私が、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に沈黙する理由
わが敬愛する文章家である鈴木さんが、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に参加し、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の中間報告に関する詳細な分析や、実際に鑑賞して感じたこと、この「分断をどう乗り越えるか」の希望を綴ったnoteを書いていた。すごい力作なので、賛成派も反対派もぜひ一度読んでほしい。
私は、「表現の表現展・その後」についてツイッターやnoteなどの媒体で書くことを控えている。それは、何も考えていない、とかこの話題を追っていない、というわけではない。むしろ、あいちトリエンナーレに関する情報に対して世間一般に比較しても熱心に追っていたし、考えていたほうだと思う。
しかし、調べれば調べるほど、ネットでの論争を追えば追うほど、何が問題なのかわからなくなり、語るべき言葉がミキサーで粉砕されるかのような混乱を覚える。だけども、この際なので頭に渦巻いている何かを言葉にしたためておく努力をしてみたい。
まず、言い訳になるが、私はあいちトリエンナーレに足を運ぶことはなかった。重度のめんどくさがりというのもあるし、交通費をねん出するのも難しく、病気のある妻を置いて名古屋まで行くのが不安だ、というのもあった。したがって、ここの作品をどうのこうの、というのは語れない。あくまでも、あいちトリエンナーレを取り巻く「分断」の、「右」側にいる私から見た風景を述べたい。
私は、天皇陛下に対する敬意は強いほうだし、従軍慰安婦については史実的にあった悲劇ではあるが我が痛みとして受け入れられるほど特別なものではなく、「歴史的によくあること」という「評価」をしている。韓国に対する好感度は元から低いけど、レーダー照射問題以降はむしろマイナスだ。それにフェミニズムに対するどうしようもない嫌悪をたっぷり持っているし、安倍政権に対しては微妙ながらも支持するかといわれば支持する、という立場だ。つまりは、典型的なネトウヨ、というものだ。だから、「表現の不自由展」のことを初めて知った時、まず私が感じたのは「不快感」であった。「日本を貶めている」という反発だ。
だけども、障害者の福祉というある種の「リベラル」的なことを盛んに話してるなかでの自問自答を通して、「ネトウヨ的な自分」というのは「素朴な感情」からやってくる、まさに「情」としての私の部分だ、ということは「発見」したし、社会を進歩させるのはこれと反対のものだと感じている。だから、この不快感もまた私の「感情」のレベルのものであって、表に出すことをためらうたぐいのものだと思った。
この展示に対して問題視すべきことは中間報告書のとおり「キュレーション」の問題で、作品そのものが不敬であるとか、日本を貶めているとか、他人に不快感を与える、というのは「感想」以上のものではないのだろう、と考えている。
私は「芸術」の定義を語れるほど何かの知識も持ってない。すくなくとも、ギリシャの時代から続いているであろう議論の文脈は全く知らない。あえていえば「人が作りだした人の心を揺さぶるモノ」が芸術といえるのではないか、という大変純朴なものだ。
そして、その「揺さぶる」という方向性が必ずしも「正しいもの」である必要もないし「社会的に受け入れられないものだから公費を使うな」とも思わない。何が正しいかどうかは、理性以前の「感情」というコントロールできない領域で行われて、そこから抜け出せないことが多いからだ。「素人」の意見で「公費を使うかどうか」を判断することは闘鶏のようなもので人間として行うべきことではない。だから、「表現の不自由展」やそれに類する展覧会は一切委縮すべきでもない。(それは「保守的」なものや「軍事的なもの」でも堂々とやればいい、ということでもある。「感情的な嫌なもの/好きなもの」から抜け出したところで考えればよい。)
しかし、この「不快感」の大きさはいかんともしがたいし、以前から津田大介の言動に違和感を抱いる。要は「津田大介がなんとなく気に入らないし展示物は見ていないけど何となく不快である」という大変くだらない理由で「表現の自由」という日本国憲法第21条で定められたものを理性的に考えられない、という混乱に陥っているのだ。だから、私は「表現の不自由展」について「沈黙」する。
そして、この「沈黙」は今の日本において「分断」を進める危険な行為であるだろう。しかし、「沈黙」を積極的に破って、何かしらの反発を受けるのもまた怖いのだ。要は、私は立ち位置を明らかにすることが、自分自身にすらできない弱い人間だ、ということだ。
この「弱さ」を超えるために必要なのは、「経験」と「確かな知」であるのだろう。だけど、この二つを得るのは、あまたの「経験」が散らばり、「答え」が拡散する情報化社会の中で、何をどう身につければいいのか、という問いの壁の前で立ち尽くしてしまう。
ただ、私は「書く」ことが好きだ。だから、書くことで自分の立ち位置を証明するしかない。弱いし、結論を出すことをできない人間ではあるのだけども、書き続けることで何か発見することも、あるだろう。
願わくば、その発見が、少しでも社会の分断を癒すものとなるように。
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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。