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I still don't know whether to consider it a coincidence or fate.

毎年この日になると、多くの方が10年前の今日のことを思い出すと思う。

震災で被災した方々はもちろんだと思うが、やっぱり日本にいる誰もがあの日の出来事に想いを馳せる日なんじゃないかな。

当時僕は大学三年生。建築を学んでいたので、大学の製図室で仲間と制作課題に取り組んでいたところだった。
今日と同じで、結構西日がきつかった印象だ。

別に今日この日に乗っかるとか、そういうわけではないのだけど、冒頭にも書いたように、今日は日本中で10年前の今日について考えてしまう日だと思うので、気を悪くしないなら最後まで読んでもらえると嬉しい。

少なからず進路を変えた震災

僕は新潟出身なので、中学生時代に中越地震、高校時代に中越沖地震を経験した。

どちらも受験勉強真っ盛りの時期だったのをよく覚えている。

10年前の東日本大震災の時は大学3年生で、4月からは研究室に配属されるという狭間の時期だった。

大学も新潟の大学だったので、僕が配属された研究室では、当時中高生だった僕が経験した中越地震や中越沖地震で建設された仮設住宅に関する研究が、地震発生当時行われていたのだ。

当時の仮設住宅は、本当に「仮設」という言葉がピッタリなほど、応急的な作りで、夏は暑く、冬は寒い。隙間風はあるし、結露も酷い。
内装は一見綺麗に作られていたりするが、質はお世辞にもいいものではなかった。

それも当然と言えば当然だ。あくまで仮の住まいである。
つまり、出て行くことが前提なのだ。

この「出て行くことが前提」であるというのは非常に重要なポイントで、今回noteを書く理由の一つでもあるので覚えておいて欲しい。
だけど、もう少しだけ当時の研究について掘り下げて書いていきたい。

生活の知恵

中越地震や中越沖地震の際に建設された当時の仮設住宅は、前述の通り、住みにくいものだった。

しかし、当時の仮設住宅居住者たちは、知恵を振り絞り、さまざまな創意工夫でその住みにくさを克服していたのだ。

それらには、昔から生活の知恵として受け継がれてきたレガシーなものもあれば、仮設住宅ならではの工夫もあった。

中越地震当時の研究室では、それらの工夫をまとめ、他の仮設住宅団地にも情報共有するという試みを行っていた。

東日本大震災への応用、発展

東日本大震災の発生から数ヶ月が経った頃、被災地でも仮設住宅の建設がスタートした。

過去の震災の教訓を活かし、東日本大震災で建設された仮設住宅の中には、非常に居住性能の高いものもあった。

しかし地域差があり、やはり大半は過去の震災とほとんど性能差のないものが多かった。

そうなると、過去の生活の創意工夫を生かせる可能性が出てくる。
僕は、過去の震災で得られた生活の知恵を東日本大震災にも応用し、少しでも仮設住宅での生活の質を高めるための研究を行うこととなった。

支援のその先

ここまで、東日本大震災にまつわる大学時代の研究について書いてみたが、僕はあくまで卒論の研究をしてたまでだ。

もちろん、それが被災された方に少しでも助けになればと思ってはいたが、それでもやはり自分のための行動だ。
目の前には被災して大変な暮らしを余儀なくされている方々がいるのに、仮設居住者の居住環境をより良くするという反面、卒業のための研究対象としているという矛盾。

そこら辺、結構折り合いをつけるのが大変だった記憶がある。

でも今回ここで書きたいのは僕自身の研究うんぬんの話ではない。タイトルがこんな感じなのは、僕が今の道に進むきっかけになったのには少なからず震災での経験が影響しているのだけど、そこではなく、話の中心は「支援」にある。

災害が起きて、多くの方が自分にできることは何か、少なからず考えたはずだ。多分、何ができるか考えて出した答えや行動は、おそらく全て役に立っていると僕は思う。

僕は被災したわけではないから、僕が言うのも変な話ではあるけど、多分そうだと思う。

なぜなら被災地には、何もなかったし、全てが必要だったから。

初めて閖上の沿岸に足を運んだ時は、文字通り何もなかった。あったのは、家の基礎の残骸、瓦礫の山。人の営みがこうも簡単にゼロに戻されてしまうことがあるのかと、ありきたりな言葉だけど、本当に衝撃的だった。

だから全ての支援は、残らず役に立っていたと思う。

ただ、もう一つ大事なことがあることも感じた。
それが「支援のその先」だ。

仮設住宅はその最たる例だと思う。

仮設住宅は仮の住まいだから、いずれ新居に移住しないといけない。
仮設住宅には住める期間が決められている。

つまり、いつまでも居続けることはできないのだ。
これは他の支援にも同じことが言える。

いつかは支援の手を離れて自立して行く必要がある。
これは財源とか物理的なことも少なからずあるが、その人のためでもある。

一番難しくて一番重要な支援が「支援から自立するための支援」だと思う。

僕がアスリート支援と言い続けていることの本質

いま、「アスリート支援」と謳って、YouTubeだったりさまざまな支援事業開発を進めているけど、そこの根本にあって最終的に目指すものというのは「アスリートの自生」だ。

今は個の時代といってもいいくらい、フリーランスや複業という働き方が一般化してきている。

芸能界でさえ、大手事務所から独立し、活動の幅を広げる人も増えている。

その中で、スポーツ界は大きく遅れていると思う。
知名度や影響力の高いアスリートほど、その傾向は顕著だと思う。

所属事務所、所属企業、スポンサー。
これらは全てアスリートを支援してくれる存在だ。

お互いにWin-Winの関係が築けている、ある種完成されたアスリート支援の形といってもいいのではないかとも思う。

しかし、弊害もある。

アスリートが対外的な活動をする際に、彼らの許可許諾がなければ何もできないという点だ。

そのおかげでアスリートは守られているわけだが、果たして、アスリートはその支援を一生受けていけるのだろうか。

恐らくそうではない。

アスリートには引退がある。競技が終わったときに、アスリートはプレーヤーとしてではなく、別な立場やフィールドで生きて行かなかればならない。

そのときに今の支援だけでいいのだろうか、そう考えている。

スポーツも多様化し、アスリートの在り方も多様化していく

スポーツという概念も少しずつ変わりつつある。

スポーツといえば、スポ根的な従来のステレオタイプから、もっとエンターテインメント的な要素や、コミュニケーションツールとしての位置付けが強くなってきているように思う。

でも本質的な部分は変わっていないとも思う。
僕が思うスポーツの本質とは、「追求、創意工夫、継続」にあると思っている。

eスポーツ、ベンチャースポーツ、ストリートスポーツ。
今年開催予定のオリンピックでも新競技が追加されたりしているのをみても、スポーツは進化し、多様化している。

アスリートも、アスリート支援も、見る側も、教える側も、変貌を遂げつつあるスポーツという概念を読み切り、新しく変革して行かないといけない。

僕は、今この時代のスポーツという枠組みに適したアスリート支援の形の提示、そして、アスリートが自生していける環境の構築、ここを目指して活動している。

最後に

東日本大震災から10年が立ち、新しい防波堤が建設されたり、当時お世話になった仮設商店街が役目を終えて幕を下ろしたというニュースをみて、10年という月日を感じた。

3.11という日があることで、何かを思い出し、何かに想いを馳せ、未来を見据えるという行為をしようと思える。

そしてそれが続くことで、この大震災は風化せずに、日本に住む全ての人の心に残り続けると思う。

ただ、人一人にできることは限られているので、僕は僕にできる目の前のことを粛々とやっていこうと思う。

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