見出し画像

「良い人」は甲と出るのか、乙と出るのか?

こんばんは。くっぴーです。私は昔とある人に「反骨心もない」と言われたことがあり、その言葉がずっと心に残っています。私はそもそも短気な方ではないですし、人にいらっとくることもそこまでありません。ですが生きていくにつれて果たしてこれは良いのか?と思えてくるようになったのです。今回はこの件について考えていきたいと思います。

「良い人」とは

「良い人」、この定義は難しいですね。

辞書にはこう書かれてます。

①善良な人。②情人、恋人。

①は人に迷惑などかけず、人当たりの良い人で、②は私にとって「良い人」と言った感じで使われる恋人のような意味。でもあの人は「良い人」なんだけど。。と言う女友達同士の会話でよく使われる「良い人」は②の意味ではなく恋愛対象ではない。。と言う意味になり、使う対象でビミョーに意味が変わる日本語ですね。また、各々個人が考える定義によっても変わってくる日本語だと思います。

「良い人」を目指してきた自分

私はそもそも辞書の①で言う「良い人」ではありません。小さいころはどちらかといえば「悪い子」でした。恥ずかしながら、小学生の時は特に友達の悪口を言うこともありましたし、友達を傷つけてしまったこともあります。なので私は「良い子」ではないのです。

ですが、とある子との出会いをきっかけに自分が愚かだったと気付き、それから相手の気持ちを重視して考えるようになりました。これについて詳しくは近々書いてみようと思います。その子との出会いは私の初めての人生で衝撃的な出来事でしたし、その子に会っていなかったら私は今も人の心を考えることもなかったかもしれません。なのでその出来事以来、人の気持ちを考える、人を許す、人を傷つけるより傷つけられるようが良い、という考えを自分のポリシーのようにして生きてきました。

「反骨心」のある人

一方、反骨心とは、例えば「君全然できないね」とか「根性なしだね」と誰かから否定することを言われたのを原動力に「何くそ!見てろよ、やってやるからな!!」と行動力につなげられる気持ちのことを言うと思います。もちろん私も全くそう言う気持ちがないわけではないですが、どちらかと言うと「落ち込んでしまう」タイプだと認識しています。プラス、私は何かきついことを言われてもきっとこの人はこう言う意図で言ってるんだなあ、とかきっと疲れてたんだろうな、とか良いように解釈して、自分のストレスにはつながらないようにしている気がします。以前、自己肯定感アップカウンセリングに行ってた時があるのですが、その時先生が「ある意味ストレスコントロール能力ありますよ」と言ってくださったことがあるのですが、確かにそれはあるかもしれません(笑)

確かに、イライラしないと言う意味ではストレスコントロールができているかもしれません。ですが、人は「感情」でしか動かないと言うのも事実です。貧乏を経験したことがある人は、あんな経験もう二度としたくない!と思い、お金を稼ぎたいと努力する人が多いですし、いじめを経験した人は、グレてしまう人も中にはいますが、くそ〜〜見返してやる!と「自分が上げる」行動とつなげれる人もいます。

「良い人」を目指した代償

ですが、私はイライラ、負の感情を自分のなかでコントロールしてしまうので、一瞬いらっときても時間が経つとその時抱いた怒りは薄れていってしまいます。と言うかむしろ、イライラはかなり精神的にストレスなので考えたくない、となり考えないように忘れるようにしているのだと思います。つまり、一般的には短気ではないですし、ずっと恨んだりすることもなくやはりここは我ながら俗に言う辞書①の「良い人」なのかもしれません。しかも「良い人」になると言うことは、私が目指してきたことでした。ですが、それであるばかりに仕事など目の前の出来事に対して、強烈な感情がないばかりにモチベーションにつながらず、結果行動にも繋がっていないということにすごく頭を悩ませる日々です。

私が今読んでいる本、「脱・”いい人”宣言!「ぶれない生き方」を実現する43の助言」にこう記述があります。

「いい人」は、ありのままの自分に自信がないうえに相手への共感力が高すぎるタイプが多いため、もしかしたら「そうだよね、俺はまだまだ青二才で力不足だからああいわれても仕方がないや。。」と意気消沈して大人しく納得しようとするかもしれません。
が、それでは行けません!そこで、「何くそ、今に見ていろ。絶対に認めさせてやる」というくらいの反骨心がなければ、屈辱的な出来事や逆境をバネにして捲土重来を期すことはできません。そこで被害者意識をもったり、変に妥協して気持ちを誤魔化したり、逆に完全に打ちのめされて無気力になってしまうようでは、せっかくの大きく伸びるチャンスをみすみす逃すことになってしまうのです。誰しも若いことは下積み時代があり、まだ何者にもなっていない自分が実力差のある相手にケチョンケチョンにいわれたりすることは往々にしてあるもの。ですがそうした局面でいい意味でのプライドを持って対応できたかどうかは、一生つきまとうのです。(途中省略)反骨心とは権威や権力、時代風潮などに抗う心であり、単なる反発や復讐とも違いますから、別に実際に喧嘩を売りなさいと言っているわけではありません。むしろ、キレることなく自分が目指す将来への夢や希望にプライドを持って、忘れられない悔しさを命がけで自己変革するエネルギーに変えることが大事なのです。

引用書籍

負の感情こそがパワー

有名なマーケター、神田昌典さんの言葉に「みんな良い人で成功しようとする」と著書で書いていたところがありました。「クソ野郎!見返してやる!」とはならず、そう言う人への恨み妬みは持たないと言うこと。

負の感情はストレスで、可能ならずっと抱えていたくありません。すぐさま忘れてしまいたい。でも、負の感情こそが最大のパワーであるのも確かです。

私は中高時代は偏差値的にはレベルの低めな学校に通っていました。予備校に行けば「学校どこ?」と聞かれ、お互い私立に通う者同士だとどこの学校がどのレベルかって言うのはだいたいわかってしまうんですね。だから答えるのも嫌だったくらい学歴コンプレックスでした。しかも、学校の授業はうるさいし、、と言った不満もあり、上を目指せばこの不満から抜け出せる!と苦痛からの離脱が私の大学受験をがんばれた原動力でした。

感情そのままに従ってみようか

私の今の最大の悩みは、この行動に繋がるパワーに匹敵する感情が弱いことです。何かいらっときても、自分の良いように解釈して最小のストレスにしてしまう。これは聞こえが良いですがそうでもなかったりするのはもうみなさん自明の如くですね。

人間は感情でしか動かない生き物です。もちろん人に対して意地悪をしたりだとか、社会規範の中で迷惑をかけるだとかは別ですが、何かむかつくことがあったら頭の中で一回思考を転換するのもやめ、そのままの「むかつく」と言う感情を感じよう、そして見返してやろう、自分が上に登れば良い、そう言う思考が欲しいですし、そのために時には感情のままに生きるのも生存戦略として大事なのではと思うのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?