國本康浩

小人閑居して不善をなす。

國本康浩

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最近の記事

改正健康増進法の「論理的な齟齬」について

 ここに、改正健康増進法に対する違憲訴訟で、東京地裁に提出した陳述書の一部を、若干の改訂を施した上で、公開する。  その目的は、今後のあり得べき、この法律に対する法廷訴訟の言説的なリソースとして活用して頂きたいからである。  そのためにも、この文書が活用するに値する内容になっていることを切望しているし、また、この違憲訴訟の趣旨については、次の文書をご覧頂きたい。  以下の文書が前提している全体的な法的戦略(例えば「なぜLRAか?」など)については、上記の文書の末尾にリンクし

    • 猪木へのレクイエム

       お恥ずかしいことに、子どもの時ならともかく、あろうことか、十代も終わり頃に至って、私は、実にアタマの悪い友人連中の影響でプロレスを見るようになった。  だが、その時には既に猪木は盛りを過ぎており、その次の世代(例えば佐山聡や前田日明など)に私の関心は集中した。  だから、猪木個人に、思い入れはない。  思い入れはないが、彼のシンボルとしての、イメージとしての巨大さには、当時から感嘆していた。  とにかく、そこには虚実が合体して、繰り返し「あの時の真実は?」とか、私たちのど

      • 今回の敗訴で「何か」が得られたのか?

         2022年8月29日、私が起こした「健康増進法違憲訴訟」の判決が東京地裁で言い渡された。  その主文は「原告の請求を棄却する」。即ち、敗北である。  しかし、問題は、その「負け方」にある。どのような判決内容なのか、ここに問題の全てがあるといっても過言ではない。  そもそも、違憲訴訟に勝訴するなど、戦後80年弱の司法史の中でも数えるほどの事例しかないのだ。  本稿では、今回の「負け方」について、核心的なポイントに絞って、自己評価を試みてみたい。  その理由は、東京高裁に控訴

        • パウロとペテロ 〜その抗争と死〜

           キリスト教史上最古の教会史家であるエウセビオスの『教会史』(講談社学術文庫・秦剛平訳)には、次のような不思議な一節がある。  古代キリスト教史に関心ある人であれば、誰もが、この一節には違和感を覚えるだろう。ここでエウセビオスは、アレクサンドリアのクレメンスの一節を引用しつつ、パウロがなじった相手は、あの「使徒ペテロ」ではなく同名の別人であると指摘しているからだ。要するに「あのパウロとペテロが口論などするはずはない」と(*1)。  だが、パウロ書簡「ガラテア人への手紙」の該

        改正健康増進法の「論理的な齟齬」について

          聖母マリア信仰と「中絶論争」

           奇矯な話に聞こえるだろうが、神学は、現代の政治に深い影響を及ぼし続けている。  一人の女、マリアの物語である  聖母マリア信仰は、神学的にはもちろん、政治的にも、実は複雑な構造を持っている。  この奇怪な信仰は、カトリックに特有なものであり、ほとんどのプロテスタントにとっては、ある種の狂信に過ぎない。  だが、この信仰が、奇妙なことに、現代アメリカの政治を左右する「中絶問題」の歴史的な背景を形成している。  19世紀後半から20世紀中盤にかけて、バチカン教皇庁は、このマ

          聖母マリア信仰と「中絶論争」

          大半は、うまくいかない

           成功したケースを、ことさらにアピールすることは、しばしば問題の大局を誤らせる。  それを「感動ポルノ」と呼ぶかどうかは別にして、貧困や障害の問題は、この種の誤謬に満ちている。  大半は、うまくいかないのだ。  だが、私などに言われるまでもなく、ほとんどの人は、この真実を、いわば直感的に感じ取っている。  だからこそ、人は、稀にしか見られないからこそ、この種の成功ケースに感動するのだ。  先日、八王子市の部長級と課長級との三人で話をした。  最近は「誰一人とりこぼさない社

          大半は、うまくいかない

          弱虫の話

           自分が、ウクライナ人だったとしよう。  私は、八王子でも有名な弱虫野郎である。  だから、周囲のみんなが地域防衛隊として軍に組み込まれ、銃を配給され、市民兵として意気軒昂になっていたとしても、どうも、居心地が悪い。  逃げ出したくて仕方がない。  しかも、現実の戦争の真っ最中だ。そのプレッシャーと恐怖は半端なものではない。  でも逃げることができない。  女性や子どもはともかく、男性は原則として国外脱出が許されていないからだ。  日本人だったらなあ、と私は夢想する。

          健康か? それとも自由か?

           現代の立憲主義は、ヨーロッパ近代初頭の苛烈な宗教戦争を経て、徐々に形成されてきた。  その要点は、お互いに相容れない多様な価値と多元性を認め、その間の公平な共存を図るための国家の枠組みを構築する点にあり、この意味で、現代の立憲主義とは本質的に自由主義的な立場を内蔵している。  現代の日本でも、例えば性的な多様性に関して、多元性に基づいた価値の公平な共存が図られようとしている。そこでは、公私の区別を前提にしつつ、非標準的な性的スタイルを生きる人は、たとえ彼らと相容れず生理的

          健康か? それとも自由か?

          「喫煙専用室」と制度設計の狡知

           非喫煙者には実に忌々しいことだが、改正健康増進法では「喫煙専用室」というものが認められている。  しかし、これは何だろうか?  私はずっと不思議に思ってきた。だが、この疑問に答えてくれる人に私は出会ったことがない。  本稿では、この「喫煙専用室」なるものに対して、その不可解さを析出してゆく。その過程で徐々に、改正健康増進法の背後にある本当の立法目的が姿をあらわすだろう。  まず、改正健康増進法には「経過措置」というものがある。詳細は、以下の厚労省のサイトを参照してほしいが

          「喫煙専用室」と制度設計の狡知

          「世界全体が敵」という感覚

           以下の文章は、昨年の秋、独り言のようにして書いたものです。  本来、この種の独り言は公開するべきではないと思う。だけど、一人の喫煙者が、かなり特殊な事例だとは思うけど「どのように感じてるのか」という点で、かろうじて、一つのサンプルにはなると思います。  タバコの問題は、私の生にとって、一つの「象徴」なのだと思う。悪い意味で。  街を歩くときにはもちろん、自宅にいてさえ、この息苦しさ。全身が押し潰されてしまいそうな圧迫感。  この世界が、全体として、私の敵なのだ。  人

          「世界全体が敵」という感覚

          「健康増進法」に対する違憲訴訟の趣旨について

           2021年9月10日、健康増進法に対する違憲訴訟を起こしました。  以下は、東京地裁での記者会見の席上、この訴訟の趣旨を説明するために読み上げた文章です。  いろんなご意見があることは承知しています。  また、マスコミ報道では(不可避ですが)意を尽くしているとは言いがたい部分もあります。賛成か反対か、どちらにせよ、一つの問題提起としてご理解頂ければ幸いです。  私たち喫煙者には、非喫煙者の方々に対して、実に長い「負の歴史」があります。  半世紀ほど前、現在から見れば驚

          「健康増進法」に対する違憲訴訟の趣旨について

          マグダラのマリアは娼婦だったのか?

          先日、ある知人は、次のように語り出した。 「マグダラのマリアが娼婦だったなんて、古代教会の誤った伝承に過ぎないんだよ」 愚かな私は、彼の話を最後まで聞かず、間髪を入れず、反問した。 「娼婦であることは、悪いことでしょうか?」  もちろん、話は噛み合っていない。  彼は、歴史的な視点から、古代の教会伝承の問題点を指摘したに過ぎない。だが私は、その点を無視して、一挙に、皮相な善悪論に論点をずらしてしまったのだ。  確かに、マルコによる福音書では、マグダラのマリアは「(イ

          マグダラのマリアは娼婦だったのか?

          戦時下に生きる - 市川房枝と吉田満

           戦後、公職追放となった市川房枝に次のような発言がある。  ある程度戦争に協力したことは事実ですからね。その責任は感じています。しかしそれを不名誉だとは思いません。例えば私の友だちなんかでも戦争になったら、山に入っちゃって、山でヤミのごちそうを食べていた人がいるんですよ。戦争が終わったら帰ってきて、私は戦争に協力しなかったっていう人がいるけど、私はあの時代のああいう状況の下において国民の一人である以上、当然とはいわないまでも恥とは思わないんですが、間違っているでしょうかね。

          戦時下に生きる - 市川房枝と吉田満

          「汝、これなり」/ジョージ・オーウェル『1984年』

           村上春樹『1Q84』ではない。本家本元、ジョージ・オーウェルの『1984年』である。  これほど慄然とする小説は、実に久しぶりに読んだ。  オーウェルの著作は『動物農場』や『カタロニア賛歌』をはじめとして『オーウェル評論集』など、これまでにもいくつか読んでいる。  その思考の骨太さ、物事の核心を引きずり出す腕力、理念的なことを語るときにも決して現実感覚を喪失することのない比類なき強靭さ。  特に「そんなことまで言っていいんですか?」と読む側にまで心配させるような彼特有の、

          「汝、これなり」/ジョージ・オーウェル『1984年』