背徳純愛小説『藍に堕ちて』第六話「出逢い」
藍華はその日の帰宅後、綱昭に旅行のことを伝えた。
思った通り彼は快く了承してくれた。普段ならテレビにしか向けない顔を藍華に向けて、笑顔まで浮かべている。
「行ってもいいの?」
「後輩の誘いなら断れないだろ。俺のことはいいから楽しんでくればいいよ」
楽しむのは自分だろう、と嫌味が飛び出そうになる喉にぐっと力を入れた藍華は、いつから自分はこんな考え方をするようになったのだろうと内心悲しんだ。
ただの言葉をいちいち勘ぐらなければいけないのは心が疲れ、性格がねじ曲がっていく気がする。
藍華はいつにも増して上機嫌になった綱昭に「ありがとう」と告げて、自分は彼とは時間をずらしひとりで食事をとった。
そうして二週間が流れ。
綱昭から知らない香水の匂いがしたり、帰宅が遅かったりするのをどこか他人事のように見ながら藍華は日々を過ごし、ついにその日を迎えていた。
有給は十月十日から十二日まで。
二泊三日の徳島旅行である。
もちろん裕も一緒だ。
今は藍華の会社は繁忙期を過ぎ閑散期に入っている。そのため二人一緒でも有給が取りやすかった。
二人は朝一番の飛行機で羽田から四国・徳島へと飛んだ。
到着したのは八時三十分。天気予報は晴れ。
座席の窓からは清々しい秋晴れの空が広がっていた。
藍華が飛行機を降りて一番に感じたのは『空が澄んでいる』だった。
広く、まさに蒼穹というべき透き通った空は空気までもが清々しく、馥郁たる秋の香りが肺の中をすべて洗い流してくれる気がする。鮮明に見える山の稜線は赤や橙に彩られていて目にも鮮やかだ。
「あー! 地元って感じするー!」
朝日が差し込む硝子張りの到着ロビーで、裕が全身をほぐすように伸びをして言った。
彼女の声音には職場よりも数段気の抜けた気配がある。
やはり育った土地というのはその人の心を緩めてくれる作用があるのだろう。
(わ……綺麗。これ、藍染なのね)
ターミナルビルは比較的こじんまりとしているものの、まだ建築されて新しいのか綺麗で明るく、天井から垂れる色鮮やかな藍染の大きな飾り布が藍華達を出迎えてくれた。
上階へと上がるエスカレーター横の壁には巨大な阿波踊りの陶板画が広がっており、違う土地に来たことを強く感じさせる。
途中『お遍路さん休憩所』の看板もあり、流石徳島らしいと藍華は関心した。
「裕ちゃんが田舎っていうから、もっと山とかばかりなのかと思ってたけど……空港もすごく綺麗でお洒落だし、あの藍染の飾りだってとっても素敵だわ。それになんだか温かい感じがする」
「あははー。まあ、すぐ田んぼと山ばっかになりますよ。でも解放感で言えばこっちは最強ですね。温かい感じ、かぁ。もしかしたら先輩って、都会よりこっちの方が合うのかもしれませんね」
「そうなのかしら……」
スーツケースを引きながら満面の笑みで言う後輩が眩しくて、藍華はそっと目を細めた。
田舎暮らし。よく雑誌等で見る言葉だが、実際やるとなると苦労もあるのだろう。なによりその土地の人に受け入れてもらうというのが大変そうだ。相手がどんなに懐深い人でも、最初はやはりぎこちなくなってしまうだろう。
けれど休暇であれば気兼ねなく過ごす事ができる。
藍華は空港内に感じ取れる『徳島らしさ』に段々と気分が高揚していく気がした。
今だけは、すべてを忘れてこの土地を楽しみたい、とそう思う。
「先輩、こっちこっち!」
藍華達は一階から三階のカフェやお土産屋があるスペースに上がった。
裕曰く、三階にある展望デッキがお勧めだと言うので立ち寄ると、まるで万華鏡のようなLEDライトに飾られたデッキ内から、つい今しがた自分達が降りた飛行機の圧巻の全体像が見えた。
これは子供が喜びそうだなと思っていると、裕が次はこっちですよーと手招きしてくれる。
「迎えがくるまで時間あるんで、ちょっと腹ごしらえしましょう!」
「いいわね」
朝早くの出発だったため食事抜きだった藍華達は三階のレストランで朝食をとることにした。
裕がお勧めしてくれたのは徳島の海の幸を使った丼物だ。鳴門鯛というブランド鯛を使った漬け丼らしい。
そういえば鳴門の渦潮が有名だったなと思い出す。
激しい潮流の中で育ったという鯛の身は引き締まっていて弾力があり、食べ応えも抜群だった。
お腹を満たした二人は一階に降りて玄関へと向かった。
「あ、外に阿波踊りの銅像があるんで! 写真撮りましょー!」
「ふふ。なんだか裕ちゃんの方が観光客みたい」
「地元帰るの久しぶりなんですよ。なんかやっぱ、嬉しくなりますねぇ」
くすくす笑いながら足早に向かう裕のあとに着いていくと、大人から子供までを象った阿波踊りの銅像がずらりと並んでいた。
先輩こっち、と裕に言われるまま銅像の前でスマホで写真を撮る。
彼女が見せてくれた画面には、生成りの長袖ブラウスにAラインスカート姿の藍華と、淡い水色のパーカーにデニムを着た裕が笑顔で写っていた。
(良かった……私、ちゃんと笑えてる)
写真に映る自分を見て藍華はほっと安堵した。
ここ最近、笑ったつもりでも自信がなかったからだ。
綱昭の前で作り笑いをするうちに、笑顔がどんなものだったのかわからなくなっていた。
正直なところ、記憶とて判然としない。
今まで自分がどう日常を過ごしていたのか、藍華自身よく覚えていないのだ。
全てが膜に包まれたように覚束ない。許容を越えた心が現実に一線を引いているのだろうか。
けれど今は、すべてが鮮明だ。
「先輩、次は阿波踊りポーズして撮りましょ! こんな感じで!」
「ええっと、こうかしら?」
「そうです! 先輩上手!」
さながら女学生のようにはしゃぐ裕と何度も写真を撮りながら、藍華はなんだか修学旅行みたいだな、と微笑ましい気持ちになった。
こんなに楽しいのは久しぶりだ。
あれからずっと強張っていた肩の力が抜けていくような、そんな気がした。
「おっと、先輩ちょっと待ってくださいね」
そうこうしているうちに裕のスマホが鳴り出した。どうやら迎えが来たようだ。
「駐車場に着いてるそうです。行きましょう!」
「ええ」
「あ、迎えに来てるのが言ってた藍染工房の奴なんですよ。あたしのお母さんの同級生がそこのお嫁さんで、迎えに来てるのはその息子なんです」
歩きがてら裕が思い出したように説明してくれる。藍華は頷いた。
「そうなんだ。息子さんとは裕ちゃん仲いいの?」
聞けば、裕はなぜか「うへえ」とでも言うような微妙な顔をした。予想外の反応に、藍華の目が点になる。
「いやー……仲いいって言うか何て言うか……すごい五月蝿い奴なんですよそいつ。職人気質っていうか。あたしとはそりが合わなくて、昔っから喧嘩ばっかしてたんですよねぇ」
「え、なのに今日は迎えに来てくれたの?」
意外に思った藍華が問うと、裕はぶんぶん首を横に振って軽快に笑う。
「いいんですいいんです! どうせ仕事ばっかしてんですからっ。たまには外に出してやらないと手だけじゃなくて全身藍染に染まっちゃいそうなんで!」
それは本人に聞かれたら怒られるのでは、と思ったが裕の言い方からして遠慮のいらない仲なのだろう。藍華にはそういった相手がいないので少し羨ましい。
そんな風に思っていると、駐車場を見回した裕が「あ!」と声を上げた。
彼女の視線の先を辿ると、一台の濃いブルーカラーのSUVが停まっているのが見える。
すぐそばに男性が一人いる。その人の洋服とは違った装いを見て、藍華は目を瞬いた。
「あれですあれ! もー、また作務衣なんかで外出て!」
裕がぷりぷり怒っている。彼女は「一緒にいる人のことも考えてよ!」と文句をつけていた。
確かに男性は藍色の作務衣姿だった。装いのわりに若く、黒い短髪と日に焼けた肌が目立っている。
最近は着物男子なんていうのも聞くが、彼の場合は作業着にあたるのだろう。
こちらからでは男性の背中しか見えないが、その人はしゃがみこんで車の下を覗いていた。何かあったのだろうか。
「何やってんだろあいつってば。おーい! 蒅《すくも》!」
裕が小走りに近付いていく。藍華も慌てて後を追った。
あと数メートルの距離まで来た時、しゃがんでいた男性が顔を上げてこちらを向いた。
黒く艶のある短髪が動き、目が合う。
(えーーー)
瞬間、藍華の胸に強い何かが走り抜けた。
鮮明で、色濃く、強烈な何かが。
それはまるで、布地に一滴の染料が落とされたかのような感覚だった。
やや鋭い三白眼の視線が彼女を貫く。
藍華は目を見開いた。
男性の右目側、頬にかけて焼け爛れたような傷痕がある。
かろうじて目にかかってはいないが、右目下の泣きぼくろを残し髪の生え際あたりまでを傷が広く覆っていた。
けれど傷痕よりも藍華は、彼のその意思の強い瞳に何よりも惹き付けられていた。
七話に続く