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「ぼくチョキ出すから、パパはパーだしてね?」が、全てだった。
「ねぇじゃんけんしよ〜?」
こどもにせがまれる。
「おけおけ、いいよ」
「パパがパーで、ハルくんがチョキね!」
んん!!?
「え、そしたらパパ負けちゃわない?」
「うん!」
「ええ〜パパ勝ちたいな」
「いーの!」
「...チョキだしてもいい?」
「そしたらアイコになっちゃうでしょ〜?」
「うん」
「ハルくんが勝ちたいのに、できないでしょ?」
「そうだね」
「だから、パパはパーね!」
ふ、む、、、。
学校における勝負
学校における勝負というのは、基本的にはルールの中で戦う。
同じ時間、同じ場所、同じやり方において結果を比べる。
「テスト」がわかりやすい。
みんなが同じ時間を使って、同じ場所で、同じやり方でテストに挑む。もちろん勉強法とかは様々だけど、勝負の場では一緒。
誰もその場で、スマホで答えを検索したり、誰か詳しい人に電話で聞いたり、全員の答案を覗きに行ったりをしない。
僕らはそんなルールを12年間、もしくは16年間ほどずーーーーっっと守り続ける。特に疑うこともなく。
社会における勝負
しかし、一転、社会における勝負は、なんでもありだ。
成果を出すために、どんな調べ方をしても、誰に助けてもらっても、どんな協力をお願いしてもいい。
もちろんそこで信頼を失うようなことをしたら、次から協力は得られないんだから、そこまで含めて自由。やりたいならやればいい。全部、自由。
学生時代に染み付いた「ルール」が僕らを無意識に制約し、本来ならできていたことを、自分たちが勝手に課したルールでできなくする。
「チョキ出すから、パーだしてね?」
弊息子にそう言われた時、はじめ、なんつー理不尽な要求を...って思ってた。思ってたんだけど、よくよく考えたら、あれ?これってそんなに変なことか?そんな風に思うようになった。
ハルくんは、じゃんけんというものに「勝ちたい」。だから、勝てるように相手にパーを出すという行動をお願いしている。お願いを聞いてくれさえすれば、確実に勝てる。素晴らしい戦略。
父だって、ちゃんとお願いされたなら、パーを出すのも吝かではない。むしろ、それで喜んでくれるなら、積極的に出していきたい。誰も損しない。
じゃんけんというのは、「ポンッ!」の発話まで相手が何を出すかわからないもの、というのはある意味では思い込みで、そこさえ相互に協力することでより良い対応を見つけ出すことはできる。「じゃんけん」という古くから染み付いたルールや作法を勝手に盲信し、本当に欲しかった、本当に達成したかったことを見逃すなんて、ダサすぎる。
「じゃあいくね〜、じゃんけんぽん!」
息子の笑顔を見ながら、あぁこれはほんとに負けちゃったんじゃないか?そんな風に思う休日でした。おあとがよろしいようで。
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