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レビュー「米津玄師/地球儀」


「地球儀」を聞いてイメージしたことなどを、歌詞を中心にただただ自由に書いていこうと思う。
(まだ映画「君たちはどう生きるか」は観ていないので、素直な直感で徒然なるままに。)

【冒頭の音のイメージ】
地球が生まれる。原始、太古の時代。黎明。
太陽の光が地球に届く。
大地への恵みを受け、生命が生まれる。
(※今までこの音色に近いものを聞いたはずのに、何の曲なのか思い出せないけれど、思い出したら追記しようと思う。関係あるのかわからないけれど、昔よく聞いていたCD「the most relaxing feel」の収録曲を思い出した。姫神、エニグマ、アディエマスとか。)

ぼくが 生まれた 日の空は
高く 遠く 晴れ渡っていた
いっておいでと 背中を撫でる
声を 聞いた あの日

「生まれた日」で「晴れ渡っていた」…普通は嬉しさで溢れ手放しで喜ぶはずなのに、細かい文節に別れ、しっとりとゆっくり歌う、かつ音がシンプル=寂しさを感じさせる。

神妙な声のトーンで緊張感がある。何かに怯え、恐怖を感じている。
生まれ落ちた、まだ見ぬ恐怖かもしれない。
言いづらいけれど、辛いけれど、大事な気持ち、大事な告白がある。

一人で孤独に生まれてきたのか、あるいは生まれてきた直後に大切な人と別れたのか。
晴れ渡っているのに「高く遠く」というところが物悲しい。
旅立ちの日なのだろうか。
一般的に、高く遠い空は夏の日の空を思わせる=子供時代の思い出や遠い過去のイメージ。もう届かない日、会えない人とか、届かない夢とか思いとか。

「高く 遠く 晴れ渡っていた」=た行、た行、は行で始まる節。
「高く遠く(た行)」と「晴れ渡っていた(は行)」は違う音なので、「高くて遠い」ことと「晴れ渡っていた」のは別のことを暗示しているようにも聞こえる。


「行っておいで」の声は今ではなく、いつかの声、聞いた声(実際には聞いていない声)かもしれない。
手で撫でる行為も物理的接触ではなく、抽象的な概念かもしれない。
大切な子への愛で送り出す、みたいな。
「声を 聞いた あの日」 =か行、か行、あ行で始まる節。
か行は「ハッ」として背筋がピンとなる緊張感が続いた後、あ行で気持ちが収まり落ち着く。だけど、「あの日(あ行)」は「声を聞いた(か行)」と違う音なので、距離を置かれていて寂しさを感じる。

季節 の中で すれちがい
ときに 人を 傷つけながら
光に触れて 影を伸ばして
更に 空は 遠く

誰かとの関係性が構築されていく中、いろいろと経験していく中で、自分も成長していく。
だけど、光があれば影が生まれるように、何かを得て何かを失う。

ここで、私が不思議に思うのは、大抵の場合、人は傷つけ傷つけられているのに、また詩でも文章でもそう書くはずなのに、この作者は自分が傷つけた事しか言及していない。
これはどういうことだろう。
「僕」の人間性なのか。
正直、まっすぐ、心の強さなのだろうか。

「生まれた日の空」よりも「更に遠く」なっていく空。
「更に 空は 遠く」=さ行、さ行、た行で始まる節。
さ行でふんわりとした優しさや儚さ、薄く淡い感じ、それが増していく。

通常、「遠くなる」「遠い日」など、動詞としての完成形や名詞に接続する方が収まりがいいと思うが、それを書かないことで寂しさや孤独感、どこまでも空は続いている感じがことさら強調される。

風を受け 走り出す 瓦礫を超えていく
この道の 行く先に 誰かが待っている
光指す 夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
飽き足らず 思い馳せる 地球儀を回すように

ここから、風の歌。音が追加される。
気持ちいい風に乗って勢いが加速する。
ここの章の歌詞はそれまでの章と比べて「ぼく(もしかしたら成長して「私」かもしれない)」が主体的に動く動詞が多い。
情景描写から主人公の心情に視点が切り替わっている感じ。

「光指す〜地球儀を回すように」までで、3回続く倒置法。
かなり深い、強いメッセージ。
ただし、1回目と2,3回目の間に深い溝がある。
溝の部分、転換点で何かが大きく変わった。

「いつの日も」「扉を今開け放つ」の間に生まれる沈黙。
一瞬、聞いている人は不安になる。
いつの日も、の「のーひーもー」で更に音が高くなり、空の階段を駆け上っていく。

「扉を開け放つ」「秘密を暴く」…誰かの扉を開け放ってあげるということだろうか。
自分の扉だとしたら、思春期からの開放、成長ということかな?

「地球儀を回す」ということは、そこに地球儀があって、自分の手が触れていて、さらにその手が回しているということ。
触覚を伴った実感=リアルな現実。
抽象的、茫洋とした世界と、自分が実際に立っている世界の接合を果たした(あるいはこの段階では願望)のではないだろうか。
ここでは「思いを馳せる」に留まっていて、
最後は「飽き足らず描いていく」=外界との接合をついに実現しさらに挑戦し続けるということだろうか。

長くなりそうなので、ここらへんで辞めておこう。
米津さんの意図とかなりズレているのかもしれないけれど、あくまでも個人の直感なので、お許しください(笑)。





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