【短編小説】コーヒーの渦の中

店員が持ってきたそのコーヒーにクリームを注いだとき、私はなぜか父のつむじを思い出していた。父は不惑を過ぎたころから白髪染をしているために、生え際だけが白く、つむじの外側に向かってゆくにつれ真っ黒な髪は、立派なコシと質実剛健な太さを持っており、この後何年経ったところで全く禿げるような様子が見られなかった。放っておけばどこまでも伸びる雑草のように、生命力に溢れた髪の毛だなと思っていた。
その白髪混じりの父の頭をじっくりと見たのは果たしていつだったか?どうしてこんなに印象に残っているのかと思いながらコーヒーをティースプーンで攪拌していると、それが高校3年の初夏のことだと思い当たった。そうだ、あれは確か最後のインターハイの前だった。私はあの時、大事な練習をしていたのだ。
(懐かしいな)
高校の時、私は陸上部に入った。小学からバスケットをしていたのだが、身長が親譲りにそれほど大きく伸びず、なかなか活躍出来なかったこと、それでも身体能力が全体的に高くて、なかでもシャトルランなどの持久力の面では学校でも誇れるくらいの順位を維持していたことから、中学でバスケットに見切りをつけて、陸上の800m走の選手になったのだ。
父が陸上のコーチをしていたこともあって、私の陸上部入りは案外あっけなく決まった。母も、「慶ちゃんと一緒の部活の方が、私も送り迎えが楽になるわ」と、味噌汁を作りながら言っていたのを思い出す。小さな味噌汁用のお鍋の中で、油揚げと煮干しが煮立つお湯でダンスをしていた。ちなみに、慶ちゃんというのは私の3つ違いの弟である。彼は小学校の時から土日の朝早くから父とジョギングをするという習慣をサボらずこなしていたこともあって、小学校の時から体育祭ではリレーのアンカーを務めたりして、中学入学と同時に陸上部に入ると、短距離選手として着実にタイムを伸ばしていた。
私は当時流行っていた漫画の影響や、友人たちが揃ってミニバスのクラブに入っていたこともあり、小学校の時からバスケ部に入っていた。高校から陸上をやってみようかなと父に打診してみた時、父は「そうか。そのうち道具も必要になるだろうし、今度スポーツ用品店でも見にいくか」とテレビを見ながらニベなく答えていた。案外そっけない態度にその時は辟易したけれど、しかし次の日には陸上関係のウェアやジョギングシューズのカタログなどが居間に置いてあったのを見ると、きっと私が陸上を始めることが結構嬉しかったんじゃないかなと思う。全く、そういうところは素直じゃないのだ。

私は熱いコーヒーを注意深く冷まし、恐る恐る口をつけて飲み下した。そしてソーサーになるべく音を立てないようにコーヒーカップを置くと、気付いたら誰も座っていなかった向かいの席に、もう亡くなったはずの父があの頃のジャージ姿で座っていた。
「おとうさんひさしぶりだね、元気にしてた?」
「まぁ、ぼちぼちってところだな。咲子、今日は仕事か?」
父は私がジャケットを着ているのを見て、仕事中に見えたのだろう。「やだ、これ普段着だよ。おしゃれでしょ?日曜だから、普通にゆっくりしてるだけ」と答えると、「あぁ、そうかそうか…」と照れ臭そうに腕を組んだ。変わってないな、と思いながら、私は父に聞きたいことがあったのを思い出した。
「ねえおとうさん、私が怪我した日のこと、覚えてる?」
俯いていた父は、顔を上げて私の方をみた。眉が大きく上がっていて、おでこがその反動でくしゃくしゃと皺が寄っている。話を聞いているときの、いつもの父のクセをまた見て、ああそうだ、父はこんな顔をする人だったと感慨深い気持ちになった。しかし父は、私の言葉をまるで聞いていなかったかのように、言葉を返してはくれなかった。
「ねぇおとうさん、あの日だよ、大事な大会前に、右足を疲労骨折したときのこと…」

最初はなんとなくで始めた陸上だったのだが、一年がすぎ、二年が過ぎると次第にタイムが上がってきた。そして三年に上がるころには県大会でも一番を取れるまでに成長していた。私自身、タイムが伸び始めたころからどんどん陸上が楽しくなってきていた。誰よりも早くゴールに辿り着ける人間は限られてくる。インターハイという大きな大会に向けて気合が入っていた私にとって、他の人より早く走ることが自分の自尊心を満たすようになっていて、そしてそれは矜持でもあった。早く走れない私は私じゃないし、早く走れるからこそ、私は価値のある人間なのだと勘違いをしていた。きっと驕っていたと思う。
その日は家の近くの陸上競技場に父が車を出してくれて、綺麗なトラックを使ってインターバル練習をしていた。大会前に心肺機能を極限まで追い込むために、私は必死にトラックを駆け回った。ストップウォッチを持った父が大きな声で、一周ごとのタイムを読み上げてくれる。もっと、もっと身体を前に進めたい。そして、行けるところまで勝ち上がりたい。自分の矜持のために。自分の存在理由のために。
そして、最後のコーナーを曲がり切ろうとした瞬間、思い切り強く地面を蹴ろうとした右足に激痛が走った。私はそれでもなんとか踏ん張って、最後の直線を駆け抜けようとした。呼吸も苦しいし、身体は火がついたように火照っている。でも、右足からは氷みたいに冷たい痛みが差してくる。顔中に冷や汗が出た気がした。あ。やばい。やばい。いやだ。怖い。私は泣きそうになりながら、ゴール手前で、トラックの内側の天然芝に退避した。父が慌てて「どうした!?大丈夫か!?」と駆け寄ってきてくれる。なんとか呼吸を整えながら、さっきまではあんなに暑く感じていた気温も、今では寒気みたいなものを感じていた。いままで感じたことのない激痛が、私を恐怖の淵に落とし込もうとしていた。
「おとうさん、ごめん。ちょっと、右足が痛くて…」
私の表情から全てを察したかのように、
「肩を貸すから、ちょっと邪魔にならないところまでいこう。あっちのベンチまで行けるか?」
俯きながら、私はパニックになっていた。何度か右足がいつもみたいに戻らないかと芝生に着地させようとするも、やっぱり痛くて出来ない。どうして?神様、わたし、なにかした?一生懸命やってたよ。もう少しでインターハイだよ。おかしいよ。なんでなの。
「咲子、とにかくここに座って。スパイク、外すぞ」
父はキツく結ばれた靴紐を、丁寧に丁寧に時間をかけて解して、私の右足から慎重に外した。そして靴下も。左足の方も同様にスパイクを外して、靴下を脱がせてくれた。その間私は、バスタオルに顔を埋めて泣いていた。私の足がその時、どんな状態になっていたのかは覚えていない。父が何かを言っていたけれども、それも覚えていない。いつの間にか長い時間が過ぎて、「咲子、これから病院に行って検査をしよう。立てるか?」
と言われて、左足だけでベンチから立ちあがろうとしたとき、父が私に対して背中を見せてしゃがんでいた。いつぶりだったろう、いい歳しておとうさん、おんぶは無いよ。と思ったけれども、私は素直に父の大きな背中におぶさった。折れてしまいそうな心を、父がしっかりと心身ともに支えてくれているような心持ちがした。
その日は夕焼けが熟れたトマトみたいに赤く見えた。さっきまでの練習で、汗で下着までびしゃびしゃになっていた。身体が冷えてきていたけれども、父の背中は温かった。父は私のスパイクをタオルみたいに首にかけて、しっかりした足取りで歩いた。この時、私は父の背中に向かって、
「おとうさん、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
と言っていた気がする。父は、そんな私に対して、何か言ったのだ。それは、とてもとても大切な言葉だったと思う。しかし私がそのときは混乱していて、うまく意味も理解出来てなくて、気持ちが内側に内側に沈み込んでいったから、その大切な言葉が、どれだけ大切だったかを理解できていなかった。そして、今それを思い出そうとしているのに、ひぐらしの鳴き声と共に風に舞って消えていってしまって思い出せそうになかった。

私はその怪我のせいで陸上競技を引退した。社会人になってからは、あんなに思い入れの強かった陸上から心が離れてしまった。仕事が忙しいことも相舞って、運動すらしなくなってしまった。もう速く走れるわけでもない私だけど、あのころと違って、それだけで自分の価値が失われてしまった訳ではないことを知った。当たり前だけど。
そして父は4年前に亡くなった。タバコもお酒もしない、いつも健康的な生活をしていたのに、肝臓に大きな腫瘍が見つかってからはどんどん痩せていき、闘病生活も一年足らずで呆気なく亡くなってしまった。元々足が速かったけれども、人生もそこまで速く駆け抜けなくてもよかったのに。

今年の夏は晴れ間が多くあったからなのか、あの高校3年の時の夏を思い出すことが多かった。ふと外を見ると、もう日がとっぷりと沈んでいた。もうそろそろ秋に向かって涼しくなって行くんだろうか。私はもう一度、父に向かって、
「ねえおとうさん、私をおぶって歩いていたあの時、なにか言っていたよね?私、あの言葉に凄く勇気づけられた気がしたの。ねぇ、なんて言ったのか、おぼえてないかな?おとうさん…」
と、聞いた時、父はもうそこにはいなかった。テーブルの上には、もう空になったコーヒーカップだけがポツリと置かれているだけだった。

おわり

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