見出し画像

かりんのかんづめと青空 ~人気噺家の火焔太鼓~ 

(※note創作大賞に応募するため、過去に掲載したエッセーを合わせて再掲載したものになります)




 出囃子が流れ、拍手がなると客の待っていました、という表情が寄席に広がった。

 噺家は、拍手を聞きながら高座に出ると、おもむろに座布団の上に座り、両手を付いて頭を下げ、ゆっくりと語り出した。

「ええ、商売となりますとこれが優しいなんてものはないですね。どんな商売でも、コツってぇのがあるようで。まぁくずやさん辺りも、面手を気楽に流しているようですが、あれでなかなか気を使うようですね。あまり大きな声で呼ばれた時は、儲けがないそうで。小さな声で『くずやさん』と呼ばれる時には、思いがけなく掘り出し物が・・・。そういや最近は、他人さまが使用したものを、再び販売している。セカオワ?違う違う、セカストってぇのがある。昔だって、そんな商売がたくさんあったんですよ。古道具屋さんって、使用品を販売するなんて事は、常だった」

 噺家の表情が変わり、女性のような仕草をして見せた。
「・・・ちょいと!あんた、また、こんな汚い太鼓を手にして来て。こんなの売れないよ!」
 仕草は変わり、男らしい目つきを見せた。
「なんでぇ、お前、この太鼓の良さがわからねぇのか」

 噺家のその姿に、常連客はニヤリと口角を上げると、隣の知人に言った。
「おおう、火焔太鼓はこいつの十八番だよ」
 お客は、噺家の十八番が聴けると興奮し、枕に聴き入っていた。

「ところで、北の寒い地域に、冴えない“かりん”という名の女がいたそうで。江戸っ子な私からすると、かなり遠い地域の、田舎者だ。噂によると、そこは熊がよく出るってぇんだ。そんな所で生きていられるなんて、強い女だけに違いない」
 お客から笑いがもれた。

「その“かりん”とやら、物書きとして大成したいと日々、精進していたようだが。これが、器量も良くなけりゃ、子どもの頃はのんびり屋で、おっかさんに心配ばかりかけていたとか」

 すると、噺家は少し上を見上げて、何か思いついたように笑った。
「そうだ、今日の話はここにまとめてあるんでぇ、すべて刷ったものを見てもらえますかね?」
 そう言って、手元から用紙を取り出し、ひらひらと動かしている。

 寄席のお客は、噺家の斬新な提案に驚き、騒めいていた。印刷された用紙は、客の数だけあるのか、かなりの枚数だった。

「いやいや、これから、大好きなアイドルの生配信が始まるんですよ」
 そう言うと、噺家は舞台からお客へ向かって、その紙をバケツの水を撒くかのように手放した。印刷された用紙は、ひらひらと、空中に舞う。

 客は、驚きながらも綺麗に舞う紙を見て、気持ちとは裏腹に見とれていた。

 その隙に、噺家は嬉しそうに駆け出し、颯爽といなくなった。

 「おいおい、どういう事だよ!」
 客は、騒めきながらも、その紙を急いで拾い上げていた。


 という事で、お客さん。
 人気噺家の落語ではなく、大変申し訳ないのですが。ここから、無名の“かりん”のお話を、どうか聴いてやってください。


~かりんのかんづめ~


 子どもの頃、小学2・3年あたりだったかと思う。
 私にとって、「ちびまる子ちゃん」は大事な存在だった。ちょうど、りぼんで漫画の連載が始まったばかりだったような。
 テレビアニメでも放送されていたけれど、漫画の1巻から3巻あたりでは、後半に必ずさくらももこ先生の思春期時代や社会人になりたてのOL時代など、特別なおまけの物語も載っていた。

 ちびまる子ちゃんとはまた違った味のある内容で、甘酸っぱさや、若かりしももこ先生が社会に適用しきれないけど人間性の良さでたくさんの人に支えられる姿に、まだ味わったことのない感情やときめきを味わうことが出来た。


 いつしか、ちびまる子ちゃんを読み終わると、なんだかまるちゃんは私に似ている気がする・・・。
 そう感じることが多くなった。
怠け者で、忘れものが多くて、学校の成績やスポーツで活躍するでもなく。
 だからと言って卑屈になることはなく、陽気に明るく元気な姿が、自分と重なって、肯定してもらえているような気がした。


 のんびりした性格なのは、なんとなく気づいていた。
小学1年生だっただろうか、帰りの会で担任の先生が「~なので、明日は何も持たなくて大丈夫ですよ」と言ったように聞こえた。

 へぇ、そうなんだ。なんでだろう、・・・まぁいいか。

 翌日、母はランドセルを持たずに学校へ行こうとする私に、心配の声をかけていたような気がする。

 学校に着き、手ぶらで教室についた私はとても悲しい気持ちになった事を覚えている。

 何も持って来ていない、そんな子は、誰ひとりいなかったから。     

 完全に聞き間違えた、いいや、別のことを考えて聞いていなかったのだと思う。

 その日、どうやり過ごしたのかは覚えていないけど、どうしてこうなってしまったのかと落ち込んだことだけは心に残っている。
 そして、母が心配していたこともなんとなく。

 だけど、当時のクラス写真を見ると(班ごとに撮る5・6人の写真だったはず)、楽しくてしょうがないという笑顔で思いっきり手を挙げて映っていた。他の子と比べると少し浮くくらい楽しそうに(笑)

 担任の女性教員は、何かと私に目をかけてくれる若いお母さん、というような素敵な人だった。クラスメートたちも皆、仲が良かったことを覚えている。

 それ以来、ランドセルを持たずに学校へ行く、という荒行はしなくなったけれど(笑)
4・5年生と学年が上がると、通信簿には何度も“かりんちゃんはまるで自分の世界にいるようで、何か他の事を考えています”とよく書かれたものだった。
 母は、「また書かれてる」と笑っていた。

 理解も遅く、女の子特有の嫌味を言われることや嫌がらせを受けても、すぐに気付くことが出来なかった。
 今でいう、マウントの取り合いには、お馬鹿過ぎてならなかったのだ。

 そして、家に帰ってから気づいて、嫌な気持ちになるのだけど。数分するとすっかり忘れて、翌日には、友人たちを笑わせようと、その子の前でも、ちびまる子ちゃんの物真似をしていた記憶がある。口を尖らせて「おっぴきぴのぴー」って。

 なんて、不憫!!のんびり屋で、お馬鹿ってすごく不憫!!

 そういえば、2・3年生だっただろうか、バレンタインデーのチョコを友だちと3人で作ることになった。 
 初めての、そのようなイベントにウキウキした。

 我が家は、恥ずかしながら裕福な家庭ではなく、誕生日のお祝いもサンタクロースの訪問もない、という家だった。

 裕福な家庭のあなた。え、ヤバい!って思います?大丈夫です、またゆっくり貧乏エピソードをつづります。

 そんな中、チョコレートを買うお金をどう用意したか。
 確か、なけなしの月200円のおこづかいを、なんとか使わずにとっておき、そこから出したはず。
 3人でチョコを買い出し、調理をし冷蔵庫に入れ、あとは固まるのを待つのみ。
 友人宅で作ったため、完成チョコは後から届けてくれる、とのこと。
 数日しても、受け取れることはなく、忘れかけていた頃。その友人が家に来た。
「Aちゃんには、チョコ渡したけど(もう一人の友人)、かりんちゃんはごめん、数が足りなくて」
 そう言って帰って行ってしまった。その言い方は、強気で、まるで私が悪いかのような言いぶりだった。
「え・・・、どういう事?」
その声は彼女には届かず、つかつかと行ってしまった。

 完成チョコが見られないこと、なけなしのおこづかいがなくなった事も、何も言い返せない自分にも悲しさがこみあげてしまった。

 当時の母は、そんな私を心配したに違いない。

 そんなのんびり屋の私も、今となってはスーパーのお惣菜コーナーで、店員さんが割引シールを貼り出す姿を見たならば。手元の総菜を瞬時にもどし、シールが貼られるまで店員さんの視界に入らないギリギリの場所で待つ。
 そして、お目当てのお総菜にシールが貼られた瞬間にダッシュで近づき、息を整え、艶やかにかごの中へ入れる。
 なんて事が出来るまでになっている。

 母よ、憂うことはない。
 娘は強く成長します!!図々しいほどに。


 当時からもう少し大きくなると、さくらももこ先生の「もものかんづめ」「まるこだった」「たいのおかしら」など、エッセイ本を図書館で発見した。
 表紙もとっても可愛い!!

 よく泊まりに行く、従姉のお姉ちゃんの部屋にもあることに気づき、お願いをして、むさぼるように読んだのを覚えている。

 これが、なんと全部面白い。



 何も知らない、子どもだった私も大人になり、おばさんになった。

 ももこ先生にいただいた、あの楽しい時間を、恐れ多くもつぎは自分が、誰かの楽しい時間の一つになったら嬉しいなと思う。



~研ナオコだった~

 私には、3つ年下の弟がいます。小さな頃に2人で喧嘩をすると母から決まって「2人しかいない姉弟なんだから仲良くしなさい!」と叱られていた。

 子どもの我々に、その言葉は、心に刺さらなかった。

 一人で構わない、一人っ子ならおやつを一人占めできる・・・と。

 卑しさ極まりない。


 その弟が先日、結婚をしました。
 なんと10歳近く年下の可愛い女性と共になったのです。


 姉としては、安心した気持ちと、これから良い家庭を築けるか心配なところ半分です。

 弟との想い出は、すべてお笑い番組だった気がします。

 北海道は、関西や関東とは違ってお笑いライブや寄席なんてものはなく、しかも私の地元は度がつくほどの田舎でした。

 時代的にも、ネットを使うようになったのは、高校生くらいからなのでそれまでの情報はほとんど、テレビが主でした。

「ダウンタウンのごっつええ感じ」
「笑う犬の生活」
「生活笑百科」(唯一、家族も大好き)
「ボキャブラ天国」
「めちゃイケ」
「はねるのトびら」
 そのほか、ウッチャンナンチャンやとんねるずの番組も必ず二人で見ていました。
(個人的には、NHKの伝説番組「オンエアバトル」が最強です)


 コントなどで、ツボにはまったものはその週に何度も二人で真似をする。 

 ダウンタウンのごっつは、エキセントリックボーイの歌真似が楽しかったなぁ。
 笑う犬は、葉っぱ隊の真似ばかりしていました。(見たことのない世代の方は是非YouTubeで)

 喧嘩なんかもよくしたけれど、お笑いのツボは、ほぼ同じ。


 私が高校生となり、弟が中学生になると遊ぶことはなくなったけど、特に仲が悪くなる、ということもなかったです。

 弟と私の部屋は2階で、なぜか弟の勉強机だけは最初の頃まで1階のリビングにありました。

 ある日から、机の上に何やら弟らしからぬ可愛いノートが置かれている事に気づき。

 聞くと、クラスの子と数人で交換ノートをしているとのこと。
 その交換グループが、2つあり、学校でおきた出来事やなんでも書いて次の人に渡すというもの。

 中学生が、何を書いているんだろう。
 書いている横からチラっと見ると、字が汚すぎて何が何だかわからない。


 弟が寝室の2階へ行くと、母に「この交換日記知ってる?」
「ああ、A・B君とC・D・Eちゃんとしてるみたいね」
「ちらっと見てみたら怒るかな」

 母は、「えええ、どうだろうね」とニヤニヤしている。
 気持ちは同じようだった。

 私は、興味本位と理性の両方でせめぎ合った。    
そう、せめぎ合ったのだ、ということは、ここに書き残しておきたい。

 しかし、興味本位に負けてしまった。

 母とこっそり見てみた。

 弟の内容は、「つぎの体育がだるい」「先生が嫌だ」など、交換する必要のない内容ばかり書いていた。


 女の子は、さすがで字も綺麗だった。今日の出来事やお休みの日の出来事を書いていたりと交換する意味をなす内容が書かれていた。

「ねね、CちゃんてB君が好きなんじゃない」
「いやぁ、どうだろうね。うちのはなんか字が汚いね」
 夜な夜な、勝手に読み上げる行為は、幾度か続いた。


 今思うと、本当にひどい話だ。


 その変わりと言ってはなんだが、弟の結婚式で姉は、母の代わりに必死に親戚交流を頑張った。

 普段、家にいることが大好きで、警戒心の強い私が。

 アンミカさんばりのコミュ力で頑張った。
「どうもぉ、姉のかりんですぅ。本当にお綺麗なお嬢さんで」
 相手のお兄さん家族の席にも行った。
「初めましてぇ、今後ともどうかよろしくお願い致します。親戚の方々も、皆さんお綺麗な方が多いんですねぇ。え?いやいや、我が家はこんなで申し訳ないですぅ」
 手を振り、首を振り。

 もう、周りにはアンミカさんに見え始めていたんじゃないだろうか。
「このお着物、綺麗な黄色に見えるやろ?これ、なんと黄色ちゃうねん、白やねん。白って、100種類近くあんねんで!」って、自分の着物について、道民なのに関西弁で語ってもおかしくないくらい。



 ホテルに帰ると、鏡に映った自分を見て驚いてしまった。 


 化粧が落ちて頬もコケたその顔は、アンミカさんではなく、すっぴんの研ナオコだった。

 罪なんか犯すものじゃない。
 数年後、必ずそのしっぺ返しはくるのだから。


 弟よ、本当にあのときはごめんね!
そして、幸せな結婚おめでとう!!



~奇跡の新聞社内定~


 私は、約3年の高校家庭科教員生活を終えると、海外留学をするか就職活動をするか考えた。

 気づくとすでに26歳だった。

 一時期、留学したいと考えていたけれど、若さに任せて3年間、仕事にパワーを捧げ過ぎて、行く気力がなくなっていた。
 とりあえず、田舎の学校に勤務していたので札幌に出て仕事を探すことにした。

 考えたくないけれど、アラサーという言葉が目前に迫っていた。バリバリ働くよりも、ゆっくりと働いて、自分の時間なんかも欲しい。
 お給料は安くても構わないから、残業をしなくて良い仕事をしよう。

 大学を出る時、やりがいのある仕事だと張り切って20代のエネルギー全てを生徒に捧げ、本当によく頑張ったし、振り返り思い出すと充実した日々だった。

 ・・・とポジティブな反面、辞めた頃には実年齢より5歳ほど老いた気分になっていた。

 求人に正社員で残業なしは事務が多く、事務系の資格がない私は経験者や資格のある人に勝てる訳がなく、履歴書で落ちた。

 やむを得ず、色んな所に履歴書を送り面接まで行ってみた。怪しい介護製品の営業、面接日に担当者が忘れて不在と言うウェディング会社。


 徐々に、就職活動へ不安を覚え始めた頃、良い求人を見つけた。
 お給料は今までの求人よりずば抜けて良かった。正社員、勤務時間も希望通り、仕事は・・・。

 新聞社の編集部・記者と書かれている。

 うわぁ、また忙しくなりそうな予感。一気にやる気が失せてきた。

 だけど、背に腹は代えられない。履歴書をすぐに送った。当時、1月から3月までの短期で児童会館の臨時職員として働いていた。
 この3か月で就職しようと考えたが、よく考えると結構な就職氷河期だった。

 すでに札幌でアパートも借りているし、車も持っていたので、貯金が底をつく前に、何としても仕事につかなくてはいけない。
 携帯電話に連絡があり、出るとあの新聞社からだった。履歴書が通ったとの事、試験と面接日についての連絡という事だった。 

 ダメ元で送ったのでかなり驚いた。そして、再び大変な仕事になるかも、と憂えた。

 聞くと、最初の試験の日が児童会館の仕事と重なっている。試験時間の半分しか出られない。

 これを言い訳に断ろうと考えた。
「行きたいのですが、児童会館で臨時職員をしておりまして。試験の途中で仕事に行くため、抜けなくてはいけません。ご迷惑をかけたくないので、今回は辞退が良いかと」
 よし、これで不安要素が消える。

 電話の向こうの優しい声をした、おじさんは言った。
「いやぁ、実は今回の応募は150くらいあったんだよ。その中で通ったのが5人でね。だから、途中で抜けて良いから来た方が良いよ」。
 断るのが苦手な私は「あ、わかりました。行きます」と答えていた。

 会社へ行ってみると、自社ビルだった。それがまたプレッシャーとなり、やる気を削いでいった。

 試験はペンが進まず、終わって帰る頃には、落ちる気しかしなかった。

 数日後の面接は、お休みだったので問題なく参加が出来た。
 最後くらい頑張ろうと、よくある面接内容を何度も練習して行った。なぜこの会社を選んだか、長所・短所、これまでの経験から得たもの、自分が御社に勤めて貢献出来ることは、などなど。

 私は、5人のうち最後の面接だった。
 この日、睡眠もとれており、すこぶる調子が良かった。
 順番となり、部屋へ入ると立派そうな二人のおじ様がいた。眼鏡をかけて長身の優しそうな方が右側に、白髪で目の大きなオーラのある少し小太りな方が左側にいた。
 白髪の方は「おお、女の子は君だけだな」と言い、世間話を始めた。

 話は止まらなかった。私は目を見て頷き続けた。
 白髪オーラ高めのおじさまは、隣の長身おじ様に「なぁ、北や南にもビルあったよな、最近はあっちの方が調子良いのか?」など話を振っていた。
 私は、真っすぐにその方を見て「ええ」「はい」など特にバリエーションのない返答をしながら、表情だけは色々変わっていたような気がする。
 饒舌なトークはその後も続いた。

 用意した面接の内容を一度も振る舞うことなく、おじ様は最後に「君、目が良いね」と言ってくれた。

そして、「ところで、試験の結果ね、実は君が一番悪かったよ」と言った。

 ・・・やっぱりか。

 テーブルの上に置かれた答案用紙をチラっと見ると、70点代、80点代と並び、最後に40点代が見えた。私のものだった。
 ・・・もう終わった。


「君の大学の先輩がうちにいて、活躍している。今日来た男たちは、なんだか骨の無い奴が多かったな。君はいつから来られるの?」
 私は4月からであることを伝えると。
「おう、4月だな。うん、丁度良いな。あとは部長が聞いておいて」
 そう言って、颯爽と部屋を出て行ってしまった。

 すると、長身のおじ様である部長は「今の方ね、取締役だよ」と言い、カレンダーを確認した。 

 取締役!!人事とかじゃなく?!
そして、笑顔で「君に決まったって事です。4月からで大丈夫かな?」


・・・奇跡とはこの事でしょうか。人生何が起こるか分らない。


 そこから、足掛け5年。ポンコツな私に、函館転勤も経験させて頂き、文章の書き方も、もちろん学ばせて頂きました。全て今に繋がっています。


 人生はどこでどうなるか解らないなぁ。

 これからだって、お婆さんからデビュー・グラビアアイドルとか。宇宙でカフェ経営とか、「いやぁ、老後に宇宙移住してカフェをやるなんて思ってもいなかったわよ!毎日、とても楽しいわ」。

 なんて笑顔で取材を受けているかも知れない。




〜幸齢者な人~

 私は、20代まで正社員でいわゆるバリバリ働く日々でした。出来損ないだったけど(笑)。


 紆余曲折あり、今はコールセンターで契約社員として楽しく働いています。スマートフォンの操作を案内するのが主なお仕事です。


 毎日たくさんの方とお話をするので、そんな人が本当にいるの?という出来事も多々あり。

 ほっこりする事もあれば、卑猥なお客様、困り過ぎてこちらも困ってしまうお客様、お怒りが止まらないお客様、と思い出すときりがないくらい。

 今は、コロナの関係もあってか、二つ折りからスマホに機種変更した高齢の方からの問い合わせが多数をしめており。

 問い合わせは、メールの送り方や初めてのLINEなどが多いです。
 意外と「Instagramのストーリーで情報を発信しているけど、画像を小さくしてから載せたい」という方や、「YouTubeでいくつか動画をだしているが、1つだけ自分のみしか見られない状態になっている。公開範囲を全体公開にしたい」なんて相談もあり、そのアクティブさに驚いてしまう。

 お話の最後に、お客さまのアクティブさを讃えると「私、もう70代よ」や80代という声を聴くことがあるので、これはもう驚くというより、なんだか希望になってくる。
 何歳になってもチャレンジって出来るんだな。

 とは言え、一番多いお問い合わせは携帯電話の音が鳴らないというもの。
 携帯電話は鳴るのに、LINEの音だけ鳴らないという方が多く。ただの不具合で再起動でなおったり、LINEだけ音が鳴らない設定にしていた、という事だったりする。
 お客様からすると、何時間も自分で挌闘してもダメで、くたくたになって仕方なく電話相談。ちょっとの操作ですぐに解決、という方も多いようで。
「すごく大変だったの」と泣きそうな声を出して喜ばれる事も。

 あまり多くを語らない固そうなおじい様が、解決後に「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と3回も言ってくれた時には、とっても嬉しい気持ちになる。
 それだけ、ご自身で解決できずに困っていたのだとも感じる。

 「わからなくて申し訳ない、忙しいのにすまない」という一言を添えて質問する方は多く、高齢になると皆さん丸く謙虚になるのでしょうか。
 中には、頑固すぎてお話を聞いてくださらないおじい様もいるもので。
「本当にそうなのか?信用できないぞ、お前大丈夫か」

 こっちはプロでっせ!毎日やってまっせ!という思いは置いておき、「ご不安なお気持ちは理解致します。どうかご安心ください」
と伝えて案内するしかない。
「おいおい、本当に大丈夫なのかぁ」

 人に騙されることの多い人生だったのでしょうか。
 少しのお話の中でも、その方の長い人生で培った一部が伝わってきてしまうもので。

 まだまだ半人前の私は、そんな事を言われるとフツフツと沸き始めた怒りの感情を、抑えなければいけない。
 心の中で『相手はサザエさんの波平さんと同じだと思うんだ。毛が一本しかないんだから、そりゃ暴言だって吐きたくなるさ』と自分に言い聞かせる。

 高齢の女性2人から届いたお電話は、なぜかほっこりする時間でした。
 なんの相談かは忘れてしまったけれど。契約者と友人の2人でスピーカーモードにして、こちらに電話くださった様子。
 お話の最中に「あら、あんたのカバー可愛い」
「これ?ほら商店街のあそこにあるやつ」
「ああ、あれかい。あそこさ、くふふ。この前行ったよ」
「本当かい。くふふ、いつも行ってる」
「いやだ、本当に。お店の店主がまたね」
 そう言って、2人で爆笑していた。
「あ、あのう、お客様?お話して大丈夫ですか?」
「あらいやだ」
 そう言ってまた2人で爆笑。
 なんてことない話で、ここまで爆笑できるなんて。なんて幸せな人生なんだろう。

 その後も、何度か、いや何度も、お2人で違うことで話が盛り上がり出し、笑い合っていた。
 どこまでお話に踏み入って良いものか、操作案内もなかなか進まない(笑)

 こちらが幸せな気持ちになるような仲の良さでした。

 まさに、高齢者ではなく幸齢者。

 時間の余裕、お金の余裕、心の余裕、と余裕があればあるほど相手に嫌な気持ちを与えず、それどころか幸せな気持ちを広めることが出来るんだな、と多くの方とお話する中で日々感じます。



 かく言う私は、残念ながら、
 ・・・まだどれもない!!

 まいったなこりゃ。


 次、コールセンターに対して怒りを放つのは、私かもしれません(笑)




「すまねぇ、すまねぇ!」
 噺家は、どうやら生配信を堪能して、帰って来たようだった。
 客は、噺家が投げ飛ばした紙をじっくり読み終えたばかりだったが、まさかもどって来るとは思わず、驚いていた。

 座布団に座るとにっこり笑い、羽織りの紐を緩めながら、落語を続けた。
「その、かりんて奴の話はどうだったい?」
 噺家は、顔をしかめた。
「いやぁ、まるで火焔太鼓の甚兵衛みたいに、呑気なお調子者だね。クスリとまではいかないけど、ク・・・まではいったかねぇ」 
 噺家はおどけた表情に変わった。
「・・・なんでぇ、それじゃあ、なんの効果もないじゃないか」 
 すると、眉間に皺を寄せ、声をあげた。
「おいおい、その薬の話じゃないんだよ!」
 客から、笑いが広がった。

「呑気者で調子が良いのかい。もしかして、甚兵衛みたいに古道具屋の太鼓でも持っていたりするのかね」
 腕を組みながら言った。
「・・・それは知らんが、もう世間で言うアラフォーらしいぞ。うわっ、俺は若いのが好きなんだよ、年老いた女は、ばっちーんだ。おい、旦那、そんな酷いこと言う奴は、罰が当たるぞ!」

 客席から、笑いと共に大きな拍手が響き渡った。噺家は、両手をついて頭を下げ、何度も感謝の言葉を口にしていた。


おしまい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?