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出雲神話7~くにびき神話~

東王家・西王家が成立してから、第四代目大名持には西王家から布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)が、第五代目大名持には東王家から深渕之水遣花(ふかふちのみずやれはな)が就任した。

そして第6代目大名持 八束水臣津野(やつかみずおみづぬ)が西王家から大名持に就任したころ、出雲国は領土をさらに拡大・繁栄した。

領土拡大~くにびき神話~

オミヅヌの名前は奈良時代に書かれた出雲国風土記に登場する。

出雲と名付けるわけは八束水臣津野命が仰った「八雲立つ」という言葉に由来する。だから八雲立つ出雲という。~出雲国風土記総記~

この名付け由来は当然史実とは違うのだが、和歌に使われた枕詞が紹介されている。また、オミヅヌについて有名なのがくにびき神話である。

「この国は何とも狭い国だ。まるで、細長く置かれた布のようだ。」
と憂えて、海の彼方をご覧になると、新羅の国に土地が余っているのを発見されます。

「余っている土地を引いてこよう」
と決断なさると大地に大きな杭を打ち、大きな縄を掛けると、反対側を新羅の国に引っ掛け、ぐいぐいと引っ張りました。
 そして引き寄せられた土地は現在の出雲大社がある杵築(きずき)の岬となり、打たれた杭は佐比売山(さひめやま)となったのです。また、この引っ張るのに使った綱は薗の長浜になったのです。
このあとも命は沢山の島を引き寄せます。鹿島町あたりは隠岐の島から、本庄町あたりは良波(比定地不明)の国から、美保関は能登半島から、その時打った杭は大山となり、引っ張るのに使った綱は弓ヶ浜になったのです。

※画像引用:出雲観光協会

このダイナミックな神話はもちろんファンタジーですが、出雲国が領土を広げていった事を示しています。

伝承によるとオミヅヌ王の時代には、越の国と国交を結んだと言われています。越(こし)とは現代の新潟・富山・石川・福井辺りを差します。

所造天下大神命が越の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのときにおっしゃられたことには、「吾が心の波夜志(はやし)」。だから林という。
-出雲風土記 意宇郡 拝志郷-

出雲風土記に書かれた所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)とはオオクニヌシの事だと解釈されていますが、実際には大名持の事。この越の国平定を成し遂げた大名持はオミヅヌ王の事でしょう。布宇神社から船を出して、越へと旅立たれたオミヅヌ王。はやる気持ちを抱きながらも水平線を見つめていたのでしょうか。

風土記に書かれた越の八口(やくち)とは、現在の新潟県にあたる。

オミヅヌ王の家族

※写真はオミヅヌを祀る長浜神社

オミヅヌ王は神門臣家に養子に来られたと伝えられています。彼の生家は鳥取県気高町八束水(やつかみ)にある姫路神社だと言われています。この神社は彼の母、閇知泥(へちね)と関係があるらしいが、現在は御祭神が変わっている。

遠方の地からわざわざ養子縁組して、大名持に据えるという事は、オミズヌ王がいかに才能ある人だったかが伺える。彼の代に領土は広がり、一家も繁栄している。
オミヅヌにはフテミミ(布帝耳)という妻がいた。現在では長浜神社に仲良く祀られている。

この夫婦には二人の息子がいた。サワケとアタカタス。サワケは神門臣家に残り、彼の息子は後に偉大な大名持となるのだが、アタカタス(吾田片隅)は北九州へ行き、宗像家を興した。

宗像家からは三人の美女が誕生し、出雲の王家に輿入れし、以後交流が盛んになっていった。ムナカタという名前は少し変わっている。古代の人々は九州の形を「人間の体のようだ」ととらえていたようで、出雲に近い方角の東側を人の頭とすると、南側が足、北側は胸や肩だと考えられる。そこで北九州を「胸肩」でムナカタと呼んでいたようである。

越の国との交流

オミヅヌ王の時代につながりを持った越の国。彼らは治水事業を行ったと伝えられている。神門臣家の本拠地である、出雲市知井宮にある比布智神社には越の人々がやってきて土手を整備したと伝えられている。

近くには古志という地名もあり、越の人々が住んでいた事を表している。出雲地方にはこの他にも古志原などの地名があり、越の国との交流が盛んであった事を伝えている。

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