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「夜の郵便配達3」清と由衣1


1.

吉野清は38歳。半年前に妻の由依(ゆい)を亡くしたショックから立ち直れないでいる。一人娘の美唯(みゆい)が心の拠り所で、彼女と一緒の時には穏やかでいられるが、日々勤めに出れば日常の風景に何か虚しさを感じる。

雲ひとつない青空を見上げれば涙し、夕景にはこみ上げてくる悲しみから窒息するような息苦しさを感じた。仕事の帰りに迎えに来た美唯と歩きながら星空を見上げれば、東北のひなびた温泉地で由依と一緒に見た天の川の記憶が蘇って涙が溢れる。そんな父親の涙を見て心配する美唯に「大丈夫?」と問われると、死んだ妻に励まされるようで情けない自分を恥じて無言で泣きながら夜の街を歩くことも多かった。美唯は、容貌も性格も母親に似ていた。

由依との幸福な時間の記憶は、かえって心の穴を広げるだけなのだ。それも時間が解決してくれることは理解している。死んでしまいたくなるほどに辛い悲しみを消すには、新たに幸福な記憶を重ねるしか手がない。それに、まだ幼い一人娘の美唯をしっかりと育てなければ由依に対して顔向けができない。美唯を育てながら悲嘆にくれず自分の仕事に没頭するしかなかった。それこそ由依の願いであるはずなのだから…。

由依は乳がんで死んだ。38歳だった。

ある日、由依は右乳房に違和感を感じた。由依の母親は2年前に乳がんで死んだことから恐怖感が由依の心を包んだ。
「ねえ、右のおっぱいがチクチク痛いの…不安だから乳がんの病院に行ってもいい?」と清に聞いた。清は由依が案外に流言飛語に流されやすいのを知っている。(どうせテレビの健康番組に感化されたんだろう)と、軽く考えて、由依を傷つける言葉を発してしまった。
「お前が乳がんになるわきゃないだろう。お義母さんのことがあるからノイローゼみたいになっているのさ」
「でも…」
「大丈夫だって。俺は忙しいんだから、そんな妄想に付き合っていられないよ」
それでも由依は飯田橋にある大きな総合病院で乳がん検査をしたのだった。

総合病院の外科でマンモグラフィーとエコー検査を行ったところ、石灰化の塊が見えた。
「大きいね、念のために細胞を採って調べてみましょうね」
準備を終えると医師は細胞吸引のための注射器を手にした。

「注射針の先がおっぱいに刺し込まれ時はスゴイ怖かったよ」と由依は言った。

その日のうちに細胞診の結果が出た。ステージⅣの乳がんだった。若いゆえに進行が早かったらしい。由依はその場で泣き崩れた。昔と違って今は患者にはっきりとがん告知するのだ。

担当医師は「右の乳房を全部摘出することになります。脇の下のリンパ節を採って、がん細胞が転移していないか調べないと何とも言えませんが、がん細胞の転移が認められなければ手術後の治療で完治できるかもしれないんです。もちろん再発の可能性もありますが、病は気から…です。前向きな気持ちで治療していきましょう」と言ったという。

由依は生きる希望を、担当医に託したが、それを聞いた清は、由依に「病は気から…」と言った担当医の言葉に汚らしさを感じた。

1週間後に由依は入院した。右乳房の全摘手術の2日前だった。医師は手術の前日に僕と由依にインフォームドコンセントを行った。それは手術方法だけでなく、
術中、術後に起きることの負の可能性を説明するもので、要は「医療ミス以外の何があっても病院や医師の責任は問うことができない」と言っているようなものだった。手術は医師本人と病院の手術数を増やして、専門医、専門病院として名を馳せる…つまり知名度を上げるためのもので病院経営のためだ。

手術は成功したものの、右乳房の全摘手術と同時に行ったリンパ節にもがん細胞が見つかった。つまり、他に転移しているということだった。手遅れだったのだ。

手術後には抗がん剤投薬で由依は苦しんだ。「こんなに苦しいのならいっそ死んだ方がいい」と泣いた。

「患者は、医者が腕を磨くための実験動物だ」と、清は思った。由依が助からなかったのは病院の、担当医師の責任だ…と強い負の意識に囚われた。

しかし、由依の火葬を終えると、彼は病院や医師よりも罪が重いのは自分自身だと思うようになった。毎年、由依に乳がん検診させなかった自分自身の責任だ、否、由依に乳がんを発症させたのは彼女に強いストレスを与えてしまった自分の罪だ…と。

彼は、それから半年も自分自身の罪の意識を抱えこんで過ごしてきた。


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