見出し画像

フェミニズムと英文学と『源氏物語』(2)〜結婚・階級・セクシュアリティ〜

KUNILABO人文学ゼミ「『源氏物語』を読む」と人文学講座「フェミニズムと英文学──語り直される女たちの物語」2講座コラボスピンオフ企画「フェミニズムと英文学と『源氏物語』」座談会の第2回をお届けします。今回は『高慢と偏見』でリジーはなぜ最初ダーシーのプロポーズを断ったのかから出発して、植民地問題、『源氏物語』の「もののけのような語り」、アイデンティティとセクシュアリティの話まで話は広がります。
(画像:『源氏物語画帖』 所蔵:国文学研究資料館)

参加者:西原(日本文学者)、かおり(源氏、古文書受講生)、植村(哲学者/源氏受講生)、越智(米文学者)、河野(英文学者)、星本(高等遊民、源氏受講生)、ひつじ(源氏、英文学受講生)、大泉明日夫(小泉今日子さんのファン、源氏、英文学受講生)

【リジーはなぜ断ったのか?】
ひつじ: 話を戻してしまいますが、さきほどのブロンテのオースティン批判について。もし、本当に結婚しか考えてなくて、いい相手だけを求めている話が『高慢と偏見』なのだとしたら、最初にダーシーが、リジーにプロポーズしてきた時に断る理由がないような気がするんですよ。なんだそうだったの、この人ちょうどいいじゃん、と結婚してしまえばそこで片付いたのに、そこでやっぱり自分の気持ちを優先して、「いや受けたくない」とはっきり言う。その辺りが恋愛してるように私には思えたんですけれども。
植村: 今ひつじさんがおっしゃったところ非常に重要で、僕もあのダーシーの最初のプロポーズをリジーが断るところって、僕は一番感動するんですよね。あそこでリジーは泣くじゃないですか。だから決して上から目線で断ってるわけじゃなくて、だけどやっぱり条件で相手を選んでるわけじゃ全然ないんですよね。例えば、その隣のシャーロットがコリンズ牧師と結婚するって話を聞いて、リジーは非常に怒るわけですよね。だから、確かにシャーロット・ブロンテの考えているような命がけの恋愛とはちょっと違うかもしれないけど、やっぱり結婚相手というのは自分が納得できる人、自分が好きになる人を選ぶんだというところが、オースティンにはちゃんとある。だから僕はシャーロット・ブロンテは、半分は正しくないと思います。
ひつじ: なるほど。
西原: 私、あのお断りした場面はものすごくプライドが傷ついたんだなあ、と(笑い)。 やっぱり、階級意識が強いから、同じ紳士の身分なのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないのって怒ってますよね。いや、あれはあのおばさんに怒ったところでしたっけ。
ひつじ:リジーが負けずに口論した、上流階級のキャサリン夫人ですね。
植村: ダーシーも同じですよ。だってダーシーはあの時こう言いますよね。貴女の家のお母さんのようなああいう変な人が私の階級の中にいると結婚できないんだけど、でもあえて貴女に求婚するんだと。そうやって押しつけがましく言って、そこに反発するのがあのダーシーの最初のプロポーズのとこですね。次のキャサリン夫人が言ってくるところもまた反発するわけですけども。
河野: 読み込みすぎかもしれないですけど、ダーシーを断るあそこって見方によってはリジーの母親との関係があるともいえるかもしれません。リジーの母親はミスター・ベネットと結婚することによって階級上昇していて、その結婚による階級上昇の経験を娘にもさせようとしてるわけです。片方で、ある意味屈辱的な経験としてそれが経験されているらしいところもありますね。だから母親が娘たちに、いい男がいたら結婚しろ結婚しろって言うわけですが、プラグマティックな結婚による階級上昇という、まさにブロンテが批判したようなものを母親が象徴していると言えます。そういう母親のプラグマティズムを、否定したいという気持ちがリジーの中に多分あるんですよね。だから、明らかにいい相手なんだけどこいつは受け入れられないという感情が生じてるっていうような見方も、ちょっとひねくれた見方かもしれませんけど、できるかなあと思います。
かおり:ちょっと(宇治十帖の)大君に似てますかね、何となく。
西原: 母親のイメージだと浮舟のお母さんがそういう感じかなと思いますね。
かおり: なるほど。
ひつじ: なるほど。

【モダニズムと「もののけのような語り」】
河野: だからオースティンってリアリズムといえばリアリズムなんですよね。ブロンテはそれと比べるとロマン主義なんですけど、二人の文体の違いには、モダニズムまでつながるような違いが内包されているのかなという気もします。今日の『源氏物語』の授業の中ですごく面白かったのが、語り手が登場人物の中に入ってきちゃうというところがあったじゃないですか、「いとをかし」という。あれってどうなんでしょう。今ちょっとよく思い出せないんですけど、オースティンの語りだとそれはあまりないのかなという感じですよね。章の初めに明確な語り手が語って、で、台詞があってみたいなところは結構峻別されてるような気がします。その辺は僕が本来の専門にしてる20世紀のモダニズムだとかなり違うんですよね。モダニズムでは小説の語り手と、登場人物の頭の中で起こってる意識の流れが両方描かれてくるので、時々、英語のまま読むと別にふーんって読めてるのに、例えばそれを日本語に訳そうとした時に、一体この地の文で書かれてるこの文章は、登場人物の心の中なのかしらん、語り手の語りなのかしらんとというのが、全然決定できないような文章がいっぱい出てくるんですよね。源氏の語りの特徴はモダニズム的なところにまでつながっちゃうのかなみたいなことを考えながら聴いてました。
西原: そうですね、源氏がよくたとえられるのは『失われた時を求めて』なんですけども。西洋語だと人称のしばりが厳しいので、「意識の流れ」を実験的にやろうとしてもうまくやれなかったものが、源氏とか日本の古典だとなんかそんなに頑張らなくてもできてしまう、というところはあると思います。まあ、源氏の語りは私の師匠が「もののけのような語り」と言っているんですけど、「もののけ」みたいに出たり入ったりするという、そういう感じの語りです(注)。

(注)例えば、高橋亨「物語の〈語り〉と〈書く〉こと」『源氏物語の対位法』東京大学出版会、1982年
「女房のまなざしから登場人物の心中へと一体化し、さらにそこから連続的にぬけ出て、全知の視点にまで上昇しうる〈作者〉を、もののけに喩えてよいであろう」(226頁)とし、外部から登場人物の中に入り、再び離れていく語りのあり方を考察している。


河野: イギリスのモダニズム小説だと、フランスもそうかもしれないんですけど、本来主語が明確だったのが、自由間接話法ということによって、「I」って言っている主語が誰なのかがすごく曖昧になる手法が開発されたんですよね。その辺と親和性があったのかなっていうことと……
西原: そうですね。一時、源氏の研究でも自由間接話法に関する研究が、20年ぐらい前に流行ったんですが(注)、文法事項が苦手なので今一つ理解できていないです。
河野: あと、僕の専門のヴァージニア・ウルフは、『源氏』の英訳者のアーサー・ウェイリーも属したブルームズベリー・グループなので。直接の影響がありますよね、おそらく。

(注)端緒は三谷邦明編『源氏物語の〈語り〉と〈言説〉』有精堂、1994年だが、例えば、『国文学』2000年12月号「王朝文学争点ノート」でも争点の一つとしてとり上げられている(東原伸明「自由間接言説の本質とは何か:「移り詞」から「自由間接言説」へ」)。

【人が多い小説】
植村: オースティンを読んでいてやっぱり一つ感じるのは、人物眼っていうのが非常に鋭いということですね。例えば、リジーのお母さんなんか非常に滑稽に描いてますよね。で、リジーのお母さんって、さっきその上昇婚の話があったけども、少なくともお母さんに対して非常にこうネガティブですね。みんな誰もが欠陥を持っているというか。例えば、もともと『高慢と偏見』ってダーシーが高慢でリジーが偏見で、要するにリジーでさえもやっぱり自分の男性を見る目みたいなところが偏見があってよく見えないということですよね。だから、意外と、相手の男性が自分に恋をしてるっていうことが、当人によく見えていない。『エマ』もそうなんですよね。他の人はこうあいつとあいつをくっつけたら面白いなとか色々そういうことを考えるんだけど、誰かがその自分を恋してるっていうのは自分で見えてない。そこが面白いとこだと思うんですよね。
西原: 『高慢と偏見』には人間しか出てこないと思ったんですよね(笑い)。人しかいないと思って。でもテレビドラマ版観たら、犬がいたんですよ。犬どこに出てきたっけ、犬がいる、と思って。
植村: なるほど。
西原: 小説読んでいく限りでは「人しかいない」という感じしかしないんですよね。
越智: 私、それおおいに賛成します。人多いっ、と思いながら読んでいて。これが例えばヴィクトリア朝小説のディケンズなどだと、もっともっと人が多いのでしょうが、そういう多さとはまたちょっと違う気がします。人と人と人と人が、こう、ぐずぐずぐずぐず絡み合いながら結婚という形で最終的に調整されていく。だから、植村先生が先ほどおっしゃったように婚活小説だな、なるほどそうだなあと思いました。
私は実は、最初にジェイン・オースティンと『ジェイン・エア』を読んでいたのが、母が持っていた世界文学全集の翻訳なんです。でもジェイン・オースティンは大嫌いだったんです。なぜかというとやはり最初からお金の話だからなんですよね。それよりも主人公が、「私」の視点から私の思いを中心に展開していく『ジェイン・エア』のほうが小学校の頃には好きで、何回読み直したか分からないくらいです。
今回改めて本当に、40年ぶりぐらいにオースティン読んだんだと思うんですけど、案外面白かったんですね。それの前身とも言えそうな『パメラ』という小説の場合には、ダメダメ坊ちゃんにパメラが迫られて迫られて、だけども頑張って拒否していたらその道徳性ゆえに玉の輿に乗る...多分そういう話だと私は理解していますけれど、『高慢と偏見』はそうでもないですよね。つまり、半ばそういうところで調節をして、ちょうどいい釣り合いを見ていくというは、なんというのか、小説の作りとして賢くてあざといと思いました。で、もう一つ賢くてあざといなって思って、それでも結構好きだったのは、やっぱりみなさんがおっしゃっていた、リジーが断るところですね。多分いったんは断るというのは、冷静にプラグマティックに考えたら、ここで結婚してくっつくのが財産と財産がくっつくからちょうどいい釣り合いになるということだと思うのだけど、一回断ることによって、そういうことだけではない何かが立ち現れるのではないか。一瞬ロマンティックな恋愛にいきかけるようなとば口に立ってるのかなというのをちょっと感じたんですね。


 『ジェイン・エア』は最終的にはお金で解決されてしまうのですが、これ以降そうですよね、『小公女』などでも、おじさんの遺産が入ってくることによる解決が出てくるんだけれども、『ジェイン・エア』は本人がわかってない時には、自分一人で立ち向かっていくしかないんですよね。それでいうと『高慢と偏見』においても、階級や財力のつりあいを調整するようなそういうネゴシエーションの小説だなっと思いながらも、あの断るという一連の儀式があるために、単にそれだけじゃないロマンティックな恋愛に引き継がれていく何かがちらりと現れているように思いました。それがもしかするともっと派手な形になっていくと、『嵐が丘』とか『ジェイン・エア』とか、ああいう、死ぬほど激しい恋というものになってくのかもしれないなと思いながら読んでいました。

【ジェンダーから見る】
越智:今回初めて気がついたことがひとつあって。小山太一さんの翻訳で読んでいたのですが、一番最後に、要するにもう結ばれた二人が、二人の関係を復習するじゃありませんか。この部分は、現代の、いわゆるあのミルズ&ブーンのあのハーレクイン・ロマンスというロマンス本のシリーズに必ずお約束で入ってるんですね。最後2ページ。で、それの原型かなと思って。
一同: (笑い)
河野: なるほど。
越智: おーっと思いながら、今回初めて40年ぶりに読んだら気がついたわ...みたいな。
河野: 『ジェイン・エア』の場合断るのは上の階級の人じゃなくて、シン・ジョンを断って結局ロチェスターを選ぶっていうプロットじゃないですか。あれをどう理解するかと考えると、オースティンの場合の最初にいったんダーシーを断って結局戻るというのとはかなり異質ですよね。それはどうなんだろう。まあインドへのあのかなりスピリチュアルな、高邁なミッションに一緒に行くっていう、意識の高いのは断って、結局ロチェスターにいくっていうことですけど。
植村: やっぱりあそこではジェンダーに関わってすごく大事なことが表現されているとおもいます。あの牧師は確かにすごくイケメンだし頭もいいのかもしれないけど自分のことしか考えてないじゃないですか。つまり、独身の男子が、結婚しないで女を連れて行くわけいかないし、今度の任地には女が必要だと。現代のエリートサラリーマンが、アメリカとかロンドンに行くのに急いで結婚しなきゃいけないのとおなじで、結婚というものを自分が男性として職業人として生きていくために必要だから妻を手に入れるという、まったくそういう観点からしか見てないですよね。そこに非常に反発したんだと、僕はそういうふうにとったんです。
河野: それに加えて、やっぱり植民地へのミッションであるっていうところですよね。それを拒むっていうのをどう理解するかというレイヤーがもうひとつあるという気はしています。それと、この、ジェインの影たるバーサですよね、あの植民地の狂気の女のバーサの存在。彼女を抑圧することで、ジェインは女性主体を作り上げているというようなことが言えると思うんですけど、それへのある意味での補償行為(つまりバーサと植民地の抑圧という後ろめたさの解消)という見方もできてしまうなっていう気はしてるんです。
大泉: 今の話ですけど、確かジェインは、結婚するのは嫌だけど、一緒に妹とだったら行ってもいいって言ってたと思うんですよね。で、そこはどうでしたか。
植村: そう言ってましたね。
大泉: だからやっぱり植民地の話は、私は直接は関係ないのかなっていうふうに読みましたけど。
河野: ジェイン自身の意識としてはということですね。
大泉: そうです。そうじゃないでしょうか。
西原: 完全な感想なんですが、シン・ジョンはモラハラ夫になりそうだなと思います。すごい厳しいし、ジェインも一緒にいると息苦しいじゃないですか。
植村: 牧師でしょ。
河野: そうそう。
西原: これ、絶対今だったら、あのー、そういう奴だって思います(笑い)。
河野: まあ読んでるほうからすると「そっちいくなー!」っていう感じしかないっていうとこですよね。
西原: そうですよね。

【薫はダーシー?】
大泉: ダーシーを初め振った後、最後くっつくっていう話なんですけど、最初に嫌だったけど後でわりといいかなっと思うという点では、玉鬘が最初源氏のことを嫌ってたんだけど、まあ最後は結局髭黒の右大将と結婚しちゃうわけですが、なんかよくよく考えるとなんか源氏って良かったなーって、後で玉鬘が気づくことが確かあったと思うんです。なんかそこがちょっと似てるなと思いました。
西原: 『宇治十帖』の講座で植村先生がよく『高慢と偏見』の話を出してくださっていました。当てはめてみるなら、ダーシーが薫で、匂宮がビングリーのほうになると思いますね、多分。ただ、薫と匂宮だと匂宮の方が宮様だから身分が上で、『高慢と偏見』とは身分が逆転します。まあ二人とも高貴な貴公子ですけど。
大泉: ダーシーのほうが匂宮ですか。
西原: ダーシーのほうが薫ですね。
大泉: ダーシーのほうが薫...。
植村: もう一人のイケメンの、ビングリーじゃなくて、要するに、最初リジーが好きになっちゃったあの遊び人の男……
西原: あれは出てこないと思いますよ。
河野: ウィッカム。
西原: あれは出てこない。
植村: でも匂宮っぽくないじゃない、ビングリーって。
西原: でも、なんか明るくて、あんまりなにも考えなくて。
かおり: 身も蓋もない(笑い)。
西原: なんか、すぐ人を好きになっちゃうし。で、薫のほうが匂宮引き連れて思う通りにしてるじゃないですか。
ひつじ: あーほんとだ、そうですね。なるほど。
植村: そうですね。あの、性格のいいおぼっちゃまって感じですよね、ビングリーって人はね。そうそうそうそう。
西原: ダーシーはあんなお坊っちゃまなのに、なんでひねくれてるんですかね。
一同: (笑い)
西原: で、リジーのほうが大君で、(長女の)ジェーンのほうが中君ですよね。
越智: 今日読んで薫がぐだぐだなのがようやくわかりました。あーこういうことかー。
西原: めっちゃめんどくさいんですよ(笑い)。
越智: ややこしいー(笑い)。
植村: ほーんと人物がね、深く描かれ造詣されてますね。源氏読むとほんと感心しますね。
越智: 今のこじれてるっていう言葉で言うとちょっとかわいそうな感じ。なんかもうちょっと、でもねっ。
植村: なんとかをこじらせてるっていうね。そうそうそう。
西原: こじらせまくりって感じで(笑い)。

【妹三人の役割】
西原: 『高慢と偏見』はなんで下の三人が必要だったのかは私いまいちよくわからなくて。一番下のリディアはわかるんですけど、なんで五人もいるのかが謎で。
河野: 下の三人の妹たちは、あらすじ書いても必要ないんですよね。
一同: (笑い)
大泉: なんかキャラがそれぞれ立ってていいんじゃないですか。
河野: ドラマ版観てみると確かにね、名前さえ今思い出せませんけど、下の二人ぐらいが。あの眼鏡かけた……
大泉: そうそうそうそう。なんか三女(メアリー)もキャラが立ってたように思うんですけど。
河野: キャラは立ってるんですよ。でも、プロット上重要なことは何もない!
大泉: あー、プロット上は。
西原: 仲悪いし。
河野: なんか、わちゃわちゃしてるっていう感じを出すという。
西原: なんか恥かくためだけに必要だったのかなという感じ。
ひつじ: ダーシーに警戒されるために必要だった?
西原: 男の子が生まれるのを望んで頑張って子供作ったのねという感じしかしない(笑い)。
ひつじ: 当時のイギリスの、エリザベスぐらいのお家の人たちって、やっぱああいう感じで女の子が続いちゃうと男の子絶対欲しいって子どもを増やしちゃう傾向があったんでしょうか。そういう類型的な意味の家族ではない?
大泉: あれは何か相続の問題があるんですよね。
河野: そうです、そうです。あの、男子相続なのでやっぱり男の子を産もうとしたのはあるでしょうね。実際に五人姉妹とかがいっぱいいたかどうか知りませんけど。
西原: 上の二人と下の三人の間にすごい(教養の)格差があって、これなんだろうって、それが一番気になりました。同じ姉妹なのにと思って。
植村: そういう、相続の問題とか制度もおおいに関係してきますね。
 『ジェイン・エア』の場合もですね、結局、重婚になっちゃうわけで、頭の狂っちゃった奥さんがいても、あの直後に離婚できるようになったんですよ、確かイギリスは。だから、あの作品っていうのは、要するに、奥さんが頭がおかしくなっちゃった、でも離婚できないという時代の多分最後ぐらいですよね。
大泉: そうですよね。
植村: そういうことも色々作品の中に含まれていると思うんですよね。やっぱり結婚って一つの制度ですから。非常に複雑に他のそういうことと絡んでますね。
大泉: そうですよね。だから、ジェインは愛人であることを潔しとしなかったから出ていっちゃったわけですよね。
植村: そうですね、ええ。

【アイデンティティとセクシャリティ】
かおり:じゃあ、結婚の意味合いが今と違いますね。現代の視線で読むとちょっと違ってくるのかしらっていう気がしてくるんですけど、そういうことはないですか。
河野: つまり、読み間違えちゃうっていうことですか。
かおり: そうそうそうそう、そうです。
河野: まさに『ジェイン・エア』などは現代的な視点で読まれがちな作品なんですよね。現代の感性からすると、越智さんがさっきおっしゃったように、僕もそうですけど、まずは『ジェイン・エア』のほうが「私」というものがちゃんとあって、入りこんで読めるという感じがする。オースティンの世界は、ちょっと実際的すぎるな、お金の話ばっかだなあみたいな感想をまずは抱くのが自然な感じがします。でも、『ジェイン・エア』に関して現代的な主体を前提に読んでしまって見えなくなるものがいっぱいありますね。要するに階級とかお金の問題がちゃんとあるってことですけども。近代的主体を前提するとそういうものが抜け落ちるってのは確かにあるかなと思いますよね。結婚に関してもそうですけど。
かおり: やはり自分の今の視点、自分の置かれてるところから作品に入っていった時に、入りやすい見方で小説を読んでしまうっていう。
河野: でもその一方で、『ジェイン・エア』は全く現代的な感性とかけ離れてるかというとそうでもなくて、やはり、今、我々が持ってるような個人の感覚みたいなものをちゃんと出してるから現代的な視点で読めるんだとは思うんですよね。そこは二面性がちゃんとある。『源氏』はどうなんですか。
西原: 現代的に読まれてしまうことはありますね。恋愛の話としてね。
河野: そのように簡単に読めますよね、結構。
西原: だと思いますね。でも、多分私はアイデンティティとセクシャリティが結び付いてない時代の感覚っていうのは現代人にはちょっと理解しにくいのではないかと思っているんです。私は女三の宮をアセクシャルな人物としてずっと読んでいるんですが、女三の宮は自分のセクシャリティなんて悩まないんですよね。それだけではなく、『源氏』の登場人物は誰も自分のセクシャリティについて悩まないんですよ。必ずしも全員ヘテロではなかっただろうと思いますが、多分セクシャリティがそこまで大事ではなかった時代なんだろうなと思います。
河野: 感覚的で申し訳ないんですけが、セクシャリティについて疑問を持たない、プラス、説明もしてくれない感覚はすごくあるんですが、説明してくれない感覚がある以上、同時代的にはある種のセクシュアリティについて、「あーあれね」って分かるみたいなものがあるのかなっていう印象を持ってるんです。すごくぼんやりとした印象なんですが。
西原: あー、どうなんでしょうね。「あーあれね」って、うーん、どうなんだろう。まあ、あるのかもしれないですね、ぼんやりとは。あの人はちょっと変わった人だからみたいな感覚はある程度あるのかもしれないですね。
河野: なるほど。
大泉: その、女三の宮は男性になにも興味がないというふうに描かれているということですか。
西原: まあ、女三の宮が関わりがあったのは、柏木と源氏だけなんで……
大泉: そうですよね。
西原: 何とも言えないんですが、女三の宮は少なくとも柏木も源氏もあんまり好きじゃないなという感じで、子どもが生まれても(出産が)気持ち悪い気持ち悪いと言っている。たしかに、源氏の場合は、結婚の当初は嫌がってないんですけど、でも執着され始めると嫌になる。柏木は最初からすごく女三の宮のことが好きで、密通しちゃうので、女三の宮の方はもう嫌で嫌でしょうがないという感じで、結局、最終的に誰のことも好きじゃない。
大泉: うーん、あれはその後も一応密通は続いていたって形で読むんですか。僕は、一回っきりかなと思って読んだんだけど。
西原: いやいや、何回も忍んで行って。柏木、我慢できなくなって忍んで行って。柏木が来るたび、女三の宮は嫌だったという。
大泉: あー、嫌々ながらってことだったのか。
西原: なんかアセクシャルな感じがするんです。源氏が結婚してすぐの時に女三の宮にすごくがっかりしてるんですね。で、すごくがっかりしてる時の描写が張り合いがないとか、衣装の中でこうなよなよとしてるだけっていう。言ったことはそのまま聞くけど、なんかなよなよしてるだけと感じなので、そういう感じの身体感覚が、内側から見たらアセクシャルな感じなんじゃないのかなと私は見てるんですけど。
大泉: あーなるほど。
西原: あの、男から見て張り合いがない感じが。

第3回に続く)

KUNILABOの活動、人文学の面白さに興味や共感いただけましたら、サポートくださいますと幸いです。