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言葉とお金で分断を生んで、それを行動でひょいっと飛び越える

さよならの成り立ちを聞いた。
さようなら、左様ならば、そうであるならば。

つまり、現状の肯定とうつろいゆくことの肯定を同時に果たし、諸行無常も色即是空も含む超概念ってことみたい。うつくしっ。多用しよ。


教えてくれた友達は、出会ってまだ僅かだし、回数も少ないけど、なんかすごく友達ってところに位置付けるのが自然の人たち。あんまりいないんですけどね、そういう人。近くに来たら話したくなるし、話すとお互い何かを得てるような感じがあるし、でもって別になんでもない話もする。

彼らとの話で自分の口をついて出た言葉が割と自分でも発見だった。
「線引き」の話。

僕たちはいろんな線を引いて生きてる。たとえば、高齢者と若者。男と女。地方と東京。養子と実子。スタートアップとスモールビジネス。日本と海外。被害者と加害者。そういう線引きは基本的には対立構造になるし、その対立構造は互いの味方を作る。そうして線は太くなる。そもそも言葉ってやつは、「何か」と「そうじゃないもの」を強制的に作り出す技術だから、線引きの技術。分断の技術とも言えるかもしれない。その言葉ってやつを僕たちが使い続ける限り、自然と生まれ続けるのが「線引き」なのかもしれない。

言葉以外にもそれはあって、たとえば構造。経営者と社員。株主と経営者。売り手と買い手。そういった、構造上上下になったり、対等になったりするものがある。割と僕はここを遊んでいる気がする。

VC(ベンチャーキャピタル。超簡単に説明すると、お金を集めて、スタートアップに投資する仕事)なんてやってると、構造上は上下みたいなものが生まれやすい。たとえば、僕たちに投資してくれたLPの人たちは、なんとなく上。気を使う存在。蔑ろにしちゃダメな存在。なんかそんな感じになる。普通なら。

だけど別に本当に本当のところはそんなことないはずで、存在に変化はないんですよ。元々好きだった人にLPになってもらってるし、それで生意気言うことがなくなるわけでもない。LPになってもらうときにそういう関係性が崩れちゃうかな?って一瞬考えたけど、いやいや僕らならその構造なんて簡単に飛び越えれるでしょ、みたいな自信も同時に生まれた。そして実際そうできてるような気がする。LPの人に「いやいや、こちとらLPよ!」みたいにつっこまれるのはその証左かなと。

お金とかを扱う仕事をしていると、本当だったら線引きする必要ないのに、勝手に線引きされてるシーンによく出会う。株主とかわかりやすい。エンジェル投資すると、今まで「友達」だったものが、「株主」になる。そうするとそれは「意見を言える人」「意見を聞かなければならない人」みたいになる。別に何も変わってないはずなのに。もちろんお金を出してもらったことへの感謝とか船に乗ってもらったありがたさみたいなやつはあってしかるべきだけど、経営サイドが過度にこの構造上の上下を気にして、相手に不要なラベリングをしているようにさえ見える。それで上手くいくならいいけど、ほんとにその線引き必要?

「買ってもらった」「買ってやった」みたいなときにもこの線引きが生まれてる。なんの関係性もない個人同士が、モノの売買をすることにより、上下が生まれる。ほんとはもっとファジーな関係性があったのに、そこには「売り手」と「買い手」しか存在しなくなったかのような振る舞いになる。不思議。

「お金」というやつ、もっというとこの「資本主義」ってやつは、人との関係性やファジーな何かを、わかりやすい立場やラベリングしやすい「個」に固定する機能があるようにみえる。「私たちはお金を介することで、あなたを特定の個として要素を抜け落として扱いますよ」という合意を資本主義においてはやってるのかもしれない。

これは完全に余談なんですが、スタバ。例によって苦手で、ちょっとその要素を自分なりに分解したんですが、これあれなんですよ、スタバは偽物なんですよ。全部。いや、これ語弊あるな。スタバって一見「お客さんであるあなたのことをちゃんと大事にしてますよ」って全力でバリスタの方が扱ってくれるんですよ。「あなたはお客さんである前に、一人の人です」と。とてもよい。だけどこれ、そういうマニュアルなんです。すごくないですか?「あなたは人です」ってマニュアルにより扱われた「人」ってやつは、ほんとに人なんですかね?ある意味何よりも個を消された存在にされてるのかもしれないと震えました。そのように扱うことで、第三の居場所になってもらうっていう営業方針であるスタバは、本当にあなたのことを見てますか?
(お気づきかと思いますが、この部分は圧倒的に歪んでしまったやまだの穿ったところです。スタバのバリスタさん一人一人は非常に素晴らしい方々で、僕もその笑顔に日々癒されております。いつもありがとうございます)


なんだっけ?
あ、「線引き」ね。

この線引きを、軽々と超えるところに粋のようなものを感じてる気がします。これによって分断を生むかな?と危惧して立ち止まるんじゃなくて、分断を生むかもしれないことをやりながらも、それを軽く超えることで、「ほら、大丈夫だったでしょ?」ってやりたいんだと思う。それが言葉を日々綴る者としての矜持みたいなものかもしらんと思いました。だから、言葉は行動とセット。言葉によって線引き、分断されたものを、行動で越境、統合していく。どっちかだけだと成り立たない。両方あるからこそ、言葉が再定義され、行動がより自由になっていく。そんなことをずっとやり続けたいのかもしれない。


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頭の中がうるさい。でも、それでいいのかもしれない。



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