昭和の時代にインターナショナルスクールで多様性とインクルージョンを「ミカド」で実現【元外交官のグローバルキャリア】に
1987年、時代はまさに昭和真っ只中で、政治的に正しい(politically correct)や偏見への意識高い系(woke)や文化盗用(cultural appropriation)と言う言葉が存在しない頃です。
ジャカルタのインターナショナルスクールで、1885年初演のギルバード&サリバンのオペレッタ「ミカド」が上演されました。この演目を令和の今、学校演劇として選ぶのは難しいでしょう。歌舞伎のように目を吊り上げたメイクでポリエステルの着物姿で歌って踊るのは、日本文化盗用でアジアをコケにしているという批判を招きかねません。
しかし、この演目こそが#oscarsowhiteの数十年先を言っていました。多様性とインクルージョンの祭典です。
インターの日本人生徒が参画
昭和の当時、「ミカド」の上演は、私たち日本人生徒にとって大きな転機となりました。混ざれなかったインターナショナルスクールのコミュニティに、校内の「日本人社会」が舞台に押し込まれて、花を咲かせたような出来事でした。
「開発独裁」と呼ばれたスハルト政権時代のジャカルタでは、市内のどこでも15分見込めば車で到達できるのどかな途上国でした。人力車は減っていましたが、オートリキシャのバジャイが走り、「サテー!サテー!」と手押し車で焼き鳥を売る声は、さながら昭和に聞いた豆腐屋さんのラッパのようです。
JISのミュージカル!
ジャカルタ・インターナショナル・スクールの恒例のミュージカルは、その生徒や父兄だけでなく、日本人学校から、フレンチスクールから、と二晩の公演と昼一回のマティネを満席にする娯楽でした。私が転校してから、Pippin, Joseph and the Amazing Technicolor Dream Coat, Jesus Christ Superstarという数々の名作を、高校生が渾身の演技で観客を魅了しました。
恐ろしのミセス・ダリー
その年は、英語教師のミセス・ダリーが監督する「ミカド The Mikado」に決まりました。ベンガル系シンガポール人のこの教師は、国際バカロレアの英語A言語と文学の受け持ちで、2年目の生徒を自宅に招いて薄明かりの中でタゴールの夕べを開催することでも知られていました。ミセス・ダリーのクラスは、課題図書も小論文の提出数が多く、生徒の負担も大きいですが、先生からの課題の返却が遅れることがありません。自分にも生徒にも厳しい、皆が畏敬の念で接する教師です。30年以上経つ今でも、当時のクラスメイトと、本への向き合い方にミセス・ダリーのお許しが出るか、その英語の使い方はミセス・ダリーに叱られやしないか、と日常的に名前が出ます。
「日本人生徒を集めてちょうだい」
高校2年でそんなミセス・ダリーの授業を受けることになった私は先生から「『ミカド』のオーディションにできる限りの日本人生徒を集めてくるように」とキャンパスですれ違いざまに指示を受けました。皆に声をかけ、自分も含め普段はミュージカルに縁遠いような日本人同級生たちがこぞってピアノの前で歌唱力を披露しました。そこから、今まで遠い存在だった校内のミュージカルスター達と、夜な夜なリハーサルに励むことになりました。
アジア人生徒が活躍した演目
ダンスチームの華やかで元気な生徒達は忍者になりました。主役級を張る日本人はまだ輩出されていませんでしたが、コーラスを彩りました。歌って踊れて頭が良いフィリピン人生徒達がミカドやココの役を、ナンキープーは中国系米国人生徒でした。普段主役級を務めるテノールやソプラノのカナダ人やアルトのアメリカ人は助演を務めました。#Oscarsowhiteと問題になったアカデミー賞を受賞するのは白人が圧倒的と言う批判の35年も前に「Crazy Rich Asians」 的な試みが行われたのです。
一つのものを一緒に作り出し、成長する、と言う過程から、インターナショナル・スクールでの人種・文化毎のグループがモザイクのように混じり合ってアートを作り出しました。「ミカド」を通じて新たに知り合ったのは、英語にも堪能な富裕層のフィリピン人集団や英語ネイティブの生徒達でした。
先日、ミセス・ダリーの生い立ちや雑記をまとめたものを息子さんから共有してもらいました。そこで初めて人としてのミセス・ダリーに触れることになりました。ミセス・ダリーはヒンズー教徒で、英国領のマレーで生まれ、独立後のシンガポールで高等教育を受けた人でした。
英国植民地主義と帝国日本統治下のマレーの出身でした。ベンガル語、ヒンディー語、マレー語を使う、異文化と多様性の塊の様な人であることを知りました。
両親の出生地のベンガル地方の村はは後に東パキスタンとなり、バングラデシュとなりました。
5歳の時に太平洋戦争が始まり、ミセス・ダリーの住む小さな村にも日本軍が侵攻しました。学校に行くと、「おててつないで野道を行けば、みんな可愛い小鳥になって」と言うお馴染みの童謡を覚えたそうです。他には、「アジアの山に、アジアの海に、ひらひら日の丸翻せ、日の丸はアジアの旗です。」と歌い、カタカナや日本語での読み書きを覚えたそうです。
ミセス・ダリーが9歳まで植民地で帝国日本の教育を受けた事実は、令和の今になって初めて知りました。私がIBの論文に川端康成を題材に選んだ時も、国際交流基金の影絵のチケットを譲渡してくれた時も、一度も先生が日本との接点に触れたことはありません。マレー半島での帝国陸軍は、ミセス・ダリーのいた村やインド系やマレー系に蛮行を働くことは皆無だったとも知りました。
認知力が乏しくなったミセス・ダリーに息子さん気付で手書きのお手紙を書きました。添削されて採点されて戻ってくるかもしれません。出来が悪い、と投げ返されるかもしれません。
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