「本を書く苦しみ」と「それでも震えながらPCに向かう自信と狂気」のお話

ここ最近、毎日追い込まれている気がする。というか、実際に追い込まれているんだけど、それをなんとか見ないようにしているだけだ。思えば逃げてばかりの人生でした。生まれてきてごめんなさい。

しかし、「逃げたい」といってなんとかなるのは子どもの特権で、大人になったら逃げたいといって逃げられたら苦労はしない。現代の日本に足かせをつけられた奴隷はいないけども、責任という重しに括り付けられて喘喘いでいる人たちでこの世界は廻っている。

そういうわけで、吐きそうになるくらいのプレッシャーを抱えながら、震える指でタスク一覧をPCに打ち込む。20個くらいのタスクをざっと書いて、重要な順に並べるんだけど、今回もここ一年、同じ項目が同じように最上位に来ている。本の原稿だ。

私は2013年に「ボクの彼女は発達障害」という本を上梓した。この本を書くまで長文を書いた経験は無く、正直本を書き上げられるかどうかも怪しかったのだけども、企画を持ち込んでくれた編集者(ろう学校の後輩でもある)と意気投合できたこともあって、比較的楽しく書き進めることが出来た。また、本も障害者をテーマにした本としては比較的売れてくれた本だ。

でも、何事にもビギナーズラックというものがあって、2巻目は編集者が変わったことや、いい本を書かなきゃと気負いすぎて大変苦しい作業になった。2016年になんとか出版できたけど、その後はもう二度と本なんて書くか!と感じた。そのくらい辛かった。

でも、数年経つと「また本を書きたいな」なんて思っていたら、とある企画の乗ってしまった。これは自分自身をテーマにしたもので、これまでの2冊はあお(妻)を観察していたものと違って、一文一句一行、すべて自分に跳ね返ってくる作業になる。いや、妻のことについてはどう書いてもいい、というわけでは無いのだけども、やはり疲労感が全然違う。

ある程度は書けたのだけど、ところどころがとても書くのが進まないところがあり、それで毎日PCに向かうと気が重いし、そのストレスで本業すら止まっている感じがある。これは各方面に申し訳なさすぎて嫌になる。

正直、原稿から逃げたいのだけども、構成的には2/3はできあがっていて、あとは1/3だけだ。ここで逃げたらこれまでの作業が全て水の泡となる。それだけは嫌だ。私が文章でも逃げたら、後に残るのはタダの脂肪のついたデクノボウだけじゃないか。せめて宮沢賢治の詩のようなデクノボウならいいんだけど、あの詩の中で私に出来るのは玄米4合を食べることくらいだから、なお悪い。

そういうわけで、今日は一日本気でPCに向かって、なんとか3000字進めた。数万字に渡る原稿の中でそれは微々たるものだけど、それでも前進は前進だ。本当はどこか一つ発破すれば全てがぶち壊れて水が流れてくれるように片付けばいいんだけど、本を書くという作業は、ときにレーダーも探査機もなく、ツルハシだけで金脈を探す作業にも思える。

重労働で、少しずつしか進まなくて、ときに硬い地層にぶち当たって、それでいて金脈にたどりつくかどうかは賭けでしかない。あるときは何か楽が出来ないかと考え続けて時間を浪費し、あるときはもう無理だと逃げるんだけど、それでも「金脈に当たったとき」の夢想を捨てきれずにツルハシをまた握り、疲れた腕を持ち上げ、切っ先を岩にぶち当てる。それの繰り返しだ。

おそらく、クリエーターというのは、こういう金脈を絶えず探し続けてる人たちのことだろうと思う。まだ見ぬ何かを掘り出すために、直感と霊感(インスピレーション)だけを頼りにか細い腕でツルハシを振り上げ、振り下ろす。この作業を何千回、何万回も愚直に繰り返す。それでも何かを取り出せる確証はなにも無い。それはある種の奇行や愚行の類いであり、正気を失った人たちの群れでもある。その奇行・愚行に真っ向に取り組む狂気は私には足りないのでは無いか、ということも感じる。いっそ狂えたら楽じゃないかとも思う。

とまぁ、こういうことを書くことが「書くこと」の癒やしになる時点で、どこか私も「まとも」ではない気もするだけども。

前置きが長くなった。本題に入る。

本日の原稿を書く作業に限界を迎え、気休めにここ1年ほど入会しているライターズギルトである「sentence」のSlackを開いた。このグループはお互いに進捗を報告しあったり、書いた原稿を添削し合ったりという場で、私も時折、怪文書を投稿したりしている。

本日もSlackに投稿された他のメンバーの進捗や書いた原稿を見せてもらうのだけども、最近入会したした大学生がかなり気になっている。

かなり本気で文章に取り組みたいようで、30日間連続でnoteを更新するという誓いを立てて毎日投稿しているのだけども、正直「うまい」文章では無い。だけども、素直に努力して書いているのはわかるのでとても好感を持っている。いや、私みたいなおっさんに好感を持たれても困るだろうけども。

私は2016年11月から2018年4月にかけて1年半、ほぼ毎日、1000字ほどのブログを書いていたことがある。この時期は色々と生活も仕事も辛い時期で、ブログを書くことで何かを突破したかったというがむしゃらさがあった。とにかく、毎日書かないと死ぬ、みたいな気迫で書いていたと思う。

その結果、ブログを介して知り合った方から紹介された仕事をパラレルワークとして請け負ったこともあって生活はずいぶん楽になったし、文章力も飛躍的に向上した。このことが今の職場に就職したことともつながっている。

彼は、今日のnoteの中で「勉強の意味ってなんだ」ということをテーマに書いていて「自尊心を育むため」という答えを出していたのだけども、毎日書くということは、それと同じく「自尊心」を育むことだ。

下手だろうがなんだろうが、一定期間を設けて何かに取り組むというのは、その内容の如何を問わず「その行為」自体が尊い。自尊とは「自分を尊ぶこと」であるから、尊い行為を通じてのみ自尊心は養われる。

私は若いことはなにも尊いことをしてこなかったし、今でも口が裂けても尊いなんて生活はしてないんだけども、それでも「1年半毎日何かを書いていた」ということと「本を出せた」ということは「自信」になっている。

自信とはそのまま「自分を信じる」ことであるのだけども、とにかく「ちゃんと取り組めば書けないことは無い」という「自分の能力を信ずる」ことである。

本を書くという作業は何度も書くけど、とても辛いもので、逃げたくもあるし、腕を下ろしたくなるときもある。だけでも、ツルハシの使うことは間違いなく出来る、という確信はある。つまり、書くという作業を続ければ、いつか原稿が出来る上がる、ということに疑問は持っていない。それが私の「自信」だ。そして、その「自信」の源泉は、愚直なまでにブログを書き続けた日々だ。そのこと、歳が半分くらいの学生の姿勢に改めて気づかされた次第である。

彼が文章に関することを仕事にするかどうかはわからないが、彼オリジナルの金脈を探し当てることを願ってやまない。

私も、また新しい金脈を探して、再びツルハシを握ろう。そして、明日、また苦しみながらも必ず出来るという確信を持って、震える指で冷や汗をかきながら、PCに一文一文を、おそるおそると書いていこう。間違えても、失敗しても。一度掘り始めたからには死ぬまで掘り抜くしかないのだから。

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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。