室井の山小屋 11
最終章 そして…
白い部屋だ…天井も壁も白い、木造の小さな洋室だ…ここはどこだろう……
頭が重い…今まで経験したことのない気怠さが身体を寝床に縛り付けている…目は覚めたものの指一本動かす気力が起きないのだ…じっと上を見つめたまま視野の細部を確認する…誰かが私の傍にいるようだ…気配がする…人が動く物音がする…
「結城さん?結城さん、気が付いたかね?」そう言いながら一人の女性が視野の中に飛び込み、正面から私を見下ろしている…
どこかで見た顔だ…誰だったか?………そうだ…おかみだ…檜原村の『あけぼの屋』のおかみだ…確か…秋山さん……私はいつ山を下りたのだろうか?…何故彼女がここにいるのだ?…私は気力を振り絞り、ようやく口を開いた…
「あの…ここ…何処…ですか?……」
「ああ…気が付いたんだねっ!ここはね、檜原の病院だよっ!ちょっと待ってな、先生呼んで来るから…」
『びょう…いん?…』何故俺が病院?…どこかに病気があったのか?…康三たちに運ばれたのか?…彼らは何処にいるのか?…室井は?…康三は?…
ドアが開く音が聞こえた…50過ぎ位だろうか大柄で恰幅のいい白衣の医師が私を覗き込む…
「結城さーん、気が付かれましたかあ?気分は如何ですかあ?」
「頭が…凄く重いです…」
私の表情を近くから凝視していた医者は、ペンライトで私の眼球を照らし、少しほっとした表情を浮かべた。
「大丈夫のようですね。結城さん、睡眠導入剤を過剰摂取されたようですが、何度も続けてお飲みになりました?結構強い薬ですから、昏睡しちゃったんです。丸2日以上眠り続けてたんですよ。まあ一過性の中毒症状ですから、命に関わるとかそういうことはないんですけど…ああいうものは常用しない方がいいですよ。もっと弱い薬に変えるとか、減薬するとか、した方がいいですねえ。ま、今日はここでゆっくり点滴受けて、明日また診察しましょう。様子が良ければ帰られて大丈夫ですから…ね、分かりましたか?」
「はい…お手数掛けて…すみません…」
「はい、じゃあお大事に…」
どういうことだ?…一体何が起きたのだ?…
「結城さん…、あんた本当に驚かせてくれるねえ。あたしゃ肝冷したよ…」
呆然とする私に『あけぼの屋』のおかみ秋山さんが話し始めた…
それは、私が室井の山小屋に向かった2日後のことだった。
店のレジ周りの整理をしていると、以前貰った室井の名刺を見付けた。主人に見せると、友人の私が立ち寄ったことを知らせようということになり、電話を掛けてみた。
電話に出たのは室井の妻だった。果たして…室井は1年前に亡くなっていた…原因はどうやら癌だったらしい…
秋山夫妻は、持ち主のいない辺ぴな山小屋に向かった私は、もしかすると自殺志願者なのではないかと疑った。一晩迷ったものの、どうしても気になった夫妻は、翌朝雨天の中、2人で山を登り、私が説明した場所を目指した。
そして到着した山小屋で、1人床に倒れている私を発見したのだ。主人が急ぎ山を下り救急隊員を呼ぶ間、おかみは懸命に私を介抱したが、目覚める様子は全くなかったと言う。
私は担架で都道に待機していた救急車まで運ばれ、そしてこの病院に運ばれたのだ。
それからも私は昏睡を続けた…実はもし昏睡がこれ以上続く場合は、設備の整った大病院に移される予定だったらしい。
おかみはずっと付き添ってくれた。小一時間経つと次第に意識もはっきりし、身体を動かすことも出来るようになった。
「あの…本当に、俺以外は誰も居ませんでした?」
「あんただけだよ。あんなとこで他に一体誰がいるっていうのよ?」
「じゃあ、犬とか猫とかは?…」
「いや、見なかったねえ…」
「下の沢に集落がありますよね?」
「前にも話したけどさ、あの辺にゃ集落はないよ…っていうか、住んでる人は一人もいない筈だけどねえ…あんた、誰かに会ったのかい?」
「ええ…川添さんっていう老人の方なんですけど…昔、医者だったって…」
「川添?…何だか聞いた事があるねえ…うーん…思い出せないわ…ま、今日帰ったら旦那に訊いてみるよ。それより、あんた…本当に自殺しようとしたんじゃないんだよね」
「ええ…薬飲んだ記憶もないんです…」
「そんならいいけどさあ…自殺なんてする奴あ馬鹿なんだからね。うつ病だか何だか知らないけどさ、親から貰った命は大切にしとくれよ。それとあんた…なんでムロさんから電話があったなんて言ったんだい?」
「いや、それは本当にあったんですよ。あれは確かに室井さんの声でした。それにあの電話がなきゃ俺、ここに来てないし、こんなとこに山小屋持ってるなんて知らなかったし…そうだ、鍵の開け方まで教えてくれたんですよ」
「おお嫌だ、気味悪いよお…まさかあんた、あそこにムロさんが来たなんて言わないでおくれよ。あ、そうだ、あんたが持ってたリュック、周りにあったもん適当に詰めてここに預けといたからね。もし明日退院出来たら、必ず店の方に顔出すんだよ。旦那も心配してるからさ…」
「はい…分かりました…ありがとう御座います…」
おかみが帰ったのは病院食が配られる夕刻だった。
配膳された病院食はあの月夜見の集落で食べた夕餉とは比べものにならない程味気なかった…
食後は点滴のスタンドを転がしながら、トイレに行ったり病院の中を見て回った。多少の病床を備えた診療所といった規模の小さい、古い病院だった。病棟の受付で、預けていたリュックを受け取り病室に戻った。
リュックのポケットから何となく携帯電話を取り出す。バッテリーの残量は申し分なかったが、連絡するべき相手は誰もいなかった…
月夜見では一度も取り出すことのなかった携帯電話。せめて皆の写真でも撮っていれば…後悔したが、もう後の祭りだ…
消灯時間を迎え、暗くなった病室の白い天井を見つめながら、この数日間私が体験した数々の出来事や私が出会った人々、それと実際に私の身に起きた事とのギャップをどう埋めたらいいのか、どう結論付けたらいいのか、思いを巡らせたが、結局納得出来る答えは何も見出せないまま、いつの間にか眠りに落ちたようだ。
翌朝、自分でも驚くほど爽快に目覚めた。
朝6時の検温が終わると、点滴が外され、さらに自由の身となった。パンとサラダと卵と牛乳の朝食を済ませると、一般外来が始まる前に一階の診察室に呼ばれた。部屋に入ると昨日の医師が待っていた。
「ほう…大分顔色が良くなりましたね。気分は如何ですか?」
「お陰様で、気分はいいです…」
「頭痛や頭が重い感じや吐き気はありますか?」
「いえ…全く」
「食欲は?倦怠感はありませんか?」
「食欲はあります。倦怠感もありません」
「目がかすむことやふらつくこともありませんね」
「はい、全く…」
「はは…どうやら大丈夫なようですね。で、どうしますか?減薬はしますか?」
「ええ、今のところ気分もいいですし、暫く薬の服用はやめようかと思って…」
「ほう…まあそれもいいかも知れませんね。ただまた生活に支障をきたすようなら、直ぐに病院で相談して下さいね。あまり無理しないように、いいですね?」
「はい、分かりました」
「じゃあ、一応念のため、身体の方も診ておきましょう。上着を上げて、ちょっと後を向いて頂けますか?」
「はい…」背中にあてられる聴診器の感触を感じながら、ふとドアの横の壁に掛けられた額に目がいった…額の中は一枚の大判の集合写真だった…それを見て、私の目は釘付けになった…
その写真は、あの月夜見の下の沢集落、涌井家の前で撮られた写真だった。何人かの見た事のない人物に混じって、そこに笑顔で写っていたのは、恭司、昌子、千津、洋次、咲恵…そして最前列には仁と千恵を両脇に従えた康三、その横にいるのは佳代だ…佳代の足元にはタロがいつものように行儀良く座っている…後方には牛の花子も見える…
「どうしました?前を向いて下さい。胸も診ますから…」
「あの…」
「あ、すこし喋らないで下さいね。今聴診器あててますから……はい、いいでしょう」
「あの…そこの写真ですけど…川添…康三さん、ですよねえ?」
「え?川添先生御存知なんですか?」
「ええ…少し…これ、月夜見沢の集落ですよねえ…」
「ええ、川添先生が引退後暮らされていたところです。月夜見の最後の集落でした。先生、ここがえらく気に入っててねえ…ほら、左端に立ってるの私ですよ。先生に言われて暫くへき地診療してましたから。この時と比べると、大分太っちゃいましたけど…はは…あの頃はよく歩いてたからなあ…しかしねえ…まあ5年前にあんなことがなきゃあ、先生まだお元気でいらっしゃったかもしれませんねえ…」
「え?5年前に何かあったんですか?」
「あれ?御存知ないんですか?…5年前の大雨で、沢で山津波があって…あっという間だったらしいですわ…集落ごと呑み込まれて…」
「……亡くなったんですか?…」
「御存知なかったんですか…亡くなりました。集落は全滅です…」
「住人の方全員ですか?…」
「いや…確か…2人だけ、奇跡的に助かった方がいたって…ちょっとうろ覚えですけど…そうですか…川添先生を御存知なんですか…いやあ懐かしいなあ。先生はね、私の師匠なんですよ。若い頃はいろんなこと教えて頂きました。今でも時々会いたくなるんですよ。でね、この写真飾ってるんです。ほら、患者さんの後から先生に見張られている感じでしょ?いい加減な診察したら怒られちゃいそうで…ね?」医師は懐かしそうに写真を差し示した…
退院手続きをして会計を終わらせると、真っ先に『あけぼの屋』に向かった。
秋山夫妻は無事に退院した私を暖かく迎えてくれた。店は平日の午前中ということもあり、暇そうだった。私は夫妻にこの数日、月夜見で私が誰と出会い、どんな不思議な体験をしたのか、詳細に話して聞かせた。もちろん病院の診察室で見た写真のこと、最後の晩に死んだ室井が訪ねてきたこと、そして自分の心境がどう変化したのかについても話した。
夫妻はとても驚いた様子だった。5年前の沢の災害のことも良く覚えていた。主人は診療所にいた頃の川添康三の存在も覚えていたし、室井との付き合いもあったので、信じざるを得ない様子だった。
「で?あんた、これからどうするつもりだい?」
「まず、室井さんの奥さんを訪ねようと思ってます。出来ればあの山小屋譲って貰おうかと思ってるんです。きっと室井さんも、そうして欲しいんじゃないかなって思えて…」
「じゃあ、こっちに住むつもりなんかい?」
「ええ…出来れば…いずれにしろ室井さん訪ねたら、東京のアパート引き払ってこっちに戻ってきますから…その先はここでゆっくり考えようと思って…それでですね、お世話になったついでにお願いしたいことがあるんですけど…」
「なんだい?どうせ乗り掛かった舟だべ。出来ることなら何でも協力すっぺ」主人が言った。
「5年前、山津波で全滅した集落で、2人だけ助かった人がいるらしいんです。その人たちが誰なのか、今何処にいるのか調べて欲しいんですけど…出来る範囲でいいんで…」
「そりゃあ、そんなに難しい事じゃねえ。役場の連中に訊きゃあすぐに分かんべえ」
「お願いします。俺、なるべく早く戻ってきますんで。どうしてもその人たちに会わなきゃいけないような気がするんです…」
「そう…分かったよ。ねえ、結城さん、これから帰んだろ?帰る前にうちの飯食ってきなよ。どうせ病院の飯ゃ不味かったべ?」
「はい、じゃ、ラーメン開化丼セットで…」
「おいよっ!結城さん、あんた、何か雰囲気が変わったねえ…」
再び檜原村に戻ったのは10日後だった。東京のアパートにはさしたる荷物もなかったので、殆どの物は売り払い、廃棄した。目ぼしい物は小包にして秋山夫妻の元に送り、アパートは解約した。村に向かうバスの中で室井の家族に会った日のことを思い出していた…
世田谷の住宅地に建つ低層マンションの一室だった。室井の家族とは初対面だったが、奥さんは室井から私の話をよく聞かされていたようで、歓待してくれた。
11歳の息子との2人暮らしだった。彼女にとっては、多分突拍子もないことと思うだろうが、とにかく室井の山小屋を訪問した経緯や、そこで経験したこと、そして最後の日に室井本人とも会ったことを正直に話した。
ただ単なる妄想や幻覚というだけでは説明出来ない数々の不思議についても付け加えると、彼女は黙って室井の仏壇の引き出しから何枚かの写真を出してきて、その内の1枚を私に見せた。
「最初の日に山小屋に来たキリっていう猫…この子ですよね?」
写真には痩せ細った室井がにこやかにこの部屋のソファに座っている姿が写っていた。その膝の上にいるのは…間違いなく同じ首輪をしたキリだった…
「ええ…この猫です。黄色い皮の首輪に片仮名でキリって書いてありました…」
「これ、主人の最期の写真なんです。この翌日には病状が悪くなって…再入院して…それからはあっという間でした…キリは、主人の四十九日の日に姿を消してしまったんです。きっと山に会いに行ったのね…あたし、室井が結城さんを山に呼んだんだと思います。あの人、よく言ってましたから。一度結城ちゃんを山に連れて行きてえなあ…って…あたしはああいうとこ全然駄目ですから…ふふ…実はね、あたし、お会いしたことはなかったけど、結城さんにちょっと嫉妬してたんですよ。あの人、いっつも、結城ちゃんどうしてるかなあ…ちゃんとやってるかなあ…ってあんまり言うもんだから…」
私が山小屋を買い取りたいと申し出ると、彼女はすんなり了解してくれた。どうせ売ろうにも売れない場所なので、名義の書き換えをしてくれるのであれば対価はいらないと言われた。その代わり、父親と何度か行ったことのある息子がもし行きたがったら、迎えてあげて欲しいと依頼された。
今日はバスの乗客が多い…多分天気の良い土曜日だからだろう…バス停で降り、『あけぼの屋』に向かうと、店の前におかみが立って、こちらに手を振っていた。到着の時刻を知らせておいたからだろう…
「結城さーんっ!よく戻って来たねえ…お客さんがお待ち兼ねだよ」
「え?お客さん?」
「まあまあ、入って入って」おかみが店の引き戸を開く…のれんを潜って店内に入る…
「ほらっ、結城さん来たよっ!」一緒に入ったおかみが声を掛けると、奥のテーブルで主と対面していた2人の女性が振り返った。
「結城さん…」
「結城おじちゃん…ほら、結城おじちゃん、本当にいたよっ」
2人は、5年後の佳代と千恵だった…
「結城さんから探してくれって頼まれた2人だ。直ぐ分かったぜ。檜原に住んでたからな。でもよ、驚いたぜ…2人ともあんたのことよく知ってるって言うからよ…」
「千恵ちゃん…大きくなったねえ…そうか、お父さん似だね。恭司さん大きかったもんなあ…」千恵はもう中学生だった。顔立ちはあのままだったが、背丈はもう隣の佳代と殆ど変わりがなかった。
「結城さんは、全然変わってないわあ…」そう言ったのは佳代だ。佳代も変わらず若々しかったが、30を超えた女性らしい落ち着きを見せていた。私が変わらないのは当たり前だ。彼女たちと会ったのは、ほんの2週間前のことなのだから…
「あたしたち、結城さんはあの時亡くなったんだと思ってたの。でも…誰に話してもそんな人が山に入った形跡はないって…」
「山小屋にも行ってみたんだよ」千恵が言う…
「そう…でも、山小屋はまだ工事中で、誰も住んでないって…持ち主も室井さんっていう人じゃなかったし…一体あたし達が行った山小屋は何だったんだろう…結城さんって誰だったんだろうって…でも、良かった…生きてらっしゃったんですね…」
沢を襲った5年前の山津波…私が見たのはその光景だった…私と沢の人々は5年間の時を超えて出会っていたのだ…生き残った佳代は千恵を引き取り、今も檜原の小学校で教員を続けている。彼女たちにとっては5年ぶりの再会、私にとっては2週間ぶりの再会だった…
1年が経った…月夜見に再び夏が訪れた。
私はあれから室井の山小屋を住処と決めた。
週に2度ほどは檜原に下りて、代理店や出版社に連絡し、ネットで原稿を送る…いわゆる田舎暮らしのフリーライターだ。会社に勤めていた頃よりは収入は減ってしまったが、あまり現金を使うこともないので問題ない。
小屋の周囲には小さな畠も開いたし、頑張って室井の竿での渓流釣りも何とか身に付けた…キリとタロは相変わらず山小屋にいる。2匹が亡霊なのか実体なのか…今となってはもうどうでもいいことだ。そして今や佳代と千恵は私の家族だ。学校が休みの時にはここで3人の時を過ごしている…
今日から夏休みだ…朝の内に到着した佳代と千恵は、留守の間に私とキリとタロが散らかした山小屋の掃除に余念がない…私はその間テラスで一服だ…足元でタロが微睡み始めている…
千恵がテラスに出てきて、空を見上げた…
「大分曇ってきたねえ…」
「ああ…風も出てきたなあ…」
「あの時みたいだね…あ、ほら、あっちの山の上、雨が降ってる…」
「ここもそのうち降り始めそうだな…」
その時、一陣の強い風が吹き抜け、周囲の木々をザワザワと大きく揺らした。タロが耳を立てて周囲を見回す…千恵が森に向かって声を上げた…
「どっどどどどうどどどうどどどう…青いクルミも吹きとばせ……」
[了]
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