的にその戒律を守らされることになる。
 シーラ(道徳律)の土台がしっかりしていると、サマーデイ(集中力、心のコントロール)を育むことができる。サマーデイが強くなるとパンニャー(智慧、心を浄化する洞察力)を得ることができる。パンニャーを得ると、心の奥深くを探る浄化の過程が始まるのだ。
 もし、言葉を唱えながら呼吸を観察していたら、もっと早く集中できていたかもしれない。けれども言葉にはある種のヴァイブレーションがあるので、繰り返すことによって言葉のヴァイブレーションに包まれてくる。心の表面にはやすらぎを感じるかもしれないが、心の奥深くには汚れがとどまったままなのだ。だから、自分についての現実を探り、心を清らかにすることが目的であるならば、言葉を使うことはやめなければいけない。

 一瞬一瞬、身体中に、感覚が現れては消え去っていく。心の奥深い部分、潜在意識は、それを感じとっている。感覚が現れては消え去っている、この無常性を理解しないならば、心は感覚に翻弄されて、渇望や嫌悪を生み続けるだろう。この習性を正すには、心の表面だけではなく、心の奥深い部分(感覚が生まれ、それに対する反応が起こる部分)にまで手を入れなければならない。
 これはブッダが発見したことであったが、その前の時代から、解脱に至るには渇望、嫌悪、無知をほろぼさなければならないと気づいていた指導者はたくさんいた。けれども、ブッダ以前の賢者たちは、渇望や嫌悪は、感覚器官の対象になる外側に原因があると考えていた。ブッダは外側に原因はなく、自分の内側にある心の反応が原因であることを突き止めたのである。

 過去のサンカーラが現れる前の段階では、全身がバイブレーションに包まれた状態にならなければいけない。これをバンガ(融解)というらしい。そう言われてみると、手足だけで感覚を感じていたときには凝固して鋭い不快な感覚は得られなかったが、頭と胴体が渦巻きのように動き始めたあと、背中の痛みが現れて消えていった。
 感覚と記憶が結びついて現れることもあれば、感覚だけが現れて消えていくこともあるという。ふと、一昨日の夜に感じた虫の感覚を思い出した。あの感覚を言葉にするなら、虫かどうか確認したくてむずむずした感じで、もどかしさだった。それはつまり、一昨日の朝から夕方まで、新しい瞑想方法に期待してはがっかりしていた自分の気持ちにそっくりではないか。まさに、むずむずしたもどかしさだった。その日に感じたことだったので、ものすごくリアルな感覚となって現れたのかもしれない。

 原理がどうなっているのかわからないが、自分の体の奥深くに蓄積された何かが消え、自分の執着心がリアルな感覚となって現れた。それはまさに、不思議な体験だった。そのことに気づいてから、歩く瞑想ができなかったこだわりは、どこかに消えてしまった。それもやはり、自分を苦しめていた執着心だったのだ。最後の最後に、過去のサンカーラが浄化していくことを体験できた。やはり、このことを多くの人に伝えていきたい。

 講話が終わったあと、食堂で22時まで話してもいいと言われたので、マス目を埋める作業を続ける。ようやく一段落してきたので、ほかの参加者とも言葉を交わすことができた。何度も参加している人に聞くと、僕が段階的に体験してきたこともすぐ理解してくれた。充実した気分で、テントに戻る。

イラスト|マシマタケシ

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