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災害列島「震災の日」

明日のカルチャースクールでは、「東日本大震災時の受講生さんたちの行動を文章にする」という課題の発表をしていただくのです。で、僕も書かなきゃならなくなったんですね。意識的に「ゆるく」書いており、この文章のどこが悪いのかも意見交換していただくのです。誤字脱字などは「文章校正」の実習になるので、そのままにしております。

 2011年3月11日のことでした。

 その日、僕は神奈川県大和市の実家まで出かけて母の面倒を見ることになっていました。家を出て最寄り駅の東武野田線(今はアーバンパークライイン)鎌ケ谷駅に着いたのは午後2時40分頃でした。

 柏方面のホームに上がって、しばらく電車を待っていると、突然ホーム全体が横揺れし始めました。あとから正確な時間を知ったのですが、地震が発生したのは午後2時46分でした。それは横揺れだけでなく上下左右に大きく揺さぶられている印象でした。ホーム全体がガタンガタンと音をたてています。大きな揺れだったので、はじめは地震だとは思いませんでした。

 鎌ヶ谷駅がいつできたのかは知りませんが、もしかしたら工事の不手際があって、今頃になって倒壊するのではないか?と思いました。そんな勘違いをさせるような生まれて初めて感じた大きな振動でした。左右から巨人がホームの引っ張り合いをしているような、しっかりと立っていることができないほどの経験したことのある地震とは異なる違和感のある揺れでした。

 向かい側のホームを見ると、数人の乗客のなかの女性たちが「キャーキャー」と叫び声をあげて、しゃがんでいます。男性たちはやせ我慢しているのか何も感じていないような素振りで立っています。

 その後も揺れは続きます。ホームへ昇降する階段の上にぶら下がる大きな照明がブランコのように左右に大きく揺れているかと思うと、次の瞬間には電源らしきコードが切れてストンと落ちました。しかし、まだ数本のコードが残っているようで、かろうじてぶら下がって揺れているのでした。それは今にも残りのコードが切れて落下しそうな不安定な様子でした。

 そのとき、駅のアナウンスが流れました。「地震が発生しました。揺れは続いています。危険ですから駅の外に避難してください」と言っていました。

 「ああ、やっぱり地震なのか?」ようやく僕はまだ揺れが続くホームから階段を下りて駅の外に出ました。改札はフリーになっていたように思います。払い戻しがどうであったのか忘れてしまいました。広いバスロータリー側に出ると、避難した人たちは花壇に集まって駅の建物を見ていました。まだ揺れは続いているというか、何度も大きな揺れが発生していました。そんな状態は何ヶ月も続いたように記憶しています。

 とりあえず、携帯電話を取りだして神奈川の母に電話して「地震大丈夫だった?」と聞きました。母は「大丈夫だよ。おおきな地震だったねぇ。あんた、今どこにいるの?」と言うので「まだ自宅の駅だよ」と返事をしました。

 実家にひとりきりでいる母が心配でしたが、「地震で電車が止まっちゃったから、今日はそっちに行けないよ」と言いました。母は「そうかい? わかったよ。とにかく早く家に戻りなさい」と言ってくれました。

 できれば母のそばにいてやりたいと思うのですが、電車が止まっているのでどうしようもありません。「わかったよ。また電話するね」と言って電話を切りました。

 震災時には携帯電話は不通になって通院障害が起きていましたが、当時の僕はPHSを使っていたので、電話で話すことができました。仕事をしているだろう妻にも電話しました。妻は「津田沼の郵便局に避難した。これから駅に行って帰れるかどうか確認してみる」と言いました。

 僕は自宅に戻ることにしました。当時は駅の近くに建つマンションの11階に住んでいました。マンションに着くとエレベーターは停まっていて、非常階段を11階まで上りました。部屋の中に入るとタンスや書棚の引き出しがすべて突き出ていて、中身が室内に飛び出していました。モノで散乱した部屋の中は、泥棒に荒らされたような印象でした。

 真っ先にテレビをつけると、各テレビ局とも地震の報道をしていました。詳細はわかりませんが、大変な状況になっているようでした。

 妻に電話して「さっきの地震は、東北沖で起きた地震らしくて、各地で大変な被害が出ているようだ」と言うと、「駅は電車が動くのを待ってたくさんの人たちがいる」と言う。「どうする?」と言うと、「駅から船橋方面に歩く人たちがいるから私も一緒に歩くよ」と言います。心配でしたがどうすることもできません。「じゅうぶん、気をつけて歩くんだぞ。何かあったら電話して」と言って電話を切ると、部屋の片づけを始めました。3月でしたからまだ外気は冷たく、妻が風邪をひかないか不安でした。妻は乳がん手術をしてから再発もなく元気に生命保険の営業をしていましたが、生まれつき身体が弱いのです。

 それから10分おきぐらいに妻と電話をしながら、部屋を片付けました。そのうちにテレビでは「東北の太平洋沿岸を巨大な津波に襲われた」と大声で伝え始めました。ぼくはひとりきりで船橋に向かって歩く妻が心配でした。窓の外を見ると薄暗くなってきました。5時近くになり、妻はようやく船橋に着き、「会社に戻って状況を確認してくる」と言います。「わかった。ビルの下を歩くときには上からモノが落ちてこないか注意して歩くんだぞ」と言って電話を切りました。

 大きな揺れは何度か続き、そのたびにマンションは大きく揺れて船酔いしているようで気持ちが悪くなりました。テレビニュースを観ながら妻のことを心配するのですが、どうにもできないのです。そのうちに妻から「船橋駅からバスに乗って鎌ヶ谷大仏駅まで行く」という連絡がありました。

 詳しく聞くと、バス停で「東武野田線の鎌ヶ谷駅に行きたい」という女性と一緒になり、その女性を鎌ヶ谷大仏駅から歩いて案内するために一緒にバスに乗ることになったらしいのです。あとから聞いたのですが、電車は動いていないので、野田線で鎌ケ谷方向に向う乗客と一緒になりギュウギュウ詰めで、立ちっぱなしだったようです。

 ようやく自宅に戻った妻は疲れた様子で「トイレを大仏駅まで我慢したのよ」と、その場に座り込んでしまいました。

 「大変だったな。寒かっただろう?しばらく休んだら風呂に入って寝なさい」と言うと「うん」と言いながらテレビの震災報道を観て、各地の状況に驚いていました。帰宅困難者のことが伝えられると、自分と重ねて「みんな大変なのね。大仏のコンビニでトイレを借りるために並んだのよ。それから女の人を鎌ヶ谷駅まで送ってきたの…すごく歩いたのよ」と呟くように言ってため息をつきました。

 僕は津田沼から船橋まで歩き、事務所に立ち寄ってからバスで鎌ヶ谷大仏まで乗車したあとに、鎌ヶ谷大仏駅から鎌ヶ谷駅まで歩いている妻の姿をイメージして、彼女の疲労感が全身に伝わってくるのでした。



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