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もう雑音に惑わされない。"好きなことを貫く"という生き方


「好きなことで、 生きていく」

多くの人がそれを夢だという。

私も昔はそんなこと夢だと思っていたけど、社会人になってから今に至るまで私は仕事が大好きで、好きなことをやらせてもらいながらお金をもらって生活をしている。

夢を夢で終わらせなかった大きな要因の一つに、夢を叶えた先人たちの存在がある。だからこそ、私がどうやって好きなことを仕事にするようになったのかの経緯をこのnoteに記しておこうと思う。

※私が今やってる事業や起業ストーリーについては本題ではないのでこちらを参照してください。

①不本意な将来に向かう選択をした日

私が工学部出身だと言うとほとんどの人が驚く。

事業内容や見た目からきっと外国語学部や、国際〇〇学科を卒業していると思われていることが多い。けれども 男女比9:1。華やかとは程遠い雰囲気で花の大学生活を4年間過ごした。

まだ工学部の勉強に興味があったのならそれでもよかったのだけど、残念ながら物心ついた時から国語が好きで算数が苦手。根っからの文系人間で、工学部で学ぶであろうことに一切興味がなかった。

だから大学の4年間は本当にきつかった。もともと興味があって入った人でも留年するくらい、真面目に勉強をしないと卒業すら危うい世界。全く興味をそそられない内容の膨大な量の宿題に実験、テストを落第ギリギリでどうにかこうにかこなしながら、合間を縫ってバイトや旅行をした4年間で、毎日がギリギリの生活だった。(当時たくさんの同級生に課題を手伝っていただきました。この場を借りてありがとうございました。笑)

こんな大変な大学生活を送る羽目になったのには事情があった。

うちの家は父親が工学部出身で「工学部こそ至高!」という考えの持ち主。大学受験の時も、当然のように「 工学部以外なら金は出さん!」と言われた。

ぼんやりと、「海外に関わるような仕事がしたい」「デザインがしたい 」「マーケティングに興味がある」と思い描いていたにもかかわらず、父親からの圧力に負けてしまい不本意な選択をした。

②全てを捨てると決めた日

大学に通っていた時、今好きでない事を勉強して苦しんでいることは仕事への序章なのだと思っていた。「仕事イコール我慢してやる嫌なこと」好きなことは趣味でや老後にしかできない。もう大人なんだし割り切っていこうぜ。とドライに考えていた。

転機が訪れたのは就活の時。ほとんどのクラスメイトが大学院に行く中、大学生活に耐え切れず学部卒での就職を決めたものの、どこもピンとくる会社がなくて悩んでいた。

就活を始めた当初チェックしていたのは、インフラやメーカーなど大学で学んだことを活かした仕事。けれども、最終面接にまで進んでも、どうしてもそこで働いているイメージがつかず逃げ出したい思いでいっぱいだった。

そんなある日、友達から某有名住宅メーカーで全国売り上げNO1という営業マンの話を聞いた。

同じように就活で悩んでた友達が、「どうしてそんなすごい成績を残せるんですか?」と聞いたところ「俺はこの仕事と会社を心から愛してるからや!」と言われたそうだ。「自分が売った家が建った写真を見るたびに幸せで、家の写メを待ち受けにしてる!携帯の着メロも会社のCMソングや!こんなに自分が愛してるものだから、お客さんにも自信を持って勧められるねん!だからお客さんも買ってくれるんや!」と。

私はモデルとかパイロットとかサッカー選手とか、誰もが羨む華やかな仕事をしている一握りの人だけが仕事を好きなんだとばかり思っていた。けれど不動産の営業という、子供の「将来なりたい職業ランキング」には登場しそうもないような仕事に就きながら、「仕事が好きだ!」と堂々という人を見て感銘を受けた。

大学時代、アルバイトが大好きでハマっていた。デザインのことを考える時、時間が経つのをいつも忘れてしまう。きっと頑張れば手がとどくような仕事で、心から好きになれるものなんてたくさんあるだろうに、なぜか私は敷かれたレールから外れることを無意識に避けていた。

4年間嫌なことに耐えてやっと得られそうな学歴を生かせないという徒労感なのか、親の期待に応えられなかった罪悪感なのか、周囲から負け犬と思われることへの恐れなのか。

ためらう気持ちもあったが、限りある人生の大半を費やす仕事という時間を嫌々過ごす世の中の大半の大人たちと、「仕事が好きだ!」と堂々と言うキラキラ輝く笑顔の大人たち。どちらになりたいかは明白だった。

就活を機に私は大学の4年間勉強してきたことを全て捨て、ずっと好きだった通販の会社に入社した。大学院に進学しなかったのはクラスで4人。その中で文系就職をしたのは、クラスで私たった1人。ドロップアウトという言葉がふさわしい。とても大きな、そして今までの人生の中でも最良の選択のひとつだった。

③入社1日目に書いた提案が利益を産んだ日

小学校の時から通販に興味があって、親の名前を使って勝手に注文して怒られるくらいに通販が好きでずっと分厚いカタログを見て育った。新卒の時に入社した会社に目を留めたのも、子供の時から馴染みのある会社だったからという理由だ。

就活イベントで吸い寄せられるように席に座って話を聞いた時から、私は恋をしていた。「この会社以外で働くなんて考えられない!」と思うくらいの運命的な出会いで、この会社に入れば私も笑顔で働ける気がした。だからとても努力した。

ノート1冊を全部埋めるくらい企業研究をして、説明会では一番に手を挙げてアピール。私服で行われた最終面接では頭のてっぺんからつま先までその会社の商品で揃えて臨み、社長に爆笑される始末。その甲斐あって、1万人の応募者の中、20人の内定の枠を勝ち取った。落ちる気は全くしなかった。だって私以上にこの会社が好きな人はいないと思っていたから。

本やセミナーで習った通りに志望動機をそれらしく書いて企業側も候補者側も騙し騙し妥協で選んでる就活や、嫌々仕事をしてお金をもらってという仕事のスタイルが私は嫌いだ。就活や会社と働く人の関係はよく結婚や恋愛に例えられるけど、たいして好きでもないのになんとなく付き合ってすぐに別れてしまうカップルや、お互いのことが嫌いなのにメリットやデメリットを計算して離婚しないだけの夫婦に似ていると思うのだ。

実際、大好きで入社した会社での社会人生活は辛いことも多少はあったが最高だった。嫌々やっていた勉強から解放され、好きなことをしてお金をもらえる。まさに水を得た魚のようで、毎日がキラキラ輝いていた。

入社1日目の提案が社長に取り上げられ、プロジェクト化して利益を生んだ。新入社員の代表としてホームページに掲載される。テレビに出演して会社のことをPRする。たくさんの方々のおかげもあって、自分でも驚くようなことが達成できた。仕事が、そして会社が好きだったからこそできたことだと思う。

大学の4年間学んだことを捨てるのを反対していた両親も、落ちこぼれだから進学しないんだという目で見ていた大学の同級生や教授たちも、結果が出てくると私が選んだ道について認めてくれるようになっていた。

④好きなものから逃げ出した日

大好きだった会社に入社してから3年ほどで、私は会社を辞めた。理由は実際に働いてる先輩たちの背中を見るにつれ、ずっと会社で働く将来が思い描けなくなったからだ。

私が入った会社は、日本の会社では珍しく自由な雰囲気で、アパレルの通販ということもあり女性が非常に活躍している会社だった。産休育休も全く問題なくとれるし、職場自体も家庭の事情で休んだりすることにも非常に寛容で実際多くの管理職の女性や、育休産休から復帰した女性を目にした。

だからこそ、先輩たちを側で見ていて気づいてしまった。管理職の女性は結婚していないか子供がいない人がほとんど。育休産休から復帰した女性は時短勤務だから誰も責めないのに、残業している同僚たちに謝りながら帰宅していた。彼女たちを見てすごいなと思ったけれど、自分にできる自信がなかったし、大変そうだなという印象が拭えなかった。あんな風になりたいと思えなかった。

「保育園に受からず復帰の時期が遅れる」「残業が多い職場環境の中、時短勤務で気を使う」「管理職の女性が家庭を築くのが難しい」といった日本社会が抱える問題は、女性側が働く会社だけでなんとかできるようなものではない。

女性が働くための環境が整ったこの会社ですら、女性が家庭とキャリアを両立させるのが難しいのであれば他の会社に移っても一緒だと思ったので、会社を辞めた。

当時にお世話になっていた人に、辞めた経緯を説明したところ

お前、やりたいことがあって入った会社じゃないの?逃げてるよ」と言われた。何も言い返せなかった。図星だったから。

確かに家庭とキャリアを両立させるのは見るからに大変そうだ。でも、大好きな会社で大好きな仕事だっから、こんなにあっさり手放さずにもう少し粘ってみればよかったと後悔した。

もう好きなことから逃げたくない

次に仕事をするまでに今まで心からやりたいと思っているのに、自分に言い訳をしてしてこなかった事の中で一番大変な事を達成しようと誓った。そうしないと、一生好きな事から逃げ続ける自分になってしまう気がした。私にとってずっと逃げてた事、それは子供の時から夢見ていた世界一周だった。だから禊を落とすような感覚で世界一周に飛び立った。

⑤自分の才能を見つけた日

世界一周であった出来事を書き始めるとキリがない。国籍も年齢も肌の色も違う人たちから、今まで出会った事のないような考え方をたくさん学んだ。

その中でも印象に残っている出来事のひとつが、ロサンゼルスで出会いホームステイもさせていただいたルミさんから言われた事。

とっても面倒見がいい素敵な人なのだけど、アメリカで生まれ育っているのもあり、自由人でかつすごいマシンガントーク。出会った当初は勢いに圧倒されてしまって、ルミさんの前で私は借りた猫のようになっていた。

ある日ルミさんが、私に彼女の友達を紹介してくれた。日本にアメリカの商品を販売する通販の会社で働いているとのことで、通販会社でWEBマーケッターをしていた私に意見を聞きたいとのことだった。

もともとマーケティングの話は大好きだし海外通販にも興味があったので、持ちうる限りのすべての知識を伝えようとして、初対面のルミさんのお友達に気づいたら私は熱弁をふるっていた。

その姿を横で見ていたルミさんが、突然興奮して叫びだした。

"Hana-Chai,you look like a different person!You have a gift!”(はなちゃん、さっきとまるで違う人みたいに生き生きしてるよ!あなたには才能がある!)

ただただ、好きという気持ちで突っ走ってきたから、自分に才能があるかないかなんて考えたこともなくて、ルミさんの言葉を聞いてちょっと泣きそうになった。

きっと誰もが大好きなことを、夢中になれることを持っている。

もし時間を忘れるほどに夢中になれるものがあるなら、生き生きと誰かに話せるものがあるなら、それこそが、その人の持つ才能なのだと私は思う。

⑥「お前のことを軽蔑する」と言われた日

世界一周から帰国した私は、企業に就職せずフリーランスとして活動を始めた。このころには、今やっている事業の構想も固まっていたのだけれど、周りの反応はかなり冷たかった。

大学時代の知人からは

「そうやってフラフラしてる、お前みたいなやつ軽蔑するわ」

と笑いながら言われた。

親には

「会社にも就職してないのに、海外に行ったりしているなんてきっと悪いことをしてるに違いない」

と危うく警察に連れて行かれかけた。

最初のうちは仕事もなく12時間看板を持ってただ立ってるだけの日もあった。しかも、通りすがりの知らないおばさんに「若いんだからこんな仕事をして時間を無駄にしちゃダメ」と怒られた。

この時期は悔しくて泣いたり、不安で泣いたり、だいたいいつも家に帰って1人で泣いてた気がする。

けれど、もう自分がやりたいことを手放すことはなかった。必死で食らいついて、とにかく結果を出すことにこだわった。

起業して、事業が軌道に乗り、メディアに掲載されるようになると、やっている事は同じなのに、私を軽蔑していたはずの人が、"尊敬している”と言い出すくらいに、180度周囲からの扱いは変わった。

好きなことを貫こうとする時、きっとたくさんの雑音があなたの耳に入ってくると思う。雑音を消す方法はたったひとつしかなくて、結果を出すこと。あなたが楽しそうに、生き生きしていたら、周りは自然と何も言ってこなくなる。

結論:みんな”オタク"になろう

何かを達成するというのはある意味、テクニックのようなもので本質的には難しくない。時間や労力を注げば不器用でもそれなりの結果は返ってくるし、効率的にリターンを得る方法はビジネス書を探せばいくらでも見つかるだろう。

本当に難しいのは自分が心から好きと思えるもの、心血を注いでもいいと思えるくらいにのめりこめるものに出会う事だと思う。

「好き」には全ての理論を破壊してしまうほどに暴力的なパワーがある。

もし本気で好きになれるものが見つかったら、どんな小さな事でもいい。ひとからバカにされてもいい。

”オタク"と言われるくらいにとことん極めて、自分が興味がなくなるまで何があっても手放さないでほしい。

そうやって本気で向き合って得た経験は、結果がどうであれ絶対に自分の人生を輝かせてくれるから。


「好きなことで、 生きていく」

バラ色の道なのか、もしくはイバラの道なのか。私にはわからない。けれど、一度しかない人生だから、私はこれからも好きなことを貫いて生きていきたいと思う。


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