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災害の多様性「流言、フェイクニュースから生まれる悲劇」② 虐殺


「マイアミ・ショウバンドの悲劇」


Netflixで「リマスター マイアミ・ショウバンド」というドキュメンタリー映画を観て初めて6人組バンド、マイアミ・ショウバンドのことを知りました。彼らは人気絶頂期の1975年7月31日に、北アイルランドの田舎町で演奏を行なった帰り道にUVF(アルスター義勇軍)に、車を停められました。メンバーを外に出し、バンドの車に爆弾を仕掛けようとしたのですね。その爆弾はバンドの車がアイルランドで爆発するように設定しようとしていたらしいのですが、何とその場で誤爆してしまうのです。

爆弾を仕掛けようとしていたUVFメンバー2人が即死すると、残ったUVFメンバーたちは露見を恐れたためか、バンドのメンバーに向って発砲します。結局、メンバーのうち3人が死亡、1人重症、1人軽症、1人は別行動のため助かる・・・という虐殺行為を行なったのです。

アルスター義勇軍(Ulster Volunteer Force、UVF)は、アイルランド在住のプロテスタント系住民(ユニオニスト)によって構成された右派民兵組織。北アイルランド紛争おいて、IRA暫定派をはじめとするカトリック系の組織(リパブリカン)と闘争を繰り広げました。

僕は日本に生まれたので民族紛争とか境界紛争とかに遭遇したことがないので(といっても、アイルランドも島国でしたね)理解できませんがね。

でも、日本においても古代には九州王朝、ヤマト朝廷、蝦夷に熊襲に隼人といった民族間紛争が起きていますね。もっと細分化すれば、出雲、吉備とかという部族が存在していましたね。近代では、戊辰戦争後には内戦が行なわれていないので日本人の殆どは民族間平和ボケしているのでしょうね。平和であれば、それで良いのですがね。

「災害、戦争、紛争時の流言による二次災害」

1920年にイギリスのアイルランド統治法によって北アイルランドがアイルランドから分離されて以来、多数派のプロテスタントと少数派のカトリックとの間で宗教対立が始まった。第二次世界大戦後にも持ち越され、1960年代からさらに活発となり、IRAによるテロとそれに対するプロテスタント側の報復が度重なる事態が続いた。1970~80年代には、ベルファストやロンドンデリーなどだけでは無くロンドンなどでもテロと衝突が激しくなり、イギリス政府にとっても最大の国内課題となった。1990年代に入りEUの経済統合が進む中で、国境が事実上消滅したことで融和が進み、1998年にようやく和平が成立、その後両派も武装解除を行い一応の平穏は実現している。

世界史の窓「北アイルランド紛争」より転載

マイアミショウバンドの悲劇の要因は、宗教紛争です。僕に言わせればくだらぬ理由ですが、当事者にとっては違うのでしょうね。

しかし、大正12年の関東大震災後の日本にも同じような虐殺事件が発生しています。それは以前にも「流言蜚語の恐怖」に書きました。

災害のあとや戦争中、紛争中には人を攪乱させる流言蜚語というのが必ず発生します。大正12年には、通信手段は限られていたし、被災後には新聞も刷れない状況で、情報伝播手段としては殆どないといった状況でしたから、流言伝播は難しかったはずなのです。ところが、“朝鮮人および左翼思想者”に反感を感じていた“よからぬ輩”が「朝鮮人と共産主義者、無政府主義者、社会主義者が災害の混乱に乗じて襲撃してくる」などというバカな流言を口伝によって関東だけでなく東北にまで広域に渡ってあっという間に広がってしまったのです。今はインターネットがあるので大丈夫・・・ではありません。デジタルな世の中でも同じような状況に陥ることがあるのです。

ミドリ安全の通販サイト「ミドリ安全.com」が調べた最新の調査でもわかるようにデジタル脳(悪口ではありません)であるはずのZ世代でさえフェイクニュースに欺されてしまうのです。

  • 8月30日付のYahoo!ニュースに「関東大震災朝鮮人虐殺100年」の記事を見つけた。情報元はハンギョレ新聞だ。関東大震災朝鮮人虐殺100年 6644人殺害、組織的な隠ぺい 軍人と警官は処罰せず、自警団は特別赦免・・・という衝撃的な見出し。

荒川の河川敷に100人ほどの虐殺遺体が埋められたそうだ。

その日、この地域の在郷軍人会や青年団などで構成された「自警団」は、橋の入り口に検問所を作り、朝鮮人を探しだした。当時、荒川では大規模な放水路の工事が行われており、安い賃金で雇える朝鮮人労働者が大勢仕事をしていた。  「確か(1923年9月)3日の昼のことでした。四ツ木橋の下の方で朝鮮人を数人ごとに縛り、自警団が殺したんです。じつに残忍な方法で、日本刀で切りつけ竹槍で刺し、鉄棒で殴るなどして殺したんです。お腹の大きい妊婦もいましたが、そのまま刺して殺しました。おそらく30人ほど殺していました」(目撃者の青木氏証言)  自警団だけでなく、日本軍も虐殺に加担した。「22~23人の朝鮮人を機関銃で殺したのが、四ツ木橋の下流の土手でした。あっという間に全員殺したのです。女性も2~3人いました。ひどすぎました。裸にしてもてあそんでいました」(目撃者の大川氏証言)

Yahoo!ニュース 2023年8月30日付 関東大震災朝鮮人虐殺100年「日本、朝鮮人の遺骨掘り起しトラック3台分移送」記事より転載

関東大震災後に起きた「朝鮮人、左翼思想者の虐殺事件」では、そもそも朝鮮人でも左翼思想者でもない一般市民が、即席に作られた自警団によって虐殺されるという事件も多発しました。朝鮮人や左翼思想者は殺されても良いと言うことではないので誤解しないようにお願いします。

なぜ殺されてしまったのか? 方言によって言葉の発音がおかしい、朝鮮人ではないか?ということだけで殺されてしまったのです。

その代表的な事件が現在の千葉県野田市で起きた「福田村事件」です。

「福田村事件」

1923年3月に香川県を出発していた売薬(当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西から各地を巡って群馬を経て8月に千葉に入っていた。
9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県にも緊急勅令によって戒厳令の一部規定が適用され、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるために自警団が組織・強化され、村中を警戒していた。『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女15人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する」「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。
生き残った被害者の証言[3]によると、関東大震災発生から5日後の1923年9月6日の昼ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀利根川沿いで休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた]。福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので駐在の巡査が本署に問い合わせに行った。この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が2発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに15名中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。かけつけた本署の警察部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が生き残った。

Wikipedia「福田村事件」

朝鮮人や共産主義者、無政府主義者、社会主義者の虐殺事件の意味は「ナチスのユダヤ人虐殺」と同じです。要は日頃から“朝鮮人や共産主義者”を軽侮している一部の人たちによる瞬間的な憎悪が表面化した醜悪な事件です。それが増幅して朝鮮人でも共産主義者でもない一部の日本人でさえも虐殺被害に遭っているのです。

そのひとつである福田村(現在の千葉県野田市)事件は、加害者と当時の日本人の常識を疑う虐殺事件でした。香川県から行商に来た何の罪もない人たちが自警団によって虐殺されたのです。朝鮮人や共産主義者だって何の罪もありません。震災後に流れた流言を本気にして一般市民を虐殺する権利など、勝手に結成した自警団などにあるはずがないのです。

腹が立つのは、単なる人殺しである被告人らは「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張し、さらに予審判事が「彼らの量刑は考慮する」と新聞に語るとか、田中村の方では、村が弁護士費用捻出のために村民に金を徴収するという非常識な行動をおこなっています。当時の日本人には常識も道徳もないのです。そもそも当時は「朝鮮人や共産主義者は殺してもいいのだ」という無法者ばかりだったのでしょう。もっと腹が立つのは、受刑していた彼らが昭和天皇即位の恩赦によって出所してしまうことです。もっともっと旗が立つのは、彼らの中心人物が柏市の市会議員になったということです。僕がよく言う「政治家と犯罪者は同じ気質である」ということを裏付けるひとつであると思います。

福田村事件によって検挙されたのは、福田村の自警団員4名および隣接する田中村(現柏市)の自警団員4名。
この8名が騒擾(そうじょう)殺人罪に問われたが、被告人らは「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張しており、また、当時の予審判事は、裁判の前から「量刑は考慮する」と新聞に語っていた。他方、彼らが検挙された頃、田中村の会議で4名の被告人に「見舞金」の名目で弁護費用を出すことを決め、村の各戸から均等に徴収している。
判決は、田中村の1名のみ「懲役2年、執行猶予3年」の第二審判決を受け入れたが、あとの7名には大審院で懲役3年から10年の実刑判決が出された。しかし、受刑者全員が、確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。「中心人物の一人は、出所後、(田中村)村長になり、(柏市に)合併後は市議も務めた」と四国新聞は報じている。

Wikipedia「福田村事件」から転載

黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学2年生だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある。

作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことがわかっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている。

Wikipedia「関東大震災朝鮮人虐殺」より

つづく


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