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室井の山小屋 5

第5章 3日目…


目が覚めた時には、川添老人の姿はもうどこにもなかった。きっと私の起床を待たずに沢の集落に戻ったのだろう。時刻はまだ7時を回ったばかりだった。昨夜あれほど飲んだにも関わらず気分はいたって爽快だった。自分の朝食と合わせ、キリとタロにも餌を与え、昨日の草刈の続きを始めた。

今日の空模様は曇天…テラス前の庭や小屋周囲の草刈を終え、熊手で苅草をあちらこちらに集めていると、しとしとと霧雨が降り始めた。昨日一日中晴れていたので、今日はバッテリーが使用出来る。持ち込んでいたパソコンとアイポッドを充電している間に、ゆっくりと風呂に入ったが、暫くすると外からけたたましくタロの吠える声が聞こえてきた…

『今度は何事だ?…』風呂から出て、そそくさと服を身に着け、テラスから外を見て、思わず声を上げてしまった…

「おお…」牛だ!

立派な角を生やした黒い巨大な牛が目の前で私が集積しておいた苅草を悠々とんでいる…周囲に民家も農場もない筈なのに、一体どこからやってきたのだろう?…タロは少し距離を置いて、縄張りから出て行けとばかりに吠えて威嚇しているようだが、牛はといえば、全く動じる様子はない。

「おいっ!タロっ!やめとけっ!」私がそう声を掛けると、タロも牛もこちらに視線を向けた。タロは吠えるのをやめ、テラスに上って来たが、どうやら気が気ではないらしく、牛を監視しながらテラス中をうろうろと動き回っている。牛は暫く私を見ていたが、やがて再び目の前の草の山に取り組み始めた…どこかふもとの里から山に迷い込んだのだろうか…それともこの近くに放牧場でもあるのだろうか…

取り敢えず、タロを小屋の中に入れ、窓と玄関の扉を閉めて騒ぎにならないようにした。牛の巨体は雨にうっすら濡れて黒く光沢を放っている。都会育ちの私としては、いくら大人しいとは言え、これ程巨大な生物が目の前にいるというのも妙な気分だ。興奮醒めやらぬタロを落ち着かせる為に、コンビーフの缶詰めを一缶開けた。思い掛けずおこぼれに預かったキリも大満足だ。

雨は霧のようにうっすらと降ったりやんだりを繰り返している。どうやら今日は小屋に篭っていた方が良さそうだ。アイポッドを小さなパワースピーカーに繋ぐ…お気に入りのジャズ女性ボーカリストのハスキーな声が小屋に流れる…

室井が持ち込んだものだろうか、壁に備え付けられた棚には沢山の本が並んでいる。殆どが小説とコミックだ。うっすらと埃が被っているものの、明らかに購入したばかりの汚れのない書籍ばかりだ。これだけあれば数ヶ月はゆうに暇を持て余さずに済むだろう。そう言えばこのところあれほど好きだった読書からもすっかり離れていた。目ぼしい本を3冊程選び出し、サイドテーブルの上に置いた。今日はゆっくり読書でもしていよう…


昼過ぎ…そろそろ腹も減ってきた。何か昼飯でもこしらえようと腰を上げる…窓から外を見る…相変わらず外はしっとりと濡れているが、みたところどうやら牛は姿を消したようだ。どこからやって来たのか分からないが、どうやら帰るべきところに帰っていったのだろう。さて…何を作ろうか…土間に下りて食材を物色していると、うたた寝していたタロが目を覚まし、私の顔色を窺いながら前肢で玄関の扉を盛んに引っ掻く…

「なんだ?外に出たいの?…雨だぜ。ああ…そうか、トイレか…」

引き戸を少し開けてあげると、タロは尻尾を振りながら外に出る…その時外から声が聞こえた。

「あ!タロだっ!」子供の声だった…

玄関から顔を覗かせると、軒下のたたきに子供が二人しゃがんでいた。タロは嬉しそうに二人に擦り寄っていた。

「おじさん、誰?…」振り向いてそう訊いたのは手前にしゃがんでいた女の子だ。多分小学生の低学年位だろうか…ジャンパースカートにクリーム色のブラウス、肩口にお下げを下げ、目鼻立ちのはっきりしたいかにも活発そうな女の子だ。

「僕は…この山小屋に来たもんだけど…そういう君たちは…何処から来たの?」
「俺たち、下の沢から上がって来たんだ。花子探して…おじさん、花子見なかった?」女の子の向こう側にしゃがんでいた少し大きな男の子が立ち上がって私に尋ねた。

「花子?…って、今日は誰も見なかったよ」
「花子は人じゃないよ。牛だよ黒い牛。ねえ、見なかった?」
「牛?ああ、うちの庭にいたよ、さっきまで。1時間くらい前かなあ…でも、いつの間にかいなくなっちゃったよ。あれ、君んの牛なの?」
「ううん。千恵ちえん家の牛。この子ん家。俺はおんなじ村だから…千恵ん家のさ、おばちゃんが一緒に探してきてくれっていうからさ、朝からずっと探して、ここまで登ってきたんだ。この家、誰も住んでないのかと思った。いきなりタロが出てきたからびっくりしちゃったよ。タロっておじさんが飼ってるの?」
「いや、一昨日おとといからずっとここにいついてるんだけど…おじさんもここには一昨日来たばっかりだから…それより、朝からずっとって、君たちお昼ご飯は食べたの?」
「あのね、ひとしちゃんがね、途中でグミとかスグリとか採ってくれたの。それ食べたの、ね?」
「ああ、ここまで来ちゃうと村はもう遠いからな…でも…花子、何処行っちゃったのかなあ…あいつ、すぐ逃げ出すんだよなあ…」

「おじさん、これからお昼ご飯作るとこなんだけど、君たち良かったら食べていかない?ほら、服も少し濡れちゃってるからさ、ちょっと上がって休んでいきなよ。な?」
「仁ちゃん…」千恵と呼ばれた女の子は、私の申し出に、少し緊張した面持ちで訴えるように男の子の顔を見上げた。

「あ、おじさんはね、この山小屋を持ってる人の友達で東京から来た結城真(まこと)っていうんだ。初めまして…知らないおじさんの家に上がったらお家の人に怒られちゃうかな?…じゃあ、雨が上がったらおじさんも一緒にお家まで送って行くから…それで、どう?」
「いいの?」
「いいよ。どうせ暇だしな。そうそう、下の沢っていったら、川添康三さんっていうお爺さんもいるだろ?」
「え?康三って…コウじいちゃん?おじさん、コウ先生の知り合いなの?」
「昨日ふらっと来て、今朝までいたんだよ」
「なんだ、コウ先生も来てたんだ。じゃあ、御馳走になろうか?」
「うん。あたし、お腹空いたっ!」千恵が嬉しそうに答えた。


「ご馳走さまっ!ああ、美味しかったっ!結城のおじちゃん、お料理上手だねえ…」湿った服が乾く間、私が出してあげたブカブカのTシャツを着て、千恵が満足そうに笑顔を浮かべた。
「あはは…上手もへったくれもないよ。缶詰めのカレーだからな…ま、今お茶入れてあげるから、少しゆっくりして、後で雨が止んだら家まで送ってってあげるから…」
「ここ…凄いね…町の家みたいだ…」食事を終え、足元で落ち着いているタロの首を撫でながら仁が部屋を見回す…

2人は地元の小学生だった。沢周辺の子供は2人だけだと言う。月夜見沢には檜原村の小学校の分校があるらしい。話を聞いてみると分校とは名ばかりで、下の沢の空き家を改装しただけの小学校だ。

2人の為に週代わりで村の小学校から教師が派遣される。いわゆる家庭教師に毛が生えただけのような環境だ。月に1週間は2人は村に赴き、校長や副校長の家に滞在して通常の学校授業を受けることが出来る。かつては月夜見沢の入口付近に別の小学校があったらしいが、過疎化が進み、10年以上も前に廃校になってしまった。状況を聞けば聞く程今時この東京にこれほどの教育へき地があることに驚かされる…

驚かされたのは教育環境だけではなかった。彼らの集落にはテレビがない。かろうじて電気はきているようだが、放送波は届かないらしい。電話は住人共用のものが集落に1台のみ。郵便も派遣される学校の先生が週に一度運んでくれるだけということだ。

集落の世帯は僅かに5世帯。人口はたった10人。仁と千恵の家族だけでも合わせて7人なので、残り3世帯は全て一人暮らし。言ってみれば、集落自体が一家族のようなものだ。現代社会からほぼ隔絶された家族だ。

恐らく集落にはさしたる大きな現金収入がないのだろう。皆慎ましやかに主に自給自足の生活を送っている。月に1回町の生活に接している仁や千恵にしても、テレビやアニメ、ゲームや携帯など、今時の子供なら誰もが興味を持つ文明の切れ端にはあまり興味がないようだ。

彼らの興味は沢周辺の自然と集落の人々だ。日々沢や山を歩き四季の変化の中で楽しみを見付ける。特に今は夏から秋への変わり目の季節、森では様々な木の実が採取出来るし、沢では山女魚釣りや川海老や沢蟹の仕掛け漁など、楽しみが多い。日々生活を共にする集落の住人たちとの交流もまた楽しいらしい。

隔週交代でやってくる佳代かよ先生は明るく優しく、先生と言うよりも姉のように接してくれる。もう一人の先生、秦野はたの先生は厳しい。大きな体格に四角い顔の男先生で、秦野先生がいる1週間は宿題も多いし、授業中の行儀や態度にもうるさい。

干し柿、よもぎ団子、葛餅、栗の渋皮煮…和菓子作りの得意なさえばあちゃん。頑固者の川漁師八郎じいちゃん。山のことなら何でも知っている千恵の祖母の千津さん…そして、住人全員の相談役コウ先生…暫く仁と千恵から集落の様子を聞けば聞く程、そこは理想的な別天地のように思えてくる。是非訪れてみたい衝動が沸き起こってくる…


「あ、花子だっ!」窓の外を見て千恵が叫んだ。目を移すといつの間にか戻った花子が庭で再び苅草を食んでいる…

仁が慌てて玄関から外に飛び出した。仁は花子を驚かせないようにそっと近付き、優しく首を擦る…花子も首を上げて仁を見ると、少し安心した様子だった。

「結城のおじちゃんっ!縄ないっ?」牛の傍らから仁が叫んだ。
「たしか…土間の棚にあったな…」そう言って土間に下り、棚の脇に掛けられた細縄の束を掴むと庭の仁に届けた。雨足は幾分か強くなっていた。

「これでいいかな?」
「うん、丁度いいや」仁は手早く縄を解いて肩に掛け、手慣れた様子で端を花子の鼻輪に結び付けた。

「ねえ、そこに繋いでいい?」仁がそう言って指差したのはテラスの端の柱だ。
「あ?ああ…」
「これでよし…と…」仁は花子がそのまま刈草を食べられるように縄の長さを調整して、もう片方を柱に結び付けた。


「どうする?雨、止みそうもねえなあ…」私の問い掛けに、仁も外を見上げた。
「でも…そろそろ帰んないと、着くまでに暗くなっちゃうなあ…」
「千津ばあちゃん、雨が降ったら山をうろついちゃ駄目って言ってるよ…」いよいよ夕刻前を迎えて千恵も不安そうだ。

「別にここに泊まってってもいいんだけど…電話もないし、御家族も心配するだろう?下の沢って、ここから遠いの?」
「結構ある…雨だと道も泥々だし…千恵も一緒だし…2時間位は掛かるかなあ…」
「おじさんが知らせに行ってこようか?俺の分だけなら雨具も長靴もあるし…」
「無理だよお…だって、おじさん、村まで行ったことないだろ?山道はさ、登るより下りる方が危ないんだよ。雨だし…道に迷っちゃうよ」

「そうか…参ったなあ…とにかくさ、雨もだんだんひどくなってる感じだし、君たちだけで帰すわけにもいかないだろう…雨が止むまでここにいるしかないだろう?康三さんもここのことは知ってるんだし、誰か様子見に来るかも知れないし…」
「…そうだね…あ、そうだっ!タロだ。タロに頼もう!」
「え?だって、タロは犬だろ?…」
「タロは一日に一回は必ず村に来てるから…ここから出たらきっと、行くと思うよ。な?」
「うん、昨日は珍しく来なかったから、どうしたんだろうねえって、みんなで言ってたんだよねえ…」千恵も同意する。
「そうそう、でもコウ先生もいなかったから、きっと一緒に山歩きでもしてんだろう…って…なあタロ、ひとっ走り村に行ってきてくれないか?」

仁にそう声を掛けられると、足元に横たわっていたタロは身体を起こし、尻尾を振って嬉しそうに彼を見つめた。
「じゃあ、駄目元でそうしてみるか…」

どうやら他に良いアイデアも思い浮かばない…一応やるだけはやってみようと、私はメモ用紙2枚と鉛筆を2本用意した。

「ほら、おじさん手紙書くから、仁くんも書いてくれる?」
「分かった…」


『月夜見沢の皆さん。昨日川添康三さんと知り合いになりました神竜水源近くの山小屋の結城真と申します。本日、柴田仁くんと涌井千恵子さんの二人のお子さんが牛を探して我が家にやってきました。雨具もお持ちでないし、お腹も空かれていたようなので、雨が止むまでここでお預かりしております。多分今夜はここにお泊めすることになると思います。どうぞ御心配なさいませんよう。 結城真』

『神竜さまの近くの家にいさせてもらってます。花子もみつけました。ゆうきさんていうやさしいおじさんです。ごはんも食べさしてもらいました。千恵も一緒です。 仁』


2枚の紙を畳み、濡れないよう厳重にビニール袋に入れ、タロの首輪に目立つように留めた。タロ自身が果たしてどこまで事情を理解したのかどうかは分からなかったが「よしっ!じゃタロ、頼んだぞっ!」と、仁がテラスの窓を開けると、一声吠えて雨の中に飛び出していった。

第6章につづく…

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