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マグダラのマリアは娼婦だったのか?

先日、ある知人は、次のように語り出した。

「マグダラのマリアが娼婦だったなんて、古代教会の誤った伝承に過ぎないんだよ」

愚かな私は、彼の話を最後まで聞かず、間髪を入れず、反問した。

「娼婦であることは、悪いことでしょうか?」

 もちろん、話は噛み合っていない。
 彼は、歴史的な視点から、古代の教会伝承の問題点を指摘したに過ぎない。だが私は、その点を無視して、一挙に、皮相な善悪論に論点をずらしてしまったのだ。

 確かに、マルコによる福音書では、マグダラのマリアは「(イエスによって)7つの悪霊を追い出された」と記述されているだけであり「罪深い女(つまり娼婦)」と記述されているわけではない。
 この「7つの悪霊」を「7つの大罪」と結びつけたのは、古代の教会伝承に過ぎないのだ。
 第二バチカン公会議以降、カトリックでは、マグダラのマリアを娼婦とする伝統に、徐々に微調整が加えられ始めている。
 冒頭の知人の指摘も、このような動きを背景としているはずだ。

 だが、その時、私は、なぜ彼の言葉に感情的に反発したのだろうか?
 その場ではうまく表現できなかったが、私には、マグダラのマリアを娼婦ではないと指摘すること、つまり、正当にも彼女の「汚名をそそぐこと」には、それと引き換えに、何か大切なものを取りこぼすことになるのではないか、そう感じたからだろうと思う。
 だが、その大切なものとは何だろうか?

 陳腐なことを言うが、売春は、悪いことだと思う。
 無責任にも、人類最初の職業と持ち上げる人もいるし、そのような状況に至った背景には様々な事情があるにせよ、これを無条件によしとする人は、時代を問わず社会を問わず、おそらく存在しないだろう。
 その証拠に、もし、あなたの娘が売春をすると言い出したら、あなたは、どう思うか? あなたの、あらゆるリベラルな信条は、それとして。
 私自身、二人の娘の親として、考えるだに恐ろしい。

 だが、それでも問わざるを得ないのだ。
 売春は、本当に、悪いことなのか?
 それは回復不可能なほどの罪なのか?
 私たちの日常的な生活感覚や、ごく普通の生活人の視点からではなく「ある特別な視点」、つまり「イエスの視点」から見た時にもなお、それは本当に悪いことなのだろうか?

 ここで私は、いかにもキリスト教らしく「悔い改めさえすれば」などと、条件付きの話をしたいわけではない。
 そんなセリフは、司牧への責任を持つ聖職者の任務であって、私の任ではない。
 聖職者が何を言おうが、娼婦は、現実に、そこで生きているのだ。

 罪を自覚しつつ、状況によっては、その自覚さえ鈍麻させつつ、鈍麻させざるを得ない状況の中で、彼女らは懸命に生きているのだ。
 これを「地の民」と呼べば、そういった人々の中に分け入った人こそイエスではなかったか。
 彼こそが、彼女らを抱きしめんばかりにして「あなたの信じる心が、あなたを救った」と言い放ってくれたのではなかったのか。

 ルカ福音書には、次のような印象深い言葉がある。

「少しだけ赦された人は、少しだけしか愛さない」(7章48節)

 娼婦として生きている、そう生きざるを得ない境遇にいる女性にとって、このような言葉が一体どれほどの救いになるのか、それは凡庸な私には想像すらできない。
 これこそ「私は義人どものためにではなく、罪人のために来たのだ」というイエスの言葉と通底する衝撃的な、まさにイエスにしか語れない言葉ではないか。

 マグダラのマリアの「汚名をそそぐ」ことは、歴史的にも正当なことであり、しかも、私たちの日常的な倫理観を安心させてもくれる。
 だが、この程度の安心感と引き換えに、私たちは、罪深い(罪を犯さざるを得ない)状況の中にいる人への、とりわけ女性への共感と想像力を枯渇させることになるのではないか?

 もし、彼女が、この21世紀に甦ったとしよう。
 彼女に向かって、むしろ誇らしげに「あなたは、ようやく汚名挽回され始めましたよ」と告げたとしたら、彼女は何と答えるだろうか?
 おそらく、無言のまま、微笑むだけではないか。

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