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双葉荘 5

五、新年

時が経つということはそういうことなのだろう…身の回りの様々なことが変化し続けている…私のコラムの原稿は採用になり、暮れに発刊されたインテリア雑誌で私は初めてライターとしてデビューすることとなった。執筆活動にはペンネームを使った。コラム記事の評判はそこそこ良く、年明けを待たずに、社内の他のチームから執筆の依頼があった。

美江の編集の仕事も順調だ。近頃彼女の頭の中はいつも仕事のことで一杯のようだ。私との会話は次の原稿内容のことばかり。今後の編集者としてのステップを考えると、きっと今が正念場といったところなのだろう。

ここに越してきた頃は、この『双葉荘』や百葉の街での生活をどう楽しむか、これから二人の未来を共にどう築き上げていくか、顔を合わせると我々はいつも嬉々としてそんな話ばかりしていた。お互いのスケジュールを何とかやり繰りして、休みの日程を合わせ、一緒に公園を散歩したり、百葉の商店街に買物に出掛けたり、双葉荘の二階から2人のお気に入りの横浜の広い空と遥か遠くの海の風景を眺めながら、のんびりとりとめのない話を交わすのが何よりの楽しみだった。しかし、最近は2人だけのそんな時間もすっかり影を潜めてしまっている。

考えてみれば、2人が付き合い始めてからかれこれ7年。いつも隣に彼女が居るのが当り前になってしまっていた。特に結婚してからの2年間、生活の中心はあくまでも2人の空間で、お互いどんなに仕事が忙しくても、それぞれどんな悩みを抱えていても、必ず2人の空間に戻り、状況を確認し合い、愛情を確かめ合って気持ちをリセットし、再びそれぞれの仕事場に戻っていく…そんな習慣が我々の絆の証でもあったのだ。

2人にとっては、夫婦としての関係が成熟し、もうお互いの信頼を確認する必要もなくなったのだろうか…それとも男女としての愛情が冷めてきたのだろうか…ただ単にフリーになった私が最近家にいる時間が増えているので、美江が1人でくつろげる時間がなく、ストレスが溜まっているのだろうか…いわゆる、これが倦怠期ということなのかもしれない…2人の関係が少しずつ変化し続けていることだけは確かだ。


双葉荘での初めての正月…年末から久し振りに2人揃っての休みだったが、美江はどこか落ち着かない様子だった。休暇初日の30日、彼女は昼過ぎまで起きてこなかった。

午後も暮れの掃除や正月の買物を私に任せ、持ち帰った仕事の書類や資料を確認しては、あちらこちらに電話をしている…2人の間には殆ど会話はなかった。

大晦日には友人と相談があると言い残して出掛けてしまい、帰宅したのはそろそろ年も明けようかという深夜前だった。ダイニングに置かれた小さなテレビは日本各地の古寺が鳴らす除夜の鐘の様子を映し出している…

「ただいま…」
「おう、お帰り。遅かったね。もうすぐ年明けだよ」
「ごめん…遅くなっちゃって…いろいろお話聞いて貰ってたら、ついついこんな時間になっちゃった」
「お腹は?…」
「うん、大丈夫。御馳走になったから…あ、もしかして、待っててくれたの?」
「いや、おそばと天ぷら買ったから…俺の分は先に食べちゃったけど…」
「そうか…大晦日だもんね。ご免なさい…」
「いや、いいよ…」

その時、遥か遠く、横浜港に停泊中の船が一斉に霧笛を鳴らし始める…テレビには大きく『おめでとう!1983年』の文字が映し出された…

「お、年が明けたぞ。明けまして、おめでとう!」
「おめでとう…」美江はこのところ余程大きな悩みを抱えているのだろうか、ずっとこんな感じだ。この双葉荘に越して初めての新年だというのに、何とも覇気がない。

「折角の新年だ。たまには少し飲もうか?」美江を元気付けようと持ち掛ける…
「ごめん…あたし、いいわ。何だか凄く疲れちゃって…」
「そうか…どした?何か調子悪い?…」
「…ううん…ちょっと疲れちゃっただけ…」
「何か、悩んでることがあるんだったら、いつでも聞くぜ…」
「…ありがと…でも、そういうんじゃないの…自分でも良く分からないの。ねえ…」
「ん?…」
「なんであなた、怒らないの?…」
「え?…だって…怒るようなことしてないだろ?」
「してるわよ…」
「え?…」
「してるじゃない!…折角のお休みなのに…あたし、機嫌悪いし…家のこと全部あなたに押し付けて…」
「だって、俺より仕事大変そうじゃない。今が大事な時なんだろ?そう言ってたじゃん」
「そんなの、あなただって同じでしょ?」
「でも…俺はわがまま言って、会社辞めさせて貰ったし、君のお陰でライターの仕事も貰えて、家で出来る仕事もあるし…随分楽になったんだぜ。収入は少し減っちゃったけどさ…凄く感謝してるんだ。だから、家のこと位、別に嫌だと思ってないし…」
「狡いよ…」
「え?…狡い?…」
「そうだよ。あなた狡いよ…自分ばっかり…1人で、どんどん前に進んじゃって…」
「だって…それは君が勧めてくれたんじゃない。君が言ってくれたから、俺、前に進めたんだよ。君の方は違うの?編集の仕事、頑張りたいんじゃなかったの?…」
「あなたはいいよ…才能があるんだから…それに、あたし仕事の話してるんじゃないの。幸せの話をしてるの」
「幸せ?…美江はここに居て、幸せじゃないの?…」
「……分かんない…」
「それって…俺のせい?…」
「そんなの分かんないよ…」
「だって…ここに居ても、幸せじゃないんだろ?」
「だから、そんなの分かんないのっ!狡いよ、そんなに冷静でさ…きっと、あたしのわがままなのよ。今日だって、あたし…男の人と会ってたんだよ。仕事で知り合った人…今日はずっとその人と一緒にいたんだよ。あなたに家のこと全部押し付けて…あなたじゃない人と一緒にいたんだよ。怒りなさいよっ!…怒ってよ…」美江はそう言って俯くと、涙を床に落とした…

「その人と付き合ってるってこと?…」
「そんなんじゃないよ…でも、その人、何でも聞いてくれるの。わがままも愚痴も弱音も、何でも全部聞いてくれるの。あなた、狡いよ…あたしはいっつも聞き役で…仕事が大好きで、あなたを励まして、なんか…あたしがちゃんと前を見てるから大丈夫って…あたし、女だよ。年下なんだよ。そんなのずっとやってられないよ…」

「…そういうこと…なんで俺には言えないの?…」
「そんなの言えないよ…そんなこと言ったら、あなた、本当に悩んじゃうんだもん。あなた、優しいんだもん…あなたが幸せでいてくれなきゃ、あたし、嫌なの…だから言えないの…」
「だって…」
「そんなの分かってるのっ!だから、どうしていいか、分かんないのっ!分かんないよ、そんなの…あたし、頭良くないんだもん…どうしたらいいか、分かんないんだよ…」
「そうか…じゃあ、俺が少し変われれば…」
「そんなの駄目っ!あなたは変わっちゃ駄目なの!あなたが変わっちゃったら、意味がないのよ。あたしは、今のままのあなたが好きなの。だから結婚したのに…一緒に居るとつらいの…だから…どうしたらいいのか、分からないの…ねえ、どうしたらいい?どうしたらいいと思う?」
「……」

想像もしていなかった美江の苦悶を知り、その問い掛けにどう答えたらいいのか思案していると、玄関の呼び鈴が鳴った。美江が扉を開くと、隣の沙季が満面の笑顔を浮かべ、重箱を抱えて立っていた。

「明けましておめでとうございます。本年も宜しく…」
「あら、沙季さん、おめでとうございます。こちらこそよろしく…」
「あ、どうも…おめでとうございます」
「ごめんなさい、まだ下に明かりが点いてたし、お2人揃ってらっしゃるみたいだから…あの…お節作ったんだけど、うち、あたし一人だから、良かったら少し召し上がらないかなって思って…なんか、1人で新年迎えてるのも寂しくなっちゃって…ご迷惑だった?」
「大丈夫よ。うちもお正月って気分じゃなかったの…遠慮しないで上がって、ね」美江はいつもの溌剌とした表情に戻った。
「どうぞ…うちは何にもしてないけど…あ、残り物だけど、年越し蕎麦と天ぷらならあるけど…はは…」

沙季が持ってきてくれた重箱のお節料理は、かなり手間の掛かったものだった。煮染にしめは素材ごと別々に炊かれ、黒豆や栗きんとん、なます、ごまめは手作り。蒲鉾や鱧板はもいた、伊達巻、数の子、炊き海老…古典的に飾り付けられた重箱がテーブルに広げられる…

「おお…凄え…」
「わあ、奇麗なお節…沙季さん、自分で作ったの?」
「蒲鉾と伊達巻以外はね…田舎じゃ毎年母親と作ってたの…栃木の味付けだから、お口に合えばいいんだけど…」
「ねえ、やっぱりお酒飲もうよ。いや、今日ね、ちょっといいお酒買っといたんですよ」
「そうねえ…お正月だもんね。沙季さんも飲むでしょ?一緒にお祝いしよう。ね」

早速、酒の支度も整え、思いがけず、年明けのささやかな宴席となった。私も美江も重かった気分が沙季のお陰で束の間癒え、無事新年が迎えられた気がした。

「…よかった…ふふ…1人で、つまんなかったの。それより、お正月の気分じゃなかったって、どうしたの?夫婦喧嘩とか?…」
「うーん…そんなようなことかなあ…ちょっと…いろいろあって…」美江は少しは気持ちが落ち着いてきたのだろうか、表情を強ばらせることもなくはにかんだ。

「いいなあ…羨ましいわ、夫婦喧嘩が出来て…」
「そういえば、ご主人は年末年始はお帰りにならないの?」
「駄目なの…帰って来られないの…」
「旦那さんが戻って来られないんだったら、沙季さん、ご実家の方には行かれないんですか?」私がそう訊ねると、沙季は少し寂しそうな表情を浮かべた。

「うちは、もう大分前に両親も亡くなったし、兄と妹は関西の方に移ったから、帰るところがないの。親戚ともあんまり付き合ってなかったし…」
「そうか…じゃあ、お正月なのに寂しいですねえ…」
「ねえ、沙季さん、今日は3人でさ、日の出まで一緒に飲んじゃおうよ。折角だから…ね?」
「え?でも…いいの?あたしは嬉しいけど…元旦はご予定があるんでしょ?」
「いいのいいの。明日は2人とも予定ないし…どうせ2人っきりでいたら、また喧嘩になっちゃうし…ねえ」美江が私に同意を求める。
「そうだな。それ、正月らしくていいな…」


沙季のお節は美味しかった…味付けは少し濃かったが、お節料理とはそういうものだろう。酒がすすむ。何しろ酒との相性は抜群だからだ。

お互い杯を重ね、少し酔いが回ったからだろうか。沙季はこの日初めて彼女の連れ合いの話をし始めた。あまり詳しい事情は話したくなさそうだったが、その人となりを少し感じ取ることができた。

「小山でね、知り合ったの…近所のお友達の家にね、暫く、泊まってたの。お家のお手伝いとかしながら…凄く無口な人でね…うふふ…何にも喋んないのよ。今でもそう…たまに帰って来ても、何処に行ってたとか、何してたとか、何にも言わないのよ。あたしが話し掛けると、ああ…とか、いいや…とか言うだけでさ、あたしの顔見て少し笑うの。可笑しな人なの」
「へえ…喧嘩とかしないの?」そう訊いたのは美江だ。

「前はね…したわよ。ここに住み始めた頃…あの人、どの位だったかなあ…2年半ぐらい、ずっとここに居たの。でもね、あたしたち全然お金がなくなっちゃって…だってあの人、全然稼がないんだもん。あたしが、洋品屋さんで働いて…どうするの?少しは働いてよって…あの頃は随分喧嘩したのよ。喧嘩って言っても、あたしが怒るだけなんだけど…でも、そのうちあの人も色んなことしてお金稼いでくるようになって…少しだけど…」
「旦那さん、どんなお仕事されてたんですか?」
「いろいろ…日雇いさんやったり、運送屋さんのお手伝いだったり、出版社からお仕事貰ったり…」沙季は懐かしそうに中空を見つめる…

「出版社?…旦那さんって、編集関係のお仕事なの?」
「ううん、そんなんじゃないの。子供の雑誌に挿し絵を描くお仕事。あの人嫌がってたなあ…それから…ちゃんとお金が入るようになって、あんまり困らなくなったから…そういうお仕事は全部辞めちゃったの」
「ご主人って、今はどんなお仕事してるの?」
「あの人はね、旅だって…自分の仕事は旅なんだって…」
「旅?…どういうこと?…」
「他の人にはあんまり言わないでくれって言われてるから…でもね、旅なのよ。あっちこっち旅して歩いてるの。時々葉書とかが来て、ああ、今はこんなところにいるのかって…そんな感じ?暮れにも葉書が届いて、今は九州にいるから、今年のお正月は帰れないって…」
「沙季さんは、平気なの?」
「あたし?あたしはもう慣れちゃったわ。そんな人なんだもん…ふふ…」沙季はそう言って微笑んだ…

第六章へつづく…

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