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双葉荘 3

三、出会い再び...

現在の仕事に就いて5年、舞台監督としてようやく一人前扱いされるようになった。監督とは名ばかりで映画で言えば助監督の立場である。演出家の意向を汲んで舞台回りの諸々の段取りを組み調整していく仕事だ。元々やりたかった仕事ではない。安定した収入が欲しかっただけだ。

たまたまコネを掴んだ就職先がこの業界だったのだ。現場でもそこそこ信頼されるようになり、今ではどんな舞台でも全体を把握して、本番までの段取りを構築できるようになった。会社からも何人かの演出家からも名指しで声が掛かるようになった。

ところが、最近大変なことに気が付いてしまった。どうやら私は舞台の仕事が嫌いなのだ。

演劇、ミュージカル、コンサート、ショーイヴェント…いずれも舞台が好きでこの業界を目指してきたスタッフたちがそれぞれの熱意を傾け、全力で創り上げる一夜の夢だ。エネルギッシュで派手で、大袈裟だ。それは大勢の観客を一定の距離から舞台に惹きつけなければならないのだし、そういう演出意図でもあるのだから、当然の現象であることは百も承知している。別に文句はない。しかし、理解できることと好き嫌いは別の問題だ。

様々な仕事の中で、特に好きになれないのが舞台演劇だ。大袈裟な台詞回しや現実ではあり得ない誇張された立ち振る舞い。『ここを見ろっ』と言わんばかりの照明効果や舞台装置…まあ舞台なのだからそう言ってしまえば元も子もないのだが、好きになれないのだから仕様がない。

しかもこの業界、舞台演劇が好きで好きで仕事に就いた人が実に多いのだ。したがって仕事場全体が常に舞台演劇好きなのだ。仕事自体は概ねチームワークなのだから、自分の指向は押し殺して彼らの指向に合わせていくしかない。

最近は良く付き合う演出家から「川村ちゃん、君ならこの部分どう演出する?」とか、訊かれることがある。『俺は舞台の演出なんか、絶対にやりませんっ!』と言いたいところだが、もちろんそんな事を言ったら仕事にならないので適当にでっち上げて答えておく。すると、「え?それってどういう意味で?」と突っ込まれてしまう。適当なのだから意味などない。「意味よりも、感情の流れって感じですか…」と封じ込める。すると「ふ~~ん…成程ねえ…そういう考え方もあるなあ…」と、妙に納得されてしまったりする。

要するに、仕事が全く面白くないのだ。社内の舞台監督仲間や先輩たちは皆自主的に脚本の勉強をしている。自分でこれといった原作を見付けて舞台用に脚本化してみるのだ。私もやっている。やっていないと社内の評価が下ってしまうからだ。文章を紡ぐ行為は別に嫌いではないし、特に舞台というものに思い入れがないからなのだろうか、あまり思い悩むこともなく書き上げることができる。

その内『川村は書くのが早い』『あいつは書ける』『川村の脚本は演出余白が多くて使い易い』との評価が立ち、最近では簡単な台本を書かされたり、補作を頼まれたりもする。意に反して評価は上がるばかりなのだ。続けていれば、そのうち好きになるのかも知れないとも思っていたが、舞台嫌いの気持ちは日々強まるばかりだった。


「仕事ってさあ、多かれ少なかれそういうもんなんじゃないのお?」商店街の定食屋でビールのコップを片手に餃子を摘みながら美江が言った。
「君もそう?雑誌って嫌い?雑誌読んで、面白いと思ったことないとかさ…」
「ま、それはないわね。元々どっかジャーナリスト指向だから…でもさ、仕事にしちゃうと、好き勝手に書いてりゃいいってもんでもないでしょ?興味ない物や人の記事だって面白く書かなきゃなんないし…仕事にするってそういうことなんじゃないの?芸術家じゃないんだから」
「…そういうことじゃないんだよなあ…俺、本当に舞台嫌いなんだよ。舞台演劇なんて観たいと思ったこと一度もないし…」
「でも、舞台のどういうところが面白くて、どうやったら楽しんでもらえるかとか、そういうことは分かるんでしょ?」
「まあね。周りは舞台好きばっかりだから…あいつらがどんなノリが好きかって、意味は分かるんだよ。じゃなきゃ、仕事になんねえし…」
「それじゃ駄目なんだ?…」
「駄目でしょう…どんどん深みにはまってく感じでさ…好きでもないもの好きな振りしてなきゃいけないんだよ。毎日毎日…」
「そうか…ねえ、あなたのシナリオ、あたし読んだけど、よく書けてるわよ。台詞とかも手慣れた感じだし…脚本の方目指したら?」
「おんなじだよ。評価の問題じゃないんだ。舞台が嫌いっていうか、舞台好きな人たちと話合わせんの、もううんざりなんだよ。ご免な…なんだか愚痴ばっかりでさ。折角の休みなのに」
「いいよ。あたしもここに越してからずっと忙しくて、ゆっくり二人で話もできなかったもんねえ…ねえ、あなた今の会社辞めたら?」美江が突然切り出した。
「え?…だって…俺の給料無くなったら、今の生活維持出来ないぜ。折角いい場所に越せたんだし」
「でも、あなたがそんなに辛いんじゃ意味ないわよ。実はあたしね、10月からの新しい雑誌で副編になるかも知れないの。季刊のインテリア雑誌なんだけど、今の担当と掛け持ちになって、手当ても大分上がるのよ。そしたらあなた、今の会社とりあえず辞めてさ、全く収入がなくなっちゃったら困るけど、フリーランスで暫く何とか繋げない?そのうちあたしがあっちこっち働きかけてライターの仕事取ってきてあげるわよ。どお?」
「雑誌のライターか…そんなの俺に出来るかなあ?…」
「大丈夫よ。記事やコラムなんてあたしだって書けるんだから。あなた、文章力ある方だと思うよ。ま、やってみるだけやってみて、もし向いてなかったら次の仕事探せばいいじゃない。このまま我慢してるより、何とか次の道を見付けたら?暫くのことだって思えば我慢もできるでしょ?」
「そうか…10月までか…」
「フリーになれば、他の仕事もして大丈夫でしょ?」
「そうだなあ…じゃあとにかく、一度会社に相談してみるよ。でも…何て相談しよう…」
「それは自分で考えなさいよ。でも、なるべく角が立たないようにね。暫くは仕事回して貰わなきゃなんだから…」
「分かった…」


早速直属の制作部長とアポイントメントを取り、翌週の水曜日に時間を空けて貰うこととなった。その前日の夕刻、美江から帰宅が遅くなるとの連絡が入った…急に空模様が変わり、ぽつぽつと雨が降り始めていた…夜が訪れようとしていた…明日、退社の申し出をどのように切り出そうか思案を巡らせていた…

そろそろ夕食を摂ろうと冷蔵庫の中を物色していると、呼び鈴が鳴った。扉を開けると、隣の沙季が淡い花模様のブラウス姿で立っている…こういった洋服をどこで見付けてくるのだろう?相変わらずレトロな雰囲気だ。扉を開けて顔を出したのが私だったことが意外だったのか、顔には少し困惑の表情を浮かべている。

「こんばんわ…」
「あ、どうも。久し振りですね」
「あの…美江さんは?…」
「何だか今日は仕事で遅くなるみたいなんですよ。何か?」
「いえ…あの…今日はいつもより早くお帰りになったんだなって思って…最近あんまりお話してなかったから…すいません、ご主人だったんですね…」
「はは…最近はね、俺より家内の方が忙しいんですよ。あ、そうだ。お夕食お済みですか?今、何か作ろうと思って冷蔵庫漁ってたら、実家から貰ったロースハムがあったんで、ちゃちゃっと作ろうと思ってんですけど、少しお持ちになりません?」
「あら、美味しそうですね。今日はおかずどうしようかなって、思ってたところだったんです。まだお買い物にも行ってないし…嫌あねえ…一人だとついついずぼらになっちゃって…あ、そうだ。昼間に野菜スープ作ったんですよ。沢山作ったから、少しお持ちしましょうか?」
「お、いいですねえ。そうだ、もし良かったら、一緒に夕飯食べません?」
「え?…でも…美江さんお留守なのに…」

その時、玄関脇の棚に置かれた電話が鳴った。
「あ、ちょっとすいません」受話器を取る…「もしもし?」
『あ、正ちゃん?ねえ夕ご飯もう食べた?』美江からだった。
「ううん、これからだけど…」
『あのさ、あなた忘れてるかも知れないから電話したんだけどけど…冷蔵庫にこの間のロースハム入ってるの。あれ、そろそろ使わなきゃ駄目よ。沢山あるから沙季さんにもお裾分けしといてくれない?ほらいつも頂いてばっかりだからさ』
「ああ、気が付いてるよ。あのさ、ちょうど今沙季さんが来たんだよ。君が帰ってるんだと思って、顔出してくれたんだって。でさ、夕食まだだって言うから、ロースハムで良かったらご一緒にどうですかって誘ってるんだけど…君がいないから遠慮しちゃって…ちょっと待って、今代わるから…あの、ちょうど家内からです」そう言って沙季に受話器を手渡す…

「あ、沙季です。ご免なさい、美江さんお留守だと思わなくて…大変ねえ、お仕事忙しくて…ええ、元気よ……最近あまりお話してなかったから……でも、いいのかしら?ご主人だけの時に図々しく上がり込んだりして……ええっ?ふふ……そんなことないわよ……うん……嫌あねえ、そんな……本当にいいの?あのね、うちも作り置きの野菜スープがあるから、お持ちしましょうかって……うん……分かった……じゃあ、御相伴させて頂こうかしら……ふふ……大丈夫よ……うん、分かった、御馳走になります……はい、またね……お仕事頑張ってね。じゃ代わります…」

沙季が可笑しさを押し殺した表情でちらりと私を見て、受話器を返した。
『じゃあ、お二人でどうぞ。仲良くし過ぎちゃ駄目よ。人の奥さんなんだから』
「何言ってんだよ。そんなこと言われたら変に緊張しちゃうだろ?…はは…」
『ま、冗談よ。ハムさ、結構な量だから、残ったのも少し持って帰って貰ってね』
「おう、分かった…」
『あたしは…10時頃には帰れると思うわ。じゃね、仕事に戻んなきゃ…』


沙季は最初は流石に居心地が悪そうだったが、食事の用意ができて、ビールを酌み交わし合うと直ぐにいつもの明るさを取り戻した。

今日の二人の話のテーマは野菜だ。沙季が持ち込んでくれた野菜スープが驚くほど美味しかったことと、私が作ったハムステーキ用のトマトソースのレシピを彼女が知りたがったことがきっかけだった。

お互い良く顔を合わせる隣の住人同士だが、気心の知れた友人と言う訳でもない。やはり男女二人きりの食卓である。お互いが男と女を全く意識しないでいられる訳はない。その気まずさを押し隠すように、二人は当たり障りのない食材の話で大いに盛り上がった。この時沙季が育った故郷が栃木県の小山おやまだったことも初めて知った。彼女は産地の野菜がどれ程味わい深いのかを故郷を懐かしむように力説していた。

食事も終わり、片付けを手伝って貰いながら、そろそろお開きの雰囲気となった頃、ふとあの事を彼女に訊いてみたくなった。気味悪がられても困るので、少し事実に手を入れた。

「沙季さんて、ここに大分前からいるんですよね?」
「ええ…そうですね…」
「この間ね、この家の敷地のとこで見慣れない人を見たんですよ」
「見慣れない人?…」
「そう…男の人…ちょっと若い感じで、背は俺より一寸高かったかなあ…痩せ型で、こう髪を短めに刈上げて、今時丸い眼鏡掛けてて…大人しそうな感じの人…沙季さん見た事あります?いや、沙季さんなら知ってるかなって思って…」

この質問に、沙季の顔色が明らかに変わった。どう答えればいいのか、思案しているようでもあった…

「さあ…この御近所にそんな人いたかしら?…」言葉は平静だったが、視線が泳いでいる…
「そう。いや、誰か知らない人が勝手に入り込んでたんなら、不用心だなって思って…」
「あ、もしかしたら、大家さんのとこに出入りしてる植木屋さんじゃないかしら?…時々刈ってくれてるみたいだから、様子でも見に来たんじゃないかな…」
「ああ、そうか…はは…そうかも知れないですね…」


きっと彼女も同じ人物を見た事があるのだ…一人になった一階のダイニングで、沙季が最後の会話の時に見せた表情を思い返し、確信した。しかし、そのことをこれ以上追求しても何の意味も持たないであろうことも分かっていた。

さて、美江が戻るまでにはまだ暫く時間がある。少し仕事でもしようと二階に向かおうとしたその時、再びあの時と同じ気配が階段の上から感じられた。今度は私も慌てていなかった。

そっと階段を昇り始める…途中を右に曲がって見上げると、階段の上に彼が立っていた。以前とほぼ同じ出で立ちで、しっかりと私を見下ろしている…

どの位の時間だっただろうか、今回二人はしっかりと見つめ合った。いや、お互いを確認し合った。細部までだ…彼の開襟シャツに付いた絵の具やインクの小さな染みの数々…よれよれで太めの綿のズボンの裾の繕い跡。シャツの下からは擦り切れそうな古いベルトの端が顔を覗かせている。

彼は前回よりも少し疲れた表情だ。何をしていたのだろう?目の下にはうっすら隈ができ、無精髭も目立つ。彼もじっと私を観察していたが、やがてゆっくり階段を降り、私に近付いて来る…私もゆっくり彼に向って階段を昇る…二人は階段の中程で至近距離で面と向い合った…

「あの…はじめまして…」取りあえず、なるべく親愛の情の篭った会釈をしようとしたが、緊張のせいか卑屈な引きつり顔になってしまった。

「     」彼も何かを言いながら会釈を返したが、やはり音は届かなかった。向こうにも声は届かないのだろう。前回と明らかに異なったのは、実像感だ。半透明よりもずっと実像感が強い。

「あの、よろしく…」と、思わず手を差し伸べた。
「    」彼は私の差し出した右手を掴もうとしたが、中空をすり抜けてしまう…苦笑いを浮かべて『仕方ない…』と言いたげな表情で私を見た。

時間が経っても彼の姿は薄れることはなかった…しかし、それ以上なすすべは思いつかなかった。私は軽く手を上げ、再び階段を昇ろうとすると、彼も同じようにそれに応え「   」と何かを言って階段を降り始めた…そして、消えていった……

第四章へつづく…

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