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双葉荘 4

四、変化

あれから、『彼』の出現は頻繁になっていった。今では週に2、3回は出会っている。もうすっかりお互い慣れてしまった。出会えば顔見知りなので『やあ』とばかり会釈は交わし合う。しかし、変わらずお互い音は届かないので意思の疎通は図れない。出会う場所は決まって我が家の一階と二階を繋ぐ狭い階段の途中だ。

いろいろと考えてみた。別の世界、別の次元に同じ『双葉荘』という空間があって、『彼』は私と同じ様にそこに住んでいる住人。私の住む双葉荘と彼の住む双葉荘は、決して交わることのない空間であるはずが、たまたま何かの原因で階段の途中一部が交差してしまった。だから偶然二人同時にそこを通る時だけ、お互いが認識し合える…そんな事ではないのかと…しかし、だからといって何かがどうなる訳でもない。私の日常も彼の日常も何ら変わることはないのだ。

『彼』のことは美江には一切話していない。特に実害はないのだから、『彼』を目視できているのが私だけなのなら、不必要に不安がらせたくないからだ。

特に美江は幽霊とか怨霊とかが大嫌いだ。ホラー映画や怪談番組は絶対に観ない。子供向けのテレビの怪獣ものでさえ、始まると直ぐにチャンネルを変えてしまう。これで、この家に幻影の人物が出現するなどと聞いたら、間違いなく一人で家にいることはできなくなってしまうだろう…もしも『彼』に同居者がいるとしたら、多分『彼』も内緒にしているのではないだろうか…

制作部長には何とか分かって貰えた。舞台監督の仕事よりももっと文章を書く仕事を多く経験したいという相談を持ち掛けた。予想通り彼は、脚本の勉強をもっとできるように配慮しようと申し出てくれたが、舞台の脚本以外の経験も積みたいので、今の仕事はもっと自由な立場でいたいと強く願い出た。収入に保証がなくなり、生活が苦しくなってもいいのかと念を押されたが、結局私の強い意思を尊重して納得して貰うことができた。


夏も終盤の9月に入ると、美江の忙しさはピークを迎えたようだった。副編集長に抜擢された新雑誌の創刊号の編集がいよいよ大詰めに入ったからだ。

前の月は私が忙しかった。夏は毎年大小様々な催事が多い。制作部隊を抱えて何日も地方詰めとなることもあるし、少しでも手が空けば直ぐに何処かしらの本番に助っ人で呼ばれたりしてしまう。

その忙しさからもようやく抜け出し、いよいよ来月からは社員の身分からも離れてフリーとなるのだ。立ち回り方が良かったのかも知れない。まずは秋公演のいくつかの仕事も引き続き依頼されている。

10月に入ると特に生活が落ち着いた。会社から仕事は定期的に入ってきたし、舞台監督としての単発契約の話もいくつかある。取りあえずこの数ヵ月の間は心配したほど収入が激減する様子はなかったし、何よりも社員として同じ社内のチームの手助けに借り出されることがなくなったのだ。毎日会社に顔を出す義務もない。社内会議にも呼ばれなければ、嫌だった飲み会や食事会にも縁がなくなった。

デスクワークは家でするのが当り前になる。生活も仕事も全てが家が拠点となるのだ。なるほど…フリーとはこういうことだったのか…その快適さを初めて知った。


「お早う…」朝10時過ぎになってようやく美江が下に降りてきた。
「おう、お疲れ…無事に終わった?そこにコーヒー入ってるよ」
「ああ、嬉しい…頂きまーす…」美江はそう言うと、出しておいたカップにコーヒーを注ぎ、美味しそうに啜った。

「少しは休めるの?」
「うん。今日と土日と3日間。あー、疲れたあ…さあ、休むぞーっ!はーあ…よーしっ、ぐだぐだするぞーっ!ねえ、あなたは?週末は?…」
「ああ、今日は午後から通しだから、そろそろ出掛ける。明日から本番だから…」
「そうか…そう言ってたわねえ…あーあ、折角お休みなのになあ…」
「ま、ゆっくり休んでろよ。バトンタッチってことだな…はは…」
「フリーになっても結構お仕事貰えてるみたいね」
「今んとこはね。結構業界景気がいいみたいだからな…人が足りないんだよ」
「ねえ…そのお仕事が終わったら一度ゆっくり話がしたいんだけど…」
「ん?何?」
「例のインテリア雑誌なんだけどさ、次の冬の号からインテリアと音楽っていうテーマでシリーズのコラムを考えてんのよ。あなた、音楽もそうだけどオーディオとか詳しいでしょ?ライターで企画から参加してみない?時間作れるでしょ?」
「そりゃ、やらせてくれたら嬉しいけどさ…俺なんかでいいの?何の実績もないんだぜ」
「それは大丈夫。出入りしてるライターに適任の人がいないのよ。あなたなら書けると思うわよ。結構ピッタリのテーマだと思うんだけど…創刊号の色校一部持って帰ってきたから、机の上に置いとくわ。時間のある時に目とおしといてよ。ね?…」
「分かった。帰ったら今晩にでも、ゆっくり読んどく。ありがとう…」


3日後の日曜日の夜、都内での本番の後、舞台の撤収作業に立ち会って無事深夜前に仕事を終えた。何人かのスタッフから始発まで飲まないかと誘われたが、終電に間に合う時間なので断り、帰宅した。

美江は3日間の休暇を終え、明日はいつも通り朝から出勤だ。多分もう就寝しているのだろう、玄関と台所のライトだけが灯されていた。ダイニングのテーブルの上には小皿に乗ったきんつば一つとお湯のポット、緑茶のセットが置かれ、メモが一枚添えられていた。

『お疲れさま、沙季さんから頂いたきんつばです。明日は8時頃には出掛けるけど、朝起こしていいかどうか教えて下さい。 良い 悪い』

『良い』に丸を付け、その下に『7時頃ならOK!』と書き加えた。

疲れた身体に熱いお茶ときんつばの甘さが心地良かった…洗面を済ませ、荷物を持って二階に上がった…階段を上がりきった廊下で『彼』とすれ違った。位置が少しずれていたせいか、いつもより実像感は薄かったが、お互い少し立ち止まり、はっきりと会釈を交わし合い、そしてお互いの空間に戻る…しかし、『彼』と出会った余韻がいつもより長いことに直ぐに気が付いた。

廊下の明かりにうっすらと照らされた薄暗い二階の部屋に入ると、そこにはいつもとは違う風景が見えた。全く同じ大きさの部屋なのにそこには見慣れないタンスや卓袱台ちゃぶだいが置かれている。その向こう側には畳の上に何枚か新聞紙が敷かれ、その上にイーゼルに乗せられた描きかけの油彩画のキャンバスが一瞬見えた。

しかしそれらは、私が部屋の電気を灯す前に消滅し、いつもの見慣れた六帖部屋に戻ってしまった…

作業机の椅子に腰掛け、鞄の中から今日までの仕事の資料や台本を取り出し、まとめて机の端に置く…

昨夜も目を通していたインテリア雑誌の色校の場所が変わっていることに気が付いた。多分休みの間に美江が何かを確認したのだろう。その横に様々な単語や名前、簡単な図などが鉛筆でラフに書かれたA4の紙が置かれている…どうやら編集メモのようだ。

そのメモの端に小さく絵が描かれていた。イラスト風の簡単な人物の絵だ。それは…短く刈上げられた髪に丸眼鏡、開襟シャツに太めの作業ズボンを身に着けた痩せ型の男…そう、間違いなく『彼』の姿を記したスケッチだった…


翌朝、美江に起されたのは7時過ぎだった。

「ごめんね、疲れてるんでしょ?」
下に降りるとコーヒーと朝食が用意されていた。
「お、旨そう…サンキュー。腹減った…大丈夫、俺も昨日までの分、仮払い精算して会社に持ってかなきゃだからさ。君は?ゆっくり休めた?」
「うん、ばっちり!3日間超ごろごろしてた。元気百倍よ。ねえ、あれ、目とおしといてくれた?」
「ああ、読んだよ。ちょっとハイクラスで文化的な感じなんだね。いいじゃん。ああいうのこれから流行るんじゃない?…」
「そう…社内でも割と評判いいのよ。で、休み中にね、編集長から連絡があってさ、明日、次の号の編集会議しようって言うんだけど…あなた、時間とれる?」
「ああ、明日は何にも入ってないよ。俺のこと話したの?」
「うん。そしたらね、会議の時に連れて来てくれないかって…もし、スケジュールが空いてれば」
「分かった。いいよ」
「で、どお?インテリアと音楽…何かコラムにできそうなネタ、思いついた?」
「ああ、結構あると思うよ…空間と音楽って割と近いところにあるからねえ。ほら、俺の仕事だってそうだろ?例えばさ…モダンとかポストモダンとかポップとかハイテックとかエスニックとか…普段あんまり音楽に興味ない人だって、音楽をインテリアの一部に上手く使ったら、気持ちいいし、恰好良いんじゃないかな?ジャンルに合わせてお薦めとかもいろいろあるし」
「いいじゃない…そういうのいいわよ…ちょっとさ、文化的な匂いの強いタッチで書ける?」
「多分…書けると思う。うちにもお薦めの音源一杯あるし…それにさ、いよいよ光学ディスクの時代が始まるだろ?新しいオーディオ機器とか、がんがん出るんじゃないかな。あ、今日帰りに秋葉原にでも寄って調べて来ようか?」
「いいわねえ…良かった、あなたに訊いてみて…じゃあ、そんな感じで明日までに少し考えといてくれる?」

「うん、分かった…頑張る…そうだ、ちょっとさ、俺も訊きたい事があんだけど…」
「ん?なに?…」
「上のさ、机の上に置いてあった君のメモ…ほら、雑誌の色校と一緒に置いてあったから、昨夜帰ってから何となく見ちゃったんだけど…」
「ああ、あれ?あれはいつもの雑誌の記事のメモよ。昨日ちょっと資料読んでたから…何か気になった?」
「下の方にさ、男の人の絵が描いてあっただろう?あれ、誰?」
「ああ、あれね…なんかねふっと見たの。家でごろごろしてたから夢でも見たのかも知れないんだけど…」
「どこで?」
「二階よ。ベランダの部屋。卓袱台にね、女の人と二人で座ってて…女の人は後向いてたから見えなかったんだけど、男の人がね、すうって立ち上がったのよ。本当に一瞬だったんだけど…夜とかじゃないのよ。真っ昼間よ…でも、はっきり見えて良く覚えてたから、忘れないように描いといたの。あんな感じの人…何?まさかあなたも見た事あるとかじゃないよね?」
「いや、子供の頃に近所にいたお兄さんに似てたから…ちょっと気になって…」
「そうなの?…ねえ…きっと夢だよね?ね?」
「ああ…きっとそうだろうな…」

第五章へつづく…

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