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少年ジェットがいた日..1


はじめに...

この物語は私が初めて小説を書こうと思ったきっかけとなった人生第1作目の長編物語...

既に50歳を超えていましたが、私にとっては、自分の記憶やアイデンティティーの一部を切り取って、それに脚色を施して、物語を紡ぐという表現方法を発見した瞬間でした。

舞台は昭和34年の東京・品川。
私にとっては、少年時代の強烈な思い出のいくつかを一つの物語として繋いだ最も大切な私小説と言っていいでしょう。

もちろん未発表ですので、ここに連載し、皆さんにお届けします。
どうぞよろしくお願いいたします。


品川マンガクラブ(1)


正治しょうじは砂利の敷地に一列に置かれたコンクリートの敷石を、一つおきに注意深く数えながら、少し奇妙なテンポで跳び石のように踏んでいく...

「いち、にっと、さん、しっと、ご、ろくっと……じゅうはちっ!」敷石を無事にクリアすると、4階建ての新築鉄筋アパートに並んだ二番目の上り口に辿り着く。

まだ乾きたてのセメントの匂いのする壁を指で触りながら階段を上がり、最初の踊り場から背伸びをして外を覗くと、道を挟んだ向いにある木造家の二階の窓が庭の大きな柿の木越しに見える。窓のある部屋はこの家に住む女子高校生の部屋で、時々本を片手に薄手のブラウス姿でうろうろしている彼女の姿を見つけると、子供心に胸の奥が心地よくうずく…
このアパートに引っ越してきて以来踊り場からの覗きは、いつの間にか正治の習慣になってしまっていた。この日は彼女の姿はなかったが、春の青空に勢い良く生い茂った柿の木の葉がさわさわと騒ぎ、爽やかな風が優しく顔を撫でた。

踊り場からさらに階段を上がると、右手クリーム色にペイントされた鉄製の扉の上に『203』の部屋番号と『川村健吉』の小さなプラスチックの表札が掲げられている。ここが2ヶ月前から正治の家となった新しい社宅である。正治はこの新しい住まいが気に入っていた。

サラリーマンである父親の地方勤務が終り、一家が東京に戻ってきたのは一年以上前のこと。当時、品川に新築される予定だった新しい社宅の建築が大幅に遅れ、止むなく都内の祖母の家に、叔父や伯母の家族らと共に十数人の大家族生活を送っていた。
正治と兄の克雄かつおは途中転校にならないように、現在の小学校にバスで通学ということとなった。それが、今年の春にようやく新築の社宅への入居が叶い、一家は窮屈な大家族の生活から晴れて独立を果たすことができたのだ。

暫くの間、バスでの越境通学を続けた正治が一番辛かったのは、転校して、折角仲よくなった学校の友達と放課後一緒に遊ぶことが出来なかったことだった。
昨日はどこそこの空地で誰と誰が決闘した、あそこの駄菓子屋で新しいメンコが売りに出ていた、近所の家で子犬が生まれたから今日みんなで見に行こう、そういった事は全て口づての情報でしかなく、自分はいつも地域社会のエネルギーの外側にいる幽霊のような存在に思えてしまうのだ。

それが社宅への入居で生活は一変する。
新しい社宅は、正治が通う区立小学校に隣接していた。たっぷり40分はかかっていた通学時間は、僅か2分に短縮され、放課後も夕暮れまで思う存分近所の友達と交友を深めることが出来るようになった。

何よりも嬉しかったのは、新しい鉄筋アパートの暮らしの文化レベルの高さだった。3DKの小さな箱の様な間取りだが、清潔な水洗トイレにガス釜の付いたコンパクトな風呂、ステンレスのキッチン台にベランダ、風の強い日でもコトリとも音がしない堅牢けんろうなスチールサッシの窓…
父親は転勤以来宣伝の仕事に配属されたので、テレビの導入はどの家庭よりも早かったし、引越を機に月賦で電気冷蔵庫と電気洗濯機が購入された。まさに昭和30年代の経済成長を象徴する夢の生活の始まりだった。

「ただいまー!」
勢い良くドアを開けて小さな玄関に運動靴を脱ぎ捨てると、「おかえり!」と台所から母の声が響く。玄関から台所への引き戸を開けると、母親がテーブルで雑誌に目を通しながら紅茶を飲んでいる。
「給食費ちゃんと渡した?」
「うん」
「この間のテスト、返ってきた?」
「ううん、まだ。おやつある?」
「昨日加代子おばちゃんから頂いたチョコレート饅頭があるわよ」
「これからね、昌志まさしくん幸夫ゆきおくんと3人で集まるんだ。おやつ持ってっていい?」
「あら、また昌志くんと幸夫くん?仲良しが出来て良かったわね」
「うん。ねえ、昌志くんと幸夫くんの分もお饅頭持ってっていい?」
「いいわよ。持っていきなさい。宿題は?」
「あとでやる。そうだ、今日ね夜、金田かねだくんと菅野すがのくんがテレビ見に来たいって。いい?連れてきて」
「同級生?」
「うん」
「いいけど、何があるの?」
「少年ジェット。7時半から」
「すぐに終るの?」
「30分。ねえ、ロジェのおやつ何かない?」
「ちゃんと晩ご飯食べてから来て貰ってよ」
「分かってるよ。ねえ、ロジェのおやつ」
「そこの缶の中のビスケット少し持ってっていいわよ」
「分かった」
「少しにしてね」
「分かった」

隣の和室に置かれた勉強机の上にランドセルを置くと、中からお気に入りのノートと筆箱を取り出し、饅頭とビスケットをチラシ紙に包んで、正治は家を出た。


アパートから国道に向かって細い舗装路を百メートルばかり歩くと、昌志の家がある。新学期のクラス換えで一緒になった昌志とは急速に親密になり、学校ではもちろん放課後も一緒にいる毎日が続いている。

道から数段の狭い階段を上がると、小さな門の向こう側からロジェが吠える声が聞こえる。ロジェは昌志の家で飼われている大きなコリー犬で、狭い庭の半分に貼られた金網の中で生活している。

「おす、ロジェ」

ロジェはいつもお土産を持ってくる正治のことを承知していて、待ち遠しげに金網に鼻をこすりつけている。正治がいつものように差し錠を外して金網の中に入ると、後ろ足で立ち上がり抱きついてくる。足の悪い正治が思わず地面に尻餅をつくと、長い舌でビチャビチャと顔を舐める。
「ちょっと、待って。ほら、おやつ持ってきたよ」

チラシ紙の包みを空けようとすると、ロジェは行儀良く目の前に座り、興奮醒めやらぬ様子で息を荒げながら、正治を見つめている。ビスケットを差し出してもロジェは決して食べようとはしない。
「ロジェ、よしっ!」の号令で初めて頬張りはじめるのだ。

ビスケットを一枚ずつあげていると、玄関から昌志の母親が顔を覗かせた。
「あら、正ちゃん来てたの?」
「あ、こんちわ。昌志くんは?」
「今ね、宿題やってるからもうちょっと待ってて。正ちゃん宿題は?」
「まだ。帰ってからやる」
「あらそう。一緒にやっちゃえばいいのに」
「いいよ、あとで」
「そう、じゃどうする?上がって待ってる?」
「ううん。ロジェと遊んでる」
「あら、またお土産持ってきてくれたの?悪いわね」
「僕たちの分も持ってきたよ。ほら、お饅頭」
「美味しそうね。おばさんも欲しいな」
「いいよ。僕の分半分あげる」
「まあ嬉しい。じゃあ後でね」と、愉快そうにケラケラと笑って、家の中に入っていった。

昌志の父親はサラリーマンだが、母親は師範女学校出だそうで、夕方にはいつも近所の子供たちを集めて学習塾を開いていた。サバサバした気のいい人だが、こと勉強についてはちょっとうるさいのだ。もちろん昌志はクラス一の優等生である。

ビスケットを平らげてすっかり興奮したロジェを相手に、暫く金網の中でプロレスごっこに熱中していると、昌志が晴れ晴れとした顔で出てきた。

「あれ?宿題もう終ったの?早いね」
「ああ、あんなの簡単だもん。ノート持ってきた?」
「持ってきたよ。おやつも、ほら」
「お、旨そう。上がれよ」
「じゃね、ロジェ。またね」

名残惜しそうに見上げるロジェを残して金網から出ると、土埃を払って昌志の後に続いた。
「おじゃましまーす」
「はい、いらっしゃい。後でジュースあげるからね。おばさんの分のお饅頭残しておいてよ」
「はーい!」

小さな家には不釣り合いの広い和室には、塾の教室に使われる長い机がいくつも置かれ、黒板の前で昌志の母親がせっせと準備をしている。その横の廊下の突き当たりにこじんまりした書斎がある。学習塾が開かれる平日の午後にこの家を訪れるときは、いつもこの書斎に通される。

「ねえ、正ちゃんのノート見ていい?」
「いいよ。昌志くんのも見せて」

二人のノートにはお互いがこれから描こうとしているストーリー漫画のプロットが書かれている。
新しい学級でこの春から同級生となった正治と昌志と幸夫の三人は、漫画好きという一点で瞬く間に意気投合し、3人で『品川マンガクラブ』と銘打って同好会を結成した。放課後にお互いの家を訪問し合い、貴重な蔵書を見せあうことから始まったが、それぞれ独自のオリジナル漫画を描いてみようという創作活動にまで話は盛り上がっていた。

「あははは…なにこれ?」
「これね、敵の子分の一人。宇宙人。弱いよ。すぐ泣くし」
「何持ってるの?」
「ペレペレ銃。撃たれてもね、くすぐったいだけなんだよね。戦意喪失ってやつ」
「ははは、おもしれー」
「この機械すごいね。ごちゃごちゃしてて」
「時空マシンなんだ。どこでもどんな時代にでも行ける。四次元を通り抜けるからね、体の大きさも変えられちゃうんだ」
「未来に行くの?」
「一応ね、まだちゃんと考えてないけど」
「過去もいいよね。忍者と戦ったりしてさ」
「うん、いいねえ。そういうのもいいよねえ」
 話は尽きないのである。

第2話につづく...

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