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死に逝く者…母の場合

1.

南林間駅前のタクシー乗り場でタクシーに乗って東林間にある病院へ向かっている。
南林間を中央林間に進む途中で母は必ず「ここら辺は変わったわ、こんなにたくさんのマンションやお店ができちゃって…ね」と言う。

車窓の外を見ると僕が住んでいた頃と少ししか変わっていない。変わったといえば、できては潰れる飲食店のカラフルな看板と女子短大入り口交差点にある堅牢な造りの大型のマンションがひとつだけだ。

僕たちを乗せたタクシーは中央林間駅の北側を横切って、町田の街に抜ける中央林間の狭い道を進んでいく。

「凄いね、こんなに家がたくさん建っちゃってね…」また母が言う。
確かにこの辺りはお菓子のような色の建売住宅がまばらに建てられている。それでも街が大きく変わるような印象ではない。最近の母は軽度の認知症を患っているように見える。
「そうだね…」僕はそう答えながら《ここに家を建てられたら母の面倒を見られるのに…》と考えていた。

母は4年前に脳梗塞で倒れた。部屋の中で横になってテレビを見ていた母は突然、吐き気に襲われたそうだ。意識が朦朧としたなかで自分の吐しゃ物で汚れた大きなカーペットを畳んでから東京で働く妹に連絡して、そして、千葉に住む僕にも連絡してきた。脳梗塞の発作に襲われた80歳の老女の行動として普通では考えられない。

僕は慌てた…母に何が起こったのか?このときは脳梗塞とはわかっていない、ただ、気分が悪くなって吐いたと思っていた。急いで神奈川に向かうべきかと迷っていると電話が鳴った。妹だった。母の電話を受けて東京から急いで帰宅中の妹が、新宿駅から僕に電話してきたのだった。

「お兄ちゃんは来なくていいよ、今、自宅に向かっているから…」妹が言って電話を切った。

帰宅した妹が救急車を呼んで母が相模原の病院に運ばれるまで2時間近く経っていたが、奇跡的に助かった。命は助かったが脳に多少の障害が残ったために相模原の病院からリハビリのために東林間の病院に転院した。4年経った今でもその東林間の病院にリハビリ後の定期健診に通っているのだった。今日はその日だった。

母の定期健診には妹が会社を休んで連れて行っていたが、そのうちに妹は会社で忙しい部署に配属されて会社を休むことができなくなったために、代わりに僕が連れて行くことになった。
この日は、妻の請子も一緒だった。請子の父親は一ヶ月前に僕たちが住む街の老人施設で死んだばかりで、請子は自分の親の面倒を見きれなかったことに後悔しており、僕の母の面倒を見たいと言って着いてきていたのだった。

「お義母さん、ほら、病院が見えましたよ」請子が言った。タクシーは東林間の駅前を右折して木立の中を進んでいく。

2.

「運転手さん、ありがとうございました。またね」と、母はタクシーの運転手に挨拶する。母は極端な人見知りのクセに、人に嫌われることを嫌がる。だから、相手が”高齢者だから優しくするのだ”ということを忘れて、人が自分のそばに寄ってきてくれれば異常なほどに嫌われまいとして積極的に話しかけたりする。しかし、耳が聞こえなくなっているから、勝手に自分に都合のよい解釈をして会話が成立しない。母がいつからそうなってしまったのか? 多分、父が死んだ13年前からなのだろうと思う。寂しさは人を劣化させてしまう。

病院の入り口付近に診察券の受付機がある。母は慌てたように「じゃ、請子ちゃん、それを早く受付機に入れてね」と請子を促す。診察券を少しでも早く受付機に通すことで、診察順が早まると思い込んでいるのだ。自分が予約して来院していることを理解していないのだ。

請子も心得たもので素直に「はい」と返事をして診察券を通してから母の手を引いて神経内科に向かう。20メートルほど歩くと神経内科、眼科がある。そこまでを杖をつきながら請子の手に引かれてヒョコヒョコと歩く母は可愛らしい。最近、母を見るにつけ《小さくなったなぁ》そう思う。若い頃には158センチはあったと思うが、今では、同じくらいの身長の請子よりも頭一つ小さく見える。

「それをあっちの機械に通すのよ、請子ちゃん」
「はぁい、お義母さん、わかってまぁっす」
今度は診察券を神経内科のバーコード読み取り機にかざすことで、自分の診察番号券が発行される仕組みで、ここでも母は一刻も早く読み取りさせることで順番が早まると思い込んでいるのだった。
「お義母さん、こっちに座りましょう」
「はいはい」母が請子に促されてソファに腰掛ける。診察室の外のソファには数人の人が診察を待っていた。今日は午後2時からの診察だった。午前中ならば受診客でごった返しているところだが、それを見て僕は少しホッとした。
今日はいつものようにTという医師に診てもらえば、あとは母を実家に送り届けてから千葉に帰宅するだけだ。たまに仕事の悩みを忘れて実家に帰り、母を病院に連れて行くことはストレスの解消になったりする。それだけでなく医師や看護師と話したり病院でいろいろな人間を診ることが楽しいとさえ思えることがある。
「請子ちゃん、まだ呼ばれない? あたしの番号よりもあとの番号の人が部屋に入っているわよ」母が言う部屋というのは診察室のことだ。
「しょうがねえなぁ、母ちゃん、予約制だから受付番号は関係ないって、いつも言ってるじゃん」僕が優しくないことを言うと、請子が「そんなことわかってますよねぇ~お義母さん」優しく声をかける。《ちっ…》僕が心の中で舌打ちをする。
「そうだよ、あたしはわかってるの、わかってるのよ、わかんないのはお前の方だよ」
「なんじゃそりゃぁ…ひどいな」と言うと母と請子が苦笑する。

*写真は、東林間の東芝病院から帰宅途中の母と妻

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