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あをによし やまとの青垣と青柿と コケコッコー【石上神宮】 奈良歩き 山辺の道〈その四〉
長岳寺からスタートした『山辺の道』南ルート後半ですが
その後に寄ったトレイルセンターで予定外の長居をして、
歩き出したのがお昼近くになってしまった。
暑さもかなり。。。
ここからはしばらくほぼ平坦な道を歩きます。
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田んぼの間の道を進み、ちょっと坂を上がったところに
『大和神社御旅所』
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御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡行の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。
大和神社
ご由緒
日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。
また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
この御旅所、天理から歩いた時の一休み地点。
小さいですが広場のような空間があり、
そこになんとも言えない『気』を感じます。
本社『大和神社』にはまだ参拝したことがありません。
ぜひ近々伺います。
この付近に『中山廃寺』があるとのことですが、
何往復もしていますが、いまいちよくわからず、調べてみたのですが
これまたよくわかりませんでした。
柿の木畑をぬけ衾田、萱生町へ。
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ツバメのソーシャルディスタンス
ずっと日陰がない中に現れる、嬉しい休憩所。
夏は藤の蔦がいい日除けに。
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このエリア、西に盆地を見渡せるとても気持ちがいいところ。
山辺エリアで穴師と同じく気になる(住んでみたい)ところですね。
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古い家屋の集落を抜けると
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この神社がまた不思議な雰囲気の神社で、
なんとも言えない感覚を覚えます。
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夜都岐神社を後にし、ここから石上神社まで2.3キロ
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ナスとインゲンを購入
暑い暑い、どこかで休みたい!
ちょうどいいお店が!
天理観光農園
今まで入ったことはありませんが、食事なんかもできたような。
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残念ながら食事は終わっていましたが、カフェメニューならOKとのことで
ソフトクリームで糖分補給。
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生き返った〜!
ゴールまであと少し。
ここを出て少し山に入ります。
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この森を抜けると『内山永久寺跡』
ここは以前は大きな立て看板で、最盛期の境内の地図のようなものの説明があったのですが、なくなっています。
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内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は奈良県天理市杣之内町にかつて存在した寺院である。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。
ここを過ぎれば、石上神社はすぐそこ!
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境内の南か東側になる杜に入っていくと聞こえてきます
コケコッコー
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当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
石上神宮、こちらも奈良との再会で知った神社でして
いろいろ見聞きすればするほど、興味深い歴史と存在です。
名物の鶏たちの自由なこと(笑)
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ニワトリはすでに『古事記』『日本書紀』に登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされています。
広い境内で自由にいろいろな物を啄(ついば)みながら、生息しており、職員も玄米をはじめ野菜など与えています。
神宮と名のつくところでいつも思うのが
参道の杜の清々しいこと!
古い新しい関係なく、どこも神宮の杜を歩くと気持ちが落ち着き
清々しい気分になるのが不思議。
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ということで、ここ石上神宮で山辺の道の南ルートは終了。
のどかな田園風景で、よく日本の原風景とも言われることがあしますが、
まあ、こういう田園風景は他にもあるかもしれません。
ただ、道と同時に歴史が一緒に見聞できるのは
『山辺の道』の醍醐味ではないでしょうか。
大小有名無名関係なく、地域や集落に根付いた寺社仏閣を訪れ、
そのご由緒などを知ることによって
それこそ日本人の原風景的な生活が垣間見られます。
そんなことを改めて思った”山辺の道歩き”ですが
これからまた、より広く深く歩いて見ようと次を計画中!
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いただいたサポートは古道活動に使わせていただき、歩いた記録をお伝えしたいと思っております。よろしければよろしくお願いいたします。