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災害列島「流言蜚語の恐怖①」

昭和13年(1938)に刊行された戦前の物理学者、寺田寅彦の「天災と国防」は、災害に関する書物の中では、いち早く本質をついたものです。大きな被災を経験するにもかかわらず、また同じ轍を踏んでしまうという人間の本質について書かれています。

寅彦には多くの災害に関するエッセイがあります。「天災と国防」には、以下のように書かれています。講談社学術文庫「天災と国防」(寺田寅彦 著)から抜粋してみます。

人類がまだ草昧(未開の意味)の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物を持ち合わせていなかったのである。もう少し分化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。

文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして重力に逆らい、風圧水圧に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなる位置エネルギー(ある基準面から上にある物体が持つエネルギー)を蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。

もう一つ紹介しましょう。

「被災後の流言蜚語」

災害につきものなのが流言蜚語です。所謂デマです。東日本大震災時にもライオンが逃げたとか原発に関するデマがネット上で発生し、問題になりました。災害時に「心ない者」が『普段、鬱屈して、隙あらば攻撃してやろう』という目的を持った流言蜚語は非常に危険です。現在ではネットでデマが流されやすい反面、本気にする人間も少ないですから修正の余地はありますが、関東大震災発生時には人づてにデマが伝播されていくために、それを正しく修正する手段はないのです。

寺田さんのエッセイに教訓になるものがありましたので抜粋してみます。
                                                          


「もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行なわれたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。ことによるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の元となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも至る処に発生するということは、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから、そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから」

大正12年の関東大震災後には恐ろしい事件が起きました。吉村昭さんの「関東大震災」を参照してみます。

震災時の災害地域には小菅、巣鴨、市ヶ谷、豊多摩、横浜、浦和、千葉などに刑務所がありました。地震と同時に刑務所の建物も倒壊して囚人の脱獄も可能になっていました。刑務所周辺の地域住民は彼らの脱獄を恐れて「東京の刑務所の囚人は一人残らず釈放された」などのいくつもの噂話(流言)が乱れ飛びました。「市ヶ谷刑務所の囚人は焼け残った山の手に潜入して夜になって放火する計画を立てている」「巣鴨刑務所は倒壊し、主人たちが集団脱走を行なって犯罪を犯している」などでした。

刑務所の囚人脱走に恐怖した司法省は、軍隊の出動を求めました。

ここに、当時の歪んだ社会情勢が凄惨な事件を発生させました。

日本は明治43年に自国の領土として朝鮮を併合させたことで、朝鮮人の日本人に対する反感が高まっていました。一方では日本人も朝鮮人を差別の対象としていました。社会主義者だけは朝鮮人労働者との団結を強調し、支援していましたので、これに反感を感じる人間がたくさんいました。震災後には「社会主義者と朝鮮人が放火する」という噂がまことしやかに流されました。当時の日本には朝鮮人労働者がたくさんいました。

震災後に住宅が類焼中であった横浜市本牧で「朝鮮人が放火した」というデマが発生します。それが「保土ケ谷の朝鮮人土木関係者300名が襲ってくる」「戸塚の朝鮮人土木関係労働者200~300名がダイナマイトを持って襲ってくる」という話に拡大しました。

当時、横浜では、震災後の騒乱に乗じて大規模な組織による強盗事件が起きていて、それが横浜市民の不安心をかき乱してデマを鵜呑みにしてしまうのです。組織とは立憲労働党総理の山口正憲という男が率いる集団で、それを見た周囲の不良たちの犯罪意識に火を点けた。一般民家に押し入って略奪を行ないました。

朝鮮人が襲ってくるという流言は、山口たちが広げたものではありませんでしたが、彼らの犯行から、市民の不安感が高まっていつの間にかデマが発生・伝播したモノだと考えられています。

神奈川沖の相模湾を震源とする関東大震災では、東京より横浜の方が震災の被害が酷かったので、横浜市民が東京に避難したことで流言が都内に伝播するきっかけとなりました。大森、蒲田、羽田、世田谷、調布などにあっという間に伝播しました。

9月2日の午後4時頃にはっぴを着て自転車に乗った男が「朝鮮人たち1000名ほどが多摩川を渡って襲撃してきた。警戒しろ!」と「大声で叫びながら大井町方面に走り去りました。この男がデマを撒き散らしていたことは想像できます。他にも川崎ではっぴを着たふたりの男が警察署に来て「300人ほどの朝鮮人に襲われた。至急出動してほしい」と言いました。このうちのひとりは造船所の社宅に住む男で、すぐに逮捕されました。彼らが、もっともらしいデマを捏造したのです。
                                                     震災翌日の2日に発生した流言は、その日のうちに東京を経て千葉、群馬、栃木、茨城などの関東一円に拡がりました。翌日には福島県までに達します。人づてによるデマの伝播力がいかに恐ろしいモノなのかが理解できると思います。

デマを真に受けた人間たちは凶行に走ります。

大丸組という土木会社の出張所があり、そこには朝鮮人労働者40人が働いていました。被災後に同組の鈴木辰五郎の家が燃え、その焼け跡の整理のために朝鮮人労働者34名をトラック2台に乗せて鈴木宅に向いました。無事に整理を終えた帰路の途中に1台は玉川(用賀)付近で青年団員らに停車を命じられ、もう1台は渋谷道玄坂で停車させられ、朝鮮人労働者たちは集団リンチにあいました。

そこに警官たちが到着して騒ぎを抑えたのですが、その現場を目撃した一般市民たちが「事件を起こした朝鮮人たちが逮捕された」と誤解してデマはさらに拡大していきました。

朝鮮人や社会主義者の虐殺事件は東京や近県で発生しました。有名なのが「亀戸虐殺事件」と「大杉栄 虐殺事件」です。Wikipediaから転載します。

「亀戸事件」

東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、9月3日から4日(あるいは9月4日から5日)に習志野騎兵第13連隊によって亀戸署内あるいは荒川放水路で刺殺された事件のこと。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められ、翌日の新聞各紙に大きく報じられた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団の弁護士布施辰治・山崎今朝弥、南葛労働協会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。

このほか、9月3日から5日にかけて数十人の朝鮮人が亀戸署内で殺害された旨の複数の記述が残されており、また上述以外に何人かの日本人や中国人が殺されているともいわれる。

「大杉栄暗殺事件(甘粕事件)」

関東大震災直後の1923年(大正12年)9月16日、アナキスト(無政府主義思想家)の大杉栄と作家で内縁の妻、伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件である。軍法会議の結果、甘粕正彦と同曹長森慶次郎ら5名の犯行と断定されたが、憲兵隊の組織的関与は否定された。亀戸事件と共に代表的な戒厳令下の不法弾圧事件で、地震の混乱で発生した事件の1つ。

つづく


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