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ファーストカットと胎毛筆

生まれて初めて切った赤ちゃんの髪の毛を筆にする文化があるらしい。
一度もハサミを入れたことがない繊細な毛先を記念に残しておくんだそうな。

世の中にはすごい商売があるものだな。

初めて胎毛筆の文化を知った時、正直私はそう思った。
髪の毛を筆にするって…羅生門じゃあるまいし…

しかしながら私は産後、あっという間に手のひらを返し、迷わず息子の髪を筆にすることを決意した。


息子が産まれるとき、私は世間の例に漏れず、相当な分娩の苦しみを味わった。
痛くて怖くて苦しくて、
産んだら忘れるなんて言うけれど、忘れるわけがない。
えらい目にあったといまだに思う。

いよいよ息子が登場するぞ!というとき、助産師さんが言った。
「赤ちゃん出てきてるよ、頭触ってごらん」

半ば朦朧とする意識のなか、自分の股部分に手をやると、そこには確かに息子の髪の毛が存在した。
痛みと恐怖しかない出産が、じわじわと感動と喜びに変わり始めた瞬間だった。
あの柔らかな髪の毛を撫でたときの感触を、私は一生忘れないだろう。

そして無事に登場した息子の髪の毛はふさふさだった。胎児のときからこんなに生えてたのか…と妙に感心したことを覚えている。


息子の身体のパーツは、どれも漏れなく愛おしくてたまらないのだが、そんなわけで私は髪の毛にめちゃくちゃ思い入れがある。
初めてこの手で触れた彼の一部分だからかもしれない。

大切にブラッシングしてきた髪の毛だが、いよいよ目や耳にかかったり、とんでもない寝癖がついたり、放っておけない状態になってしまった。

かなりの寂しさを抱きつつ、ついにファーストカットを決意した。もはや筆にしない理由はないのだ。胎毛筆の業者と提携している美容院を予約した。
できあがった筆は、私の棺桶にでも入れてもらおうと思う。

果たして母は、泣かずに見守ることができるだろうか。
果たして息子は、泣かずに髪を切られることができるだろうか。

そして、胎毛筆にいくら課金してしまうのだろうか。

世の中にはすごい商売があるものだ。




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